おもむろに立ち上がった先輩が、私の目の前にしゃがみこんだ。指が白くなるほど握っているジャージを剥がし、代わりに先輩の手が私の手を握る。
 つなぎ慣れた先輩の手に、私の心はゆっくり落ち着きを取り戻していく。いつもは先輩のほうが手の温度が低いのに、その熱さに自分の手があまりにも冷たくなっていたことを知る。
「だから、人間を頼れって」
「…………」
 その瞬間、私の片目からひと筋の涙が伝った。
「……ハ、キレーに流れた」
 すると、まるで他人事のように、九条先輩は微笑んだ。親指でその涙を拭ってくれたときに、目と目がしっかりと合う。そして、顔と顔がこんなにも近かったのだと気付かされる。
「…………」
「…………」
 先輩の目の中に、自分を見つけた。きょとんとした顔の私は、さっきまで苦しくてたまらなかったはずだった。先輩がよくわからないことを言って、頭も心もぐちゃぐちゃになって、余裕をなくしていたはずだった。
 それなのに、今、先輩をまっすぐに見ている自分。先輩の目の中にいる私に目を奪われている自分。いくつかの何かに、気付きかけている自分。
「あ……」
 何秒経っただろうか、それすらわからなくなってきたとき、
「大丈夫?」
 ノック無しで、藍川先生がドアを開いた。
「おわ、こんなとこで、しかも具合悪い人にキスするなよ、敦也」
「してねーよ」
 驚いた先生に、九条先輩はパッと私の手を離して言った。そのまま立ち上がり、先生へと場所を譲る。私も心底驚いたことで顔が真っ赤になり、それを見られないようにうつむいた。
「苦しくない? 落ち着いた? 荘原さん」
「は……はい」
「今日はもういいから、帰っていいよ。親御さんに連絡つく? つかなければ、私が送っていってもいいし」
「いえ、電話したら来てくれるはずです」
 心配そうな顔の先生と会話しながら、私は手櫛で髪を整え、立ち上がろうとする。すると、バランスを崩してしまい、九条先輩が伸ばした腕に支えられた。
「立ち眩み?」
「いえ……」
 なぜか、先輩の顔を見ることができない。そして、もっと顔が熱くなる。
「荘原さん、ごめんね」
 腕組みをしながら壁に寄りかかって私を見ていた藍川先生が、背中を離してそう言った。
「教師として、顧問として、ちょっと無責任だったわ。一度できないって断られたのにもかかわらず……。本当は止めるべきだったのに」