数分前、駒崎八千代は音楽室で待ちわびていた。夏海はあの後教室を飛び出して八千代はもう夏海とは友達ではいられないと覚悟した。
 だけど花崎さんがいるし、彼氏の朝霧君もいるからきっと大丈夫だろう。
 早く柴谷先生来ないかな?
 柴谷先生に最初の演奏を見てもらった時「怯えなくていいよ、ありのままの君を見せて」と優しくアドバイスしてくれて、次の演奏で誉めてくれた。
 嬉しさにあまりにその場で泣き崩れ、柴谷先生は最初の指導はみんなに音楽の楽しさを教え直すと公言していた。あのパワハラ顧問とは違い、意味のある厳しい指導で、だけど練習がとても楽しくてコンクール出場メンバーにも選ばれた。
 それなのにと、八千代は視線をフルートの恵美に向ける。
「――それで夏海、青褪めて逃げちゃったのよ。朝霧君に泣きつくつもりだったかもしれなかったけど、その朝霧君、今頃無様な姿を晒して夏海絶対失望してるよ」
「でも恵美も恵美だよね、夏海のことが好きな男子はいたけど、その中から喧嘩の強そうな子ばっかりに教えるなんて」
 同じフルートの同級生の子が楽しそうに頷く。何よ……いつから恵美は友達の幸せを妬んで不幸を喜ぶようになったの? あんなに仲良くしてたのに、八千代は恵美に反論できない自分が情けなくて涙が溢れそうだった。
 三年生のフルートリーダーである小坂先輩は冷めた表情で楽譜をチェックしてる、もう見放した証拠だ。実際夏海の陰口叩いてるメンバーはみんなコンクール出場メンバーに選ばれなかった子や、笹野のお気に入りのメンバーばかりだった。
 柴谷先生は見抜いていたのかもしれないと思った時、勢いよく扉が開いた。
 やっと来たと思った瞬間、音楽室が静まり返る。
 入ってきたのは元テニス部の桜木春菜だ。未来から来た殺人ロボットのように無表情だが瞳だけ殺気と怒気に満ちていて真っ直ぐ恵美に歩み寄った。
「何の用?」
 忌々しそうに睨む恵美に、春菜は返事の代わりに手加減なしで思いっきり引っ叩いた。
 音楽室内は悲鳴が上がり、恵美はそのまま隣にいた子を巻き込んで倒れるがすぐに敵意と憎悪を剥き出しにして立ち上がった。
「何よあんた!!」
 恵美は怯んだ様子もなく、ドスの利いた声を響かせると春菜は無表情で返事の代わりに髪を引っ掴んで引っ張り上げ、反対の手で何度も顔を引っ叩く、鼓膜が破れて耳や鼻から出血してもお構い無しだ。
「くっ……このぉっ!!」
 恵美も負けじと椅子を掴んでそれを春菜に叩きつける。
 さすがに春菜も怯んだらしく、恵美を離すとその隙に後ろに下がるがすぐに春菜も追う。
「二人ともやめて!」
 八千代の悲痛な制止を無視して掴み合い、引っ叩き合い、椅子や譜面台、他の吹部部員を巻き込んで倒し、楽譜を踏み付けてもお構いなしに怒りをぶつけ合う。
 恵美は一年生の子から一〇キロもあるチューバをぶん取って頭めがけて叩きつけ、鈍い音が響いた。
 たちまち悲鳴が上がって女子生徒の中には泣き出してる子もいる、八千代もその中の一人だった。
「恵美! 桜木さんやめて!」
 八千代は泣くじゃくりながら叫ぶ。春菜は額から血を流しても、構う様子もなく瞳をギラギラさせてそのまま恵美と取っ組み合いになる。
「何よあんた! どうせあんな弱虫で悲劇のヒロインぶってる夏海のことでしょ!」
 恵美は金切り声で罵倒すると、ようやく春菜は口を開いた。
「ああ、そうだよ……夏海は弱くて傷つきやすくて、でもそれと同じくらい強くてと優しい子なんだ。そんな夏海を……よくも傷つけやがって!!」
 春菜は怒りを露にして出血してるにも関わらず恵美の顔面に頭突きを何回も喰らわせたと思った瞬間、ふいに春菜はそのまま倒れた。
「どうした!? なっ!? すぐに救急車を! 小坂さん、校医の先生を呼んできて!」
「はい!」
 間を置かずに柴谷先生が入ると音楽室を見回し、瞬時に状況判断して指示を飛ばすと年代物の携帯電話を取り出した。


