加々見と向かい合わせに座った絹子は、うかない顔をしていた。
 さっきの茂と加々見のやりとりが何度も頭の中を過る。
 めっきり口数が少なくなって外ばかり見ている絹子を心配して加々見が声をかけた。

「どうした……? 酔いでもしたのか?」

 絹子は加々見に視線を移すと、目を伏せてゆるゆると首を横に振る。

「私は貴方様のそばにいてもいいのでしょうか。私だって三笠の人間なのに」

「何を言う。君は私のお嫁さんじゃないか」

「そうですが……私が選ばれたのはたまたまのこと。もしこうなる未来が予想できたのなら、私ではなく妹の美知華の方が選ばれたはずです」

 もしそうだとしたらこの場にいるのは美知華で、絹子はこれから没落していくであろう三笠の家で変わらず使用人のような暮らしをしていたことだろう。この先、路頭に迷うことになったかもしれない。

 しかし、加々見は絹子の言うことがわからないというように眉間にしわを寄せた。

「……私は君だからこそ、妻にしようと思ったのだよ」

「私だから、ですか?」

 彼は絹子の目を見てこくりと大きくうなずく。

「君は覚えていないだろうが、私は君が子供のころに見かけたことがあるんだ」

「……え?」

「十歳かそこらだったか。一度、山に来たことがあっただろう」

「あ……」

 確かにおぼえがあった。普段は東京の本宅に住んでいたが、美知華の学校が夏休みのときなどに別荘へ行くこともあった。それで一度、皆に連れられてあの山に登ったことがあったのだ。

「あの山にはときどき無断で猟師が入り込み、罠などしかけていくことがある。その日も私が使役している狸が一匹、罠にかかってしまってね。私はその罠を取り外しに行ったんだ」

 しかし、その罠の近くまできたとき、加々見は人の気配を感じて身を隠したのだという。

「数人の子供とお供の大人がいたっけか。彼らは草むらで罠にかかって動けなくなっていた狸を見つけた。しかしすぐに興味をなくして別のところへ行ってしまう。でもそのあと、一人の少女が戻ってきたんだ。彼女は一生懸命試行錯誤して、手を傷だらけにして、それでもなんとか罠を外すことに成功した。そして自分の着物の裾を割いて包帯を作ると狸のケガした足に巻いてくれたんだ。その一部始終を木に隠れてみていた私は、なんと心優しい娘だろうと思ったものだよ」

 加々見は懐かしそうに目を細める。

「……それからしばらくたって。白無垢姿の花嫁がやってきた。私ははじめ、婚礼の儀が終わって一人になったら、その哀れな娘をどこかへ逃がしてやろうと考えていたんだ。昔、同じように山神への捧げものとして花嫁が贈られたときと同じようにね。だから、様子をうかがうために私はスズメの目を借りて婚礼の儀を見ていた」

 スズメという言葉に、絹子ははっとした。たしかに婚礼の儀の最中に絹子はスズメを見た。白く小さなスズメで、その存在に荒みきっていた心がほんの少し和らいだのを今もよく覚えている。

「あの白いスズメが……加々見様の……?」

「そうだよ。君と目が合って、すぐにわかった。あのときの心優しい娘がこんなに大きくなっていたんだと。……一目ぼれだった。君を誰にも渡したくない……ほしいと思った。だから、君じゃなきゃ駄目なんだ。私が心を奪われたのは、君ただ一人なのだから」

 加々見はそう言うと絹子の右手をとってまっすぐ絹子を見つめた。

「順番が逆になってしまったけれど、絹子。私と夫婦(めおと)になってはくれないか。生涯君を大切にする。もし君が孤独を抱えているのなら、その孤独を埋めさせてほしい」

 真剣なその表情。その強い瞳の奥にはわずかに不安の色も見える。
 絹子は涙でにじんでしまいそうになるのをなんとかこらえて、笑みをつくった。
 小さくうなずくと、ぽろりとしずくが頬を伝う。もう泣かないって決めていたのに。強固なはずだった感情の壁を、彼は容易に超えてくる。すっと絹子の心に入り込んで、あたためてくれる。それは、いまも。

「はい。私もそう願っています」

 絹子は心の底からそう答えた。だってもう、絹子の心はすでに彼のことでいっぱいになっているのだから。

「ありがとう」

 感極まった加々見に抱き寄せられる。その大きな背中に絹子も手を回した。
 お互いの存在を確かめ合うように抱き合った後、どちらからともなく唇を重ねた。

 馬車は現世(うつしよ)を抜けて幽世(かくりよ)へと走っていく。
 これは、明治の世の物語。
 まだ神やあやかしたちが人ともにあった時代の、幸せな二人の結婚譚。