――二宵の鐘が、遠くで聞こえる。
 辺りはすっかりと闇に沈み、庭の灯篭が、池の水面(みなも)に揺れていた。
 ここは、後宮の一角にある槍峰苑(そうほうえん)。六つの庭のひとつである。
 白い牡丹が月明かりを弾く、夜でさえ華やかな庭だ。
 庭の真ん中に、ぽってりした形の四阿(あずまや)がひとつ。灯りがぽつりと浮いている。
(すい)(ぎょく)、終わったぞ」
 庭を抜け、四阿に入ってきた背の高い青年は、明啓(めいけい)だ。
「お疲れ様でございました」
 手燭を持って一礼したのは、翠玉だ。
「そなたに言われたとおり、(せい)(しょう)殿(でん)を出て、北列の東端の……」
(こう)(うん)殿(でん)です」
「そうだ。紅雲殿の横を通り、そのすぐ南にある庭を……」
(そう)(ちょう)(えん)です」
「よく覚えているな。それで、この宵の散策にどんな意味があるのだ?」
「人の耳がございますので、戻りましてからご報告いたします。念のため、まっすぐ斉照殿には向かわずに、南列をぐるりと迂回して移動しましょう」
 明啓を置いて、翠玉は先に歩き出した。
 歩幅がずいぶん違うので、後ろにいたはずの明啓は、すぐ横に並んだ。
「ここに来て二日とは思えんな……俺より後宮に詳しい」
「陛下が(うと)いだけでございましょう」
 斉照殿の外である。人の耳を警戒して、翠玉は、明啓、とは呼ばなかった。
「しかたあるまい。あえて避けているのだ。俺のものではないからな」
 明啓も警戒している。この後宮は弟のものだ、とは言わなかった。
「四神賽の示した範囲にあるのは、六殿、三苑。そして三夫人だけ。それくらい、覚えていただかなくては困ります」
「反論の余地なしだ。すぐに覚えよう」
 槍峰苑を出て、まず南に向かう。
 太妃たちの住まう万緑(ばんりょく)殿で角を曲がり、東方向へと進んでいく。
「夫人がたの反応は、いかがでした?」
 明啓が、翠玉の指示に従って通ったのは、三つの庭だ。
 紅雲殿の南にある、(そう)(ちょう)苑。
 (きん)()殿の北にある、(ひゃっ)()苑。
 (はっ)(こう)苑の南にある、槍峰苑。
 まっすぐに東から西に歩けば、その三つの庭を通過できる。
「いずれも東から、建物は、紅雲殿、菫露殿、白鴻殿。夫人は、(じょ)夫人、(きょう)夫人、(しゅう)夫人、の順です」
 後宮に疎い明啓のために、翠玉は指を折りながら説明した。
「紅雲殿では、窓に姿が見えた。菫露殿では、声だけが聞こえた。白鴻殿では、琴の音が聞こえていた」
 琴の音は、槍峰苑で待機していた翠玉の耳にも届いている。おかげで待機時間が短く感じられたものだ。
「……なるほど」
 三人の夫人は、それぞれに個性のある反応をくれたようだ。
「徐夫人に、姜夫人に、周夫人か……」
 明啓は、指を折って復習している。
 やはり生真面目な人だ。翠玉は小さく笑む。
「覚えるのは簡単ですよ」
「まったく簡単ではない。庭の名も多すぎる」
 最初こそ速足だったが、明啓はやや歩みを遅くした。
きっと翠玉が小走りになっているのに気づいたからだろう。背の高い明啓と、小柄な翠玉では歩幅に差がある。
(明啓様は、存外お優しい)
初対面の時の強引さが、信じられない思いだ。
「元になる、神話があるのです」
「……神話か」
「はい。六殿のうち、東列にあるのが紅雲殿と(とう)()殿。間にあるのが双蝶苑です。(あかつき)の女神が、朝の参拝に遅れた番の蝶を、橙花の陰に隠してやった、という神話があります。そこから、暁の女神は恋人たちの守護者になったのです。夜明けの紅い雲と、番の蝶。そして蝶の安らう橙色の花。――覚えやすいと思われませんか?」
「そんな話は初耳だ。……たしかに神話を知っていれば、覚えやすいな」
「私は、父に教えてもらいました。きっと南方に伝わる神話なのでしょう。北の港町出身の継母と義弟は、今の話を知りませんでした」
 中原の北と南では、崇める神の名も違う。言葉の発音、文化だけでなく、人の体格も違っている。北の人は概ね大きく、南の人は概ね小さい。宋家は北。江家は南。今、明啓と翠玉が並んで歩いているだけでも、その体格の差は明らかだ。
「なるほど。紅雲殿と、橙花殿。間にあるのが双蝶苑か。よし、覚えたぞ」
 ぽん、と明啓は手を叩く。
 明啓が笑顔で「他はないのか?」と聞くので、翠玉もつられて笑んでいた。
「では、中央列に移りましょうか。翡翠(ひすい)殿と菫露殿の間は、百華苑。これも元になる神話がございます。花の女神から生まれた、いずれ劣らぬ美貌の姉妹の神の名が、(すい)(じょう)(きん)(じょう)というのです。彼女たちの暮らす世界が、百華苑といいます。彼女たちはよく喧嘩をしては仲直りをして、周りを振り回すんです」
「神も喧嘩ばかりだな。いや、人も同じか。兄弟姉妹というものは、喧嘩をしながら育つものだ。ふむ、面白い。翡翠殿と菫露殿。間にあるのが百華苑。もう覚えた。すると……西列にある白鴻殿と――」
(そう)()殿です。間にあるのは槍峰苑」
「なるほど……さながら――雪を頂く険しい山に、豊かな水を(たた)えた湖。そこで安らう一羽の白鳥の物語、といったところか」
