そうして、秋。雪月の新作は、今までの悲恋物語から打って変わって、あやかしとモダンガールの恋物語だった。主人公の女性が精力的に仕事に打ち込む姿を、その娘に恋したあやかしが陰になって支える。華々しい女性の活躍を鮮やかな文章で書き綴ったその作品の最後には、幼い頃から主人公を見守って来た心やさしいあやかしとの初々しい恋物語がつづられていた。

この異色ともいえる作品が、大ヒットした。それまで雪月の作品を読んだことのないモダンガールたちがこぞって雪月の新作を読み、心根やさしいあやかしに、私も会ってみたい、などと言うようになった。

「『降りしきる雪を全て玻璃(はり)に変えて君に贈るよ』、言われてみたいわね~!」

「浪漫溢れているわ~」

雪月の長屋へ向かっているときに、雪月の新作の話をしている女学生と通りすがった。どうやら読者のすそ野は思いの外広いらしい。華乃子は、ふふ、と口元に微笑みを浮かべて高くなった空を見上げた。

銀杏の木がこがねに輝いて、足元に伸びる影が長い。夏のあの日に雪月が言ってくれた言葉が擦(かす)れた思い出になってしまうほどには、忙しい時間が過ぎていた。

東京に戻ってきてからの雪月は、以前と変わらず本に囲まれてあやかしの話を書いている。路線変更をしたのかと思ったら、モダンガールを題材にしたのはあの一作だけで、次の作品はまた元の悲恋物語のつもりだという。

……勿体ない。折角新しい読者を掴んだのに。

そう思う一方で、あの時の言葉を思い出して、結ばれる恋物語の理由は自分だけが知って居れば良いんだわ、と思う浅ましい己も知っていた。

あれ以来、雪月から何かを言われたことはない。むしろ以前通り過ぎて、あの言葉が効き間違いじゃなかったかと思うくらいに普通だ。

太助と白飛とは相変わらずだ。東京に戻ったから、雪月の長屋通いが再開して、それについては良い顔をしない。嫁入り前の娘なのに、なのだそうだ。

「嫁入り前も何も。先生は私の事、そう言う風にご覧になってらっしゃらないわ」

あの時の言葉がもう一度あれば、それを信じられると思うが、東京に戻ってからそれっぽい雰囲気すらもない。きっと、華乃子が受け取り間違えたのだろう。だが、二人とも譲らない。あいつは駄目だというばかりだ。

「駄目だ駄目だってそればっかり。何がどう、駄目なのよ」

『あいつは華乃子を失望させる。だから駄目だって言ってるんだ』

「失望させる、ってなに? 先生は十分仕事を全うされてるわ。だから私だって協力する……」

のよ。そう言おうとした時に、雪月の長屋の玄関から出てくる美しい女性を見た。涼やかな横顔。濃い藍色から白へと裾をぼかした着物に白の羽織。長い髪の毛を風に揺らして歩いて行った。誰だろう。最初に華乃子が長屋を訪れた時に、女性を招くのは緊張すると言っていたのに……。

そう心の中で嫌な気持ちが渦巻いたが、華乃子は雪月の家の玄関の引き戸をガラガラと開けた。

「ごめん下さい。先生、お食事作りに来ました」

玄関の中に入るも、雪月の応答がない。

「?」

不思議に思って家の中に上がらせてもらうと、雪月は書斎で何やら険しい顔をして机の上の原稿用紙を睨んでいた。こんな厳しい顔の雪月は見たことない。何時も柔和な笑みを湛えている人なのに。

「あの……、先生……?」

華乃子が呼び掛けると、漸く華乃子に気付いたのか、はっとした顔で此方を見た。

「お、お返事がなかったので上がってきちゃいました。……なにかお仕事で問題でも……?」

「いや、何でもないんです。……ちょっと来客があってですね」

雪月が途端におろおろと応える。

来客……。きっと、さっきの美人だ。どんな関係の人なんだろう……。

そう思ったけど、問うことは出来なくて、話題を変えようと、先ほど通りすがりに雪月の新作のことを話していた女学生のことを雪月に教えてみた。

「此方へ伺う途中ですれ違った女学生たちが、先生の新作を褒めてましたよ。終盤の告白の言葉を言われてみたいって言ってました」

努めて微笑んで言うと、雪月がぱちりと瞬きをして、……照れくさそうに頭を掻いた。

「そう……、ですか……。そう言えば、感想を聞いたのは、初めてかもしれません。あの……、伺っても良ければ、華乃子さんのご感想も、お伺いしたいです……」

「え……っ」

感想……。感想って言ったって、この話はもともと華乃子のことを物語の中でだけでも幸せにしたいと思ったから書いてくれた話だ。華乃子の『視える』世界を否定せずに許容してくれた物語。嫌いなわけがない。だけど、それだけではなく……。

「……あの作中のモダンガールのモデルが私なのだとしたら、……何時か、私にも、あんな言葉を掛けて下さる方が現れたら良いな、……と、思います……」

本人を前に、緊張で心臓が煩く鳴っている。どきんどきんという鼓膜の奥の音が、小さな雪月の言葉をかき消してしまいそうだった。

「そう……、ですか。……よかった、です」

にこりと微笑むそれは、どうして『よかった』なのか。肝心なことを問いたくて、……勇気が出ない。

「あの……」

鼓動の音が雪月に聞こえてしまうんじゃないか。そう思った。