 朝霧光は保健室で手当てを終えると今度は守屋恵美が入ってきた。何度も引っ叩かれたのか左頬は腫れ上がり、髪は乱れ、耳と鼻から出血していて清涼感のある夏服には血がこびり着いてボロボロだった。
 今しがた光や久保田たちを手当てした中年の養護教諭が、困惑しながら慣れた手付きで座るように促す。
「あら! あなたもどうしたの? そこに座って! 今日は急病や喧嘩する子が多いわね……どうしちゃったのかしら?」
 校医の先生も出払って音楽室に向かってる。久保田と二人の吹部部員は恨めしそうに睨んでるが、ここには夏海もベッドで休んでいる。
 カーテンの向こうには疲弊してる千秋に冬花が優しく寄り添ってる。
「大丈夫だよ千秋ちゃん」
「私のせいよ……私が駒崎さんにアカウントを教えたから……あんなに楽しい日々、初めてだったから……私が写真をアップしなければ……夏海も……みんなも」
 千秋は嗚咽を漏らしながら後悔を口にしてまた泣き出す。手当てを終えた守屋さんは「ふん」と睨んでるようにも微笑んでるようにも見えた、救急車のサイレンが聞こえて各種装備品を担いだ救急隊員が校内に入る。
 誰かが怪我でもしたのかな? 小坂先輩が入ってきて吹部のメンバーに言う。
「あんたたち、手当てが終わったなら音楽室に来なさい。柴谷先生……本気で怒ってるわ」
 小坂先輩は氷のような眼差しと低く冷たい声で言う。久保田は光に舌打ちして残りの二人も鼻を鳴らしたり、睨んで出ていった。出ていく間際、守屋さんは忌々しげに吐き捨てた。
「全部あんたのせいよ、夏海と出会ったからこうなったのよ……夏海とはもう別れて」
 光は殴りかかりたい衝動を必死で抑えると代わりに望が言い返す。
「口の聞き方には気を付けてね……光は……僕達の中で怒ると一番怖いから」
 望は微笑んで言うがその目は笑っておらず怒りに満ちていた。守屋さんは一瞬怯えたかと思うとそそくさと出て行き、すぐに深刻な表情で大神先生が入ってきた。
「花崎いるか? 桜木が救急車で病院に搬送される」
「春菜が!? どうして?」
 カーテンを乱暴に開けて出てくると、千秋の凛々しい顔が信じられないほど涙でくしゃくしゃになり、小坂先輩は自責の念でいっぱいの表情で言う。
「守屋……あの大馬鹿者! チューバで思いっきり殴ったのよ……私が間に入ってでも止めるべきだった!」
 チューバで殴ったって!? あの一〇キロはある金属の塊みたいな楽器で殴ったら死ぬぞ! 光は冷たく戦慄し、千秋は友達の「死」が頭を過ったのかガタガタと震える。
「ヤダ……ヤダヤダヤダヤダヤダ!! 春菜! 私達を置いてかないで!! 春菜ぁっ!!」
 千秋は激しく泣き乱す、大神先生も戦慄してるのか呆然と立ち尽くすと冬花は千秋の両肩を掴んで向き合い、強く言い聞かせる。
「千秋ちゃんしっかりして!! あたしも一緒に行くから! 望君、光君! あたし千秋ちゃんと病院に行くから!」
「ああ、わかった……風間さんのことは任せろ!」
 望は頷いて言うと光も同じように頷き、冬花は千秋の背中を擦りながら諭す。
「千秋ちゃん、行こう……春菜ちゃんの手……握ってあげてね」
 千秋は泣き震えながら頷いて大神先生と三人で教室を出ると、夏海が眠ってるベッドのカーテンに入って望は静かに怒りの表情を露にする。
「最悪だ……暗黒の登校日だ」
「望……さっきは本当に助かった。しかも有利なように動画を撮って立ち回ったうえに吹部顧問の柴谷先生を呼んでくれて」
「礼なら倉田君に、俺はただ冬花に先生を呼んでって言っただけさ、冬花はあれでも腹黒い……まっ、俺も人のことは言えないけどね」
 そこで言葉が途切れる。外は雨が降り続けており予報では今日から一週間近く秋雨前線の影響で雨の日が続くらしい、彗星の日も晴れるかどうか怪しい。光はふと疑問に思ったことを口にする。
「なぁ望、花崎さんのアカウント……吹部に知れ渡ってたんだよな? 鍵をかけてたはずなのにどうして」
「Big Brother is watching you.(ビッグ・ブラザーがあなたを見ている)SNS――いやスマホなんてテレスクリーンそのものだよ……その気になれば誰だって誰かを事細かに監視できる、柴谷先生がスマホを使いたがらないのも今ならわかるよ」
「なんのことだ? ビッグ・ブラザーにテレスクリーンって?」
 光はチンプンカンだった、雨足がまた急に強まって望は話し始めた。