 顎に手を当て、明啓は真剣な表情で推測を述べた。
「神話の舞台はおおよそ、ご想像のとおりでございます。()(がみ)に見初められるも、その愛を拒んだ女神が自らの姿を白鳥に変えて逃れる、という神話です」
「……無理強いはよくないな。性質(たち)の悪い男神だ」
 生真面目な明啓らしい感想に、翠玉は小さく噴き出した。
 神話の男神という男神が、明啓のように優しければ、女神も逃げずに済むだろう。
「まったくです」
 そんな話をするうちに、南列の三殿を過ぎ、角を曲がっていた。ここからは北へ向かい、斉照殿に戻る。
「そなたは、若いながら知恵があるな。感服する」
 明啓は、加冠直前なので十九歳。翠玉とはひとつ違いだ。
 昨夜も李花に若い、と言っていたので、比較しているのは、離宮で彼の周りにいた人々なのかもしれない。
「一介の占師でございます。おからかいくださいますな」
 先帝の時代から、皇太子の優秀さは下馬(げば)()でも知られていた。
 どちらがどちらでもよいように育てられたのだから、双子はどちらも同じように優秀なのだろう。――弟は優秀な男だ、と明啓は言うが。逆の立場ならば、逆のことを言うのではないか、と思う。
 そんな相手に評価されるのは、ひどく気恥ずかしい。
「老師を思い出す。……数年前、離宮を抜け出して、山の猟師と懇意になった。身分は隠してな。弓矢の扱いや、獣のさばき方を教えてもらったのだ。猟師には猟師の知恵がある。占師には占師の知恵が。その道を専らに歩む者の知恵は尊い」
 翠玉は、明啓の言葉に感心した。
(謙虚な方だ)
 高貴な人は、己の尊さに(おご)り、弱者を見下す者ばかりだろう、と思っていた。
 まして、二百年も三家を赦さなかった宋家の皇族など、その代表のはずだ。そんな明啓の口からこぼれた謙虚な言葉に、翠玉は態度に出さずに驚く。
(もし明啓様がいらっしゃらなかったら、賊に殺されて、今頃、()(きん)と一緒に廟に祀られていたかもしれない)
いきなり、妻になってくれ、と言われた時には、その強引さに驚いたが。
 だが、彼がいなければ、この危うい賭けに挑むことさえできなかったのだ。
(間違いない。これは、得難い幸運だ)
 明啓の強引なほどの行動力と、占師の知恵を認められる大らかさが、翠玉をこの場所へと導いた。これは、僥倖と言っていい。
「非才の身ながら、全力を尽くします」
「謙遜は要らない。貴女は俺に希望の光を見せてくれた。女神のような人だ」
 見上げる明啓の表情には、明るい笑みがある。
(強引というより……屈託がないというか、邪気がないというか……)
 まっすぐに向けられる信頼が、急に(おも)()ゆくなって、目をそらしていた。
 紅雲殿の横を通り、北へ向かう。
月の明るい夜だ。
 静かな石畳の上を、ふたりはゆっくりと歩いていく。
 (げっ)(しん)殿の横を経て、斉照殿の階段を上った。
 翠玉はいったん裏に回ろうとしたが「一緒に」と正面に誘導された。
 緑の長棒を持った衛兵が、正面の扉を開ける。
 昨日と同じように、央堂(おうどう)を抜けて()(かく)()へと入り、紅い長椅子に腰を下ろす。
「――それで、今宵の散策は、なにが目的だったのだ?」
 茶を運んできた女官の衣ずれの音が遠ざかり、聞こえなくなったところで明啓が問うた。
 昨夜の廊下での密談は、新たな報告が入って遮られてしまった。
 三つの庭を、ゆっくり横切ってもらいたい、としか伝えていない。そんな荒い説明でも、きっちり役割を果たしてくれる明啓は、やはり得難い存在である。
「今朝、夫人がたが万緑殿にいらしている間に、手紙を扉の前に置いておいたのです。【二宵の刻に、貴人が庭を通る】と。華々(かか)(じょう)()の名前を添えておきました」
「そうか。……それで、それぞれに反応があったわけだな」
 紅雲殿では、姿が。
 菫露殿では、声が。
 白鴻殿では、琴の音が。
「素直な反応をくださった紅雲殿の徐夫人から、順に訪ねて参ります」
 紅雲殿の、徐夫人の住まいは北の房。庭は南の房に面している。占いを信じ、同じ殿内とはいえ、南の房まで移動して姿を見せた。徐夫人が、もっとも期待どおりの反応だったと言える。
「貴女が、直接か?」
「はい。あくまで、占師・華々娘子としてでございます。姫君や、ご実家を刺激することなく蟲の在処を見つけます」
 土足で踏み込む捜査は不可能だ。なにせ相手は、国政に関わる貴族の娘。賊の口封じの件もある。下手な刺激はしたくない。
 そこで翠玉が思いついたのが、占師として彼女たちの懐に飛び込む作戦であった。
「そう簡単に、口を割るか? 時間もない。あと十日余りだ」
 呪詛は大罪。明らかになれば、族誅は確実だ。
 彼女たちが、占いのついでに口を滑らせるとまでは楽観していない。
 翠玉は懐に手を伸ばし、ひらり、と紙を取り出した。
「手紙に示された時間に、実際に陛下は庭に現れた。半信半疑だった夫人がたも、認識を改めたでしょう。今でしたら、その占師の勧める護符を貼るくらいのことは、していただけそうではありませんか?」
 翠玉が卓の上に置いたのは――劉家の護符であった。