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もう弾く必要のないピアノを弾きすぎた次の日、私は疲れていたのか、
内浜の観察を鈍らせてしまい、思わぬカウンターアタックをくらった。
それは、ある授業中のことだった。
とある授業で二つの班で机をくっつけて意見を交換して発表することが求められた。三つ斜め前に座る内浜を含む班も同じ島になって、教科書に書かれた例について話し合いをした。
「私が意見、配られた画用紙にまとめるね。書記やるよ。」
「ありがとみおちゃん。」
発言は苦手なので、私はいつも先に書記に立候補する。そしていつも通り、方眼ノートを広げてペンケースを取り出す。
色とりどりのカラーペンをその開いたページの上に並べた。
すると、背後からスッと腕が伸びてきて
「もーらい」と奪っていった。
こんなことをするのは一人しかいなかった。
「……あのね、何色で書いてもいいんだよ。借りたいの?」
「おれのペン、インクなくて。いつもの水色の。貸してよ。」
" いつもの "の部分を随分強調した。半ば作業的な言い回しだった。
曇った笑顔だった。ほとんど目を合わさずに水色のペンを奪っていった。
「本当、内浜はいつもみおちゃん困らせてー」と隣の女子に言われると、
「そうそう、おれ困った子。だからおれも書記してみんなの意見書くのに専念する。」
とへらへら笑い返していた。
それは横顔でも分かるくらい目が笑ってなかった。
「内浜って黙ってたらカッコいいのにね……」「みおちゃんにばかりちょっかいかけるし、望みなさそうなのが残念」そんな声が離れた班から漏れて聞こえてきた。
彼は聞こえているようだけれど、敢えて何も考えて居なさそうに水色のペンを持ち、画用紙の上に走らせていた。
すると、彼は安心したのか、下を向いた瞬間ふと少し哀しい顔をして、表情筋の緊張を和らげた。
私はそれを見逃さなかった。
直接交わした会話は五秒もなかった。でも分かってしまった。
そうか。
彼も分からないのだ。そして私への態度の辞め時を見失ってるのだ。
彼は優しすぎるのかもしれない。
でも、私は彼にとって完全に腫れ物になってしまっている。
ねぇ、内浜。
───本心は何?
「なぁ内浜、中学って県立附属行くの?」
班が近いということで掃除当番で同じ場所を担当することもある。すると人数が増えた男子は男子同士で集まって会話を始めて、ホウキを掃く手を止める。
「そんなんまだ一年以上先だし、おれも分かんねぇよ。」
「もしかして嫌なの?」
私はチリトリを構え、他の女子が集めてくれたごみをホウキで回収していた。
「みおはこのまま公立行くもんな」
「あぁ~だからかぁ。さすが、みおと内浜ラブラブ!」
チリトリを持って教室に移動しようと振り替えると、そこには隣のクラスの先生が怖い顔をして立っていた。
「こぉら!お前らホウキを振り回して遊ぶな。五時間目のチャイムまであと五分だぞ!」
そそくさと掃き掃除を進める男子達。内浜はほっと胸を撫で下ろして、私に気づくとチリトリを奪い去った。「おれが男子の掃き集めたごみ捨てるから。」と台詞だけ残して。
「……内浜、変わったよな。ほんのこの間までよく掃除の時間にボールぶつけて掃除道具壊してたのにな。」
先生は感慨深そうにそれを見て呟いた。
先生は、三・四年生のときの、私と内浜の担任をしていた。
「はぁ、そうですか……?私は雑巾投げつけられたことはそんな簡単に流せませんけどね本当に。去年のクラスの女子はみんなやられましたからね。」
「野球クラブに入ったおかげなんだろうなぁ。礼儀正しくなったよな。」
そうなのかな。同じように授業を受けて、給食を食べて掃除して。ルーティンの中で暮らしてるからなのか意識したことがなかった。だって内浜は内浜だ。
「いやいや。内浜は、子供ですよ。」
「みおはいつも真面目で助かるよ。ありがとうな。」
もう担任じゃないのに、おせっかいな先生だなぁと思った。でもそのとき初めて私は、"野球クラブ"を意識した。