 イギリスの作家ジョージ・オーウェルのSF小説「一九八四年」だよ、火の国まつりの時に柴谷先生が教えてくれたんだ。執筆されたのは第二次大戦直後の一九四八年でね、一九八四年の未来は独裁者ビッグ・ブラザー率いる政党に支配され、人々は二四時間監視されて少しでも怪しいと思われれば蒸発――最初から存在しなかったことにされる。
 ロンドンに住む主人公のウィンストン・スミスも恋人のジュリアと付き合ってるうちにビッグ・ブラザーのかつての同志で、今は裏切り者のエマニュエル・ゴールドスタインが率いる地下組織の活動に引かれるが、テレスクリーンでなにもかも筒抜けでウィンストンは拷問で何もかも否定され、ジュリアも裏切ってしまい、処刑される日を待ち望むというところで終わる。
 
 光はあらすじを聞いて絶句し、呟く。
「……救いがなさすぎる、でも今となんの関係が?」
「スマホだよ。恐らくあいつらは花崎さんのアカウントの鍵を解錠して見て……たぶん花崎さんの投稿にいいねを押したり、褒めるようなメッセージを送ったんだろう……湘南旅行の時から花崎さん、頻繁に写真とったりスマホをいじってたからね」
 確かに思い出してみると花崎さん、楽しそうに写真を撮ったりSNSに上げていた。それが吹部に見られてるとは知らずだったから、ショックも相当大きかっただろう。

 湘南は誰の手にも届かない場所だった、だが目を逃れることはできなかった。

「ん……光……君に……如月君?」
 夏海は目を覚ました、光は聞かれてたかな? と思わず唾を飲みながら聞いた。
「夏海ちゃん……気分はどう?」
「あんまり……よくない……千秋ちゃんは? 千秋ちゃん……私が吐いた時に保健室まで連れて行ってくれたの」
 夏海は不安げな表情で訊く。ここで守屋さんと春菜が大喧嘩して春菜が救急車で運ばれたなんて言ったらどうする? だが黙っていても、いずれ知られてしまう。
「私……吹部のみんなに知られちゃった。二学期が……学校始まるのが……怖い」
 夏海は布団で顔を覆って声を震えさせる。光は目元を微かに潜めさせて話すべきかもしれないと思った時、望は静かに肩を手に乗せて目を合わせると首を横に振る。
「夏海ちゃん……花崎さんはちょっと桜木さんの所に行ったんだ、だから代わりに僕がいる」
「……本当に大丈夫だよね? 光君もずぶ濡れで泥だらけで顔も傷だらけだよ」
 久保田と喧嘩した光も制服は雨水と泥で汚れ、顔も傷だらけだ。
 夏海は不安に押し潰されそうな眼差しで見つめて起き上がると、光は抱き締めて誤魔化す。
「大丈夫……僕はこれでもしぶといから、夏海ちゃん……今日はもう一緒に帰ろう、家まで送るから」
 光はやむを得ずとはいえ、夏海に嘘や隠し事をしてしまい。激しい自己嫌悪で表情を隠すのがこんなに大変だとは思わなかった。