「先生、ありがとうございました」
「いえいえ、じゃあまた来週ね」
「あ、そうだ」
 けれど、九条先輩に腕を引かれ、耳元で「スマホ貸して」と言われる。
「…………?」
 言われるがままスマホを渡すと、先輩は手早く私のメッセージアプリに自分の登録を済ませる。そしてスマホを私に返すも、そのまま自分のスマホで操作を続ける先輩。
「どうしたの?」
 藍川先生が振り返って私たちを見たとき、返された私のスマホにメッセージが届く。
『下の名前、なに?』
 私はすぐ返信すべきだと圧を感じ、
『澪佳』
 と短く返した。互いに鳴る通知音に、藍川先生は首を傾げたままだ。
「じゃーな、澪佳。連絡するから」
「…………」
 九条先輩から呼び捨てで名前を呼ばれたことで、私の心臓は一瞬跳ねた。そういえば、今までずっと“あんた”か“マネージャー”呼びだった。
「……うん、わかった。じゃあね、あ……先輩」
 ここは、こちらも“敦也”と呼ぶべきだったのだろうか。でもどうしてもそんな勇気は出ずにそう言って手を振った私は、慌ててドアを閉めた。先輩の顔を見るのが恥ずかしかったというのもある。
 ふたりの乗る車が、すでに霧のような雨の中を走っていく。そのライトが見えなくなるまでたたずんでいた私は、ようやく大きく息を吐ききり、額を押さえた。
 そして、とぼとぼと家の玄関へと向かいながら、
「……なんか、いろいろ……どうしよう」
 と、呟いたのだった。