あばら屋で、三笠の家から持ってきたボロのような着物を着て待っていると、加々見が教えてくれたとおりに父・茂がやってきた。荷物持ちの使用人を一人連れているだけで、ほかの家族はいないようだ。
そのことにほっとしつつ、絹子は戸口まで父を出迎える。
加々見はこのあばら家のすぐそばまで一緒に来たのだが、いまは茂たちに見つからないように家の裏で待ってくれている。とはいえ、このあばら屋の薄い壁なら絹子と父の会話も加々見に筒抜けのはずだ。
「お父様。お久しぶりです」
絹子が深くお辞儀をすると、茂はここまで登ってきて流れた汗を手拭いで拭きながら、
「やぁ、久しぶりだね、絹子。元気そうでよかった」
ほとんど絹子を見ることもなく、土間を通って奥の部屋の畳に腰かけた。
だから彼は気づかなかったことだろう。昔の絹子と違い、今の彼女は髪も肌も以前とは比べ物にならないほど艶やかに健康的になっていることに。
カマドに置いた鍋で沸かした湯をひしゃくで急須にとると、お茶を湯のみに注ぐ。
それを茂のそばに置いて、絹子は彼の前に立っていた。
「それにしても、どうしたのですか? こんなところまでいらっしゃるなんて」
茂は湯飲みを手にとると、冷ましながらもごくごくとお茶を飲み干す。ここまで登ってきてよほどのどが渇いていたのだろう。
「ふぅ、ようやく人心地つけた。いやぁ、絹子が山神様の嫁になってくれたおかげで、事業もうまく持ち直したよ。さすが山神様のご加護のおかげだ」
「そ、そうですか……」
急須で茂の湯飲みにお茶を注ぎつつ、絹子はあいまいに返事をする。
加々見が何かしたのだろうか。そうなのかもしれない。絹子が山神様の嫁になることで、三笠家は山神様の加護を得たはずなのだから。
しかし、次の茂の話に絹子は言葉をなくした。
「実は、この山を破格の値段で買ってくれるという方が現れてね。近々売りに出そうと思うんだ」
「え……」
山を売る。そうなると、その山に住んでいることになっている自分はどうなるのだろう。
絹子はあまりのことに狼狽えるが、茂は絹子の反応などおかまいなしに話を続ける。
「お前が生きている間はこの山のどこかには住まわせておいてくれという条件は飲んでもらった。そのうえで、大金でこの山を買い取ってくれるというんだから、これ以上良い条件はないだろう。お前が生きている限り加護は消えない。ほとんど使い道もなかった山も大金に代わる。これほどいい話はない。そう思うだろ?」
ほくほくと嬉しそうに話す茂。茂の頭の中には、そのことに絹子がどう反応するかなんてどうでもいいことのようだった。茂にとっては相変わらず、絹子は道具でしかないのだ。
「そう、ですか……」
「じゃあ、そういうことだから。買主は若い実業家だ。いずれここにも顔を見せに来ることもあるかもしれん。せいぜいよく扱ってもらえ」
「……はい」
暗い声で返事をする絹子だったが、茂は意に介した様子もなく「それじゃあ」と帰っていった。
一人残された絹子は、重い溜息をつく。
この山の新しい所有者とは、いったいどんな人物なのだろう。いままでは山を三笠家が所有していたため、父たちは滅多なことではここに立ち寄らないだろうという安心があった。だからこのあばら家のことを気にすることなく、幽世にある加々見の屋敷で暮らすことができたのだ。
しかし、新しい所有者はこの山を、そして絹子のことをどう扱うつもりなのかまったくわからなかった。
もしかすると、絹子のことを……。
嫌な想像をしてしまい、背筋をぞっと寒さがのぼってくる。
かつての絹子なら、実家から出られるのならばどんなに過酷な場所であっても否とは言わなかっただろう。このあばら屋に嫁にきたときのように、ただ流されるままに従ったことだろう。
しかしいまはもう絹子には帰るべき場所がある。そばに寄り添いたい人がいる。
もうほかの誰のものにもなりたくなんかはなかった。
そのとき、
「大丈夫か?」
声がした。顔を上げると、戸口に加々見が立っていた。
彼は絹子のそばまで来ると、優しく頭を撫でてくれる。
「話は全部聞かせてもらった。なに、心配するな。すべては私の予定通りだ」
「予定、通り……ですか?」
きょとんと顔を上げる絹子に、加々見は悪戯をしかけた子供のような含み笑いを返してきた。
「なに、そのうち全てわかるさ。さて、今日はこのあと大事な用事があるんだ。一緒にきてくれるかな」
「どこへですか?」
いままで二人でどこかへ出かけたことは一度もない。初めての二人での遠出だ。どこへいくというのだろう。
