弧光と降り立った其処は、文明開化が起こってから暫くした日本だった。ガス灯が灯り、レトロな電車が路面を走る東京で、美海は見るものすべてに目を輝かせた。

「あっ、あのアンティークの家具素敵! あっ、こっちの店構えも素敵だわ! あの人の着物も素敵~! ああん、この時代に生まれたかったー!」

きょろきょろと街中を珍しそうに見て回る美海に、弧光は大袈裟にため息を吐いた。

「おい、お前」

「私、『お前』って名前じゃないわ」。美海というきれいな名前があるのよ」

弧光を振り返って目を見てそう言うと、弧光は少し驚いたような顔をして、それから、美海、な、と呟いた。その声が。

とてもやわらかく、美海の鼓膜に響いた。まるで美織のことを呼ぶみたいに、そうやって美海のことを呼んだ弧光の顔を見つめてしまう。弧光はその美海の視線に気づいて、何だ、と眉間に皴を寄せた。

「……何でもないわ。弧光は美織さんの事、本当に好きなのね」

「そうじゃなきゃ、着物に憑いたりしない」

そりゃそうか。美海は一つ弧光に尋ねた。

「美織さんが、この時代に居るのね? ということは、貴方も居るの?」

「ああ、居る。俺たちは今、魂の姿でこの時代に居る。俺は弧光であって、弧光ではない。この時代の弧光は美織と一緒に居る」

「じゃあ、貴方の事なんて呼べばいいの?」

そこには思い至ってなかったのか、弧光がそうか……、と考え込んだ。

「仕方ない、柊弧(しゅうこ)と呼べ。……俺の幼い時の呼び名だ」

若干苦虫を噛み潰したような表情が気になる。この名前に何か思い出でもあるのだろうか。

「柊弧……。その名前を美織さんは知っているの?」

「いや、知らない。俺は美織と会った時に既に九尾の狐だったから、それ以前の弱い自分を見せる必要はなかった。……お前にはそういうことも必要なかろう」

んん? それってどういう意味かな?

「それって、私になら弱みを見せても良いってこと?」

「違う。お前相手に体面を作っても仕方ないと言うことだ」

まー、アウトオブ眼中でいっそすがすがしいほどだわ!

美海はしかし、この自分と美織の事しか頭にない妖狐の態度を気に入った。妖怪はあの手この手で人間を騙そうとするものだと思っていたからだ。

「うん! 柊弧のその態度、悪くないわ。助けになろうって相手に媚び売らない所も良い」

「何故、お前に媚など売らなければならない」

しれっと返されるのもだんだん心地よくなってきた。本当に、すがすがしいことこの上ない。

「じゃあ、取り敢えず美織さんを探しましょ。そして、美織さんの結婚相手が出てきたら、拳で決着を付ければ良いわ」

男同士だもの、それくらいじゃなきゃ。そう言うと、弧光が、ふ、と口端を上げて笑みを見せた。

……正直、出会って初めて笑みを見せられて、不覚にもときめいてしまった。顔が良いって得だな! そう思っていたら、柊弧は声をあげて笑った。

「ふ、は、は……。美織の魂を器(からだ)に受け継いでいると思ったら、とんだはねっかりだったわけか。美織は淑やかな女性だった。喧嘩をしろなどと吹っ掛けることはしなかった」

そりゃあ、別の人間だもの。そう思ったが、柊弧は言葉を続けた。

「だが、そういう考え方も良い。俺は美織のことを思って結婚した美織に会うことも出来なかったが、今思えば、結婚したからと言って、俺が引く理由にはならなかった。最初から正々堂々と男同士の決闘をすればよかった」

決闘って言うと物騒だな。あくまで喧嘩。拳と拳同士だ。

「……そうね。美織さんも、もしかしたら柊弧のことを待っていたかもしれないわね……」

美海の言葉に、柊弧はもう一度微笑んだ。

「きっと、そうだったに違いないさ」

溢れるほどの自信が素敵だと思う。こんな風に想われて、美織さんは幸せだっただろうな、と思った。

「さー、美織さんを探しに行こう! ついでに明治時代のお散歩をさせてもらえれば、私は文句言わないわ」

「まあ、少しは付き合ってやっても良い」

色よい返事をもらって、美海も機嫌が良くなった。まさか、本物のアンティーク巡りを出来る日が来るとは思わなかったのである。