問う絹子の声に、加々見はにっこりと笑う。
「舞踏会さ。君がいままで身につけた技術を披露してほしいんだ」
そのことにほっとしつつ、絹子は戸口まで父を出迎える。
加々見はこのあばら家のすぐそばまで一緒に来たのだが、いまは茂たちに見つからないように家の裏で待ってくれている。とはいえ、このあばら屋の薄い壁なら絹子と父の会話も加々見に筒抜けのはずだ。
「お父様。お久しぶりです」
絹子が深くお辞儀をすると、茂はここまで登ってきて流れた汗を手拭いで拭きながら、
「やぁ、久しぶりだね、絹子。元気そうでよかった」
ほとんど絹子を見ることもなく、土間を通って奥の部屋の畳に腰かけた。
だから彼は気づかなかったことだろう。昔の絹子と違い、今の彼女は髪も肌も以前とは比べ物にならないほど艶やかに健康的になっていることに。
カマドに置いた鍋で沸かした湯をひしゃくで急須にとると、お茶を湯のみに注ぐ。
それを茂のそばに置いて、絹子は彼の前に立っていた。
「それにしても、どうしたのですか? こんなところまでいらっしゃるなんて」
茂は湯飲みを手にとると、冷ましながらもごくごくとお茶を飲み干す。ここまで登ってきてよほどのどが渇いていたのだろう。
「ふぅ、ようやく人心地つけた。いやぁ、絹子が山神様の嫁になってくれたおかげで、事業もうまく持ち直したよ。さすが山神様のご加護のおかげだ」
「そ、そうですか……」
急須で茂の湯飲みにお茶を注ぎつつ、絹子はあいまいに返事をする。
加々見が何かしたのだろうか。そうなのかもしれない。絹子が山神様の嫁になることで、三笠家は山神様の加護を得たはずなのだから。
しかし、次の茂の話に絹子は言葉をなくした。
「実は、この山を破格の値段で買ってくれるという方が現れてね。近々売りに出そうと思うんだ」
「え……」
山を売る。そうなると、その山に住んでいることになっている自分はどうなるのだろう。
絹子はあまりのことに狼狽えるが、茂は絹子の反応などおかまいなしに話を続ける。
「お前が生きている間はこの山のどこかには住まわせておいてくれという条件は飲んでもらった。そのうえで、大金でこの山を買い取ってくれるというんだから、これ以上良い条件はないだろう。お前が生きている限り加護は消えない。ほとんど使い道もなかった山も大金に代わる。これほどいい話はない。そう思うだろ?」
ほくほくと嬉しそうに話す茂。茂の頭の中には、そのことに絹子がどう反応するかなんてどうでもいいことのようだった。茂にとっては相変わらず、絹子は道具でしかないのだ。
「そう、ですか……」
「じゃあ、そういうことだから。買主は若い実業家だ。いずれここにも顔を見せに来ることもあるかもしれん。せいぜいよく扱ってもらえ」
「……はい」
暗い声で返事をする絹子だったが、茂は意に介した様子もなく「それじゃあ」と帰っていった。
一人残された絹子は、重い溜息をつく。
この山の新しい所有者とは、いったいどんな人物なのだろう。いままでは山を三笠家が所有していたため、父たちは滅多なことではここに立ち寄らないだろうという安心があった。だからこのあばら家のことを気にすることなく、幽世にある加々見の屋敷で暮らすことができたのだ。
しかし、新しい所有者はこの山を、そして絹子のことをどう扱うつもりなのかまったくわからなかった。
もしかすると、絹子のことを……。
嫌な想像をしてしまい、背筋をぞっと寒さがのぼってくる。
かつての絹子なら、実家から出られるのならばどんなに過酷な場所であっても否とは言わなかっただろう。このあばら屋に嫁にきたときのように、ただ流されるままに従ったことだろう。
しかしいまはもう絹子には帰るべき場所がある。そばに寄り添いたい人がいる。
もうほかの誰のものにもなりたくなんかはなかった。
そのとき、
「大丈夫か?」
声がした。顔を上げると、戸口に加々見が立っていた。
彼は絹子のそばまで来ると、優しく頭を撫でてくれる。
「話は全部聞かせてもらった。なに、心配するな。すべては私の予定通りだ」
「予定、通り……ですか?」
きょとんと顔を上げる絹子に、加々見は悪戯をしかけた子供のような含み笑いを返してきた。
「なに、そのうち全てわかるさ。さて、今日はこのあと大事な用事があるんだ。一緒にきてくれるかな」
「どこへですか?」
いままで二人でどこかへ出かけたことは一度もない。初めての二人での遠出だ。どこへいくというのだろう。
問う絹子の声に、加々見はにっこりと笑う。
「舞踏会さ。君がいままで身につけた技術を披露してほしいんだ」