梅雨が過ぎ、夏が来た。
相変わらず雪月の原稿の進み具合を見ながらのまかない生活は続いている。雪月は猫舌らしく、出来上がったものを直ぐには食べない。だから粗熱が取れたところで箱膳に並べた。

「先生、お食事が出来ました」

今日もおひつからご飯を盛り、雪月に差し出すと、雪月は嬉しそうにした。

「華乃子さんのお料理は本当に美味しいですね。この味、僕、すごく好きです」

そうは言っているが、夏になって雪月の食欲が落ちたのは目に見えている。一時期良くなった顔色もまた悪いし、虚弱体質なのではないかと思う。

「美味しいと言っていただけるのは嬉しいですけど、ご無理なさらないでください」

「いえ、本当に美味しいんです。沢山食べられなくて、残念です」

申し訳なさそうに微笑って、雪月が言う。

「昔から夏の暑さが苦手でして……」

「夏は食欲が落ちても仕方ないです。私も夏は調子が悪くなりますし……。なるべく栄養は摂って頂きたいですけど……」

食事だけでなく、夏になってから執筆の進み具合も芳しくないし、暑さが苦手と言うのは本当だろうと思う。

華乃子は少し考えて、雪月を鷹村の所有する軽井沢の別荘に招いたらどうかと思った。軽井沢なら涼しいし華乃子も毎年のように避暑に訪れる。東京のような喧騒もなく、静かに執筆が出来るのではないか。

華乃子が実家に連絡を取ると、くれぐれも向こうであやかしと会っても言葉を交わしたりしないようにと念を押された。



そんなわけで鉄道を乗り継いで雪月と二人で軽井沢へ来た。やはり東京と違って随分と空気が涼しい。雪月も深呼吸をして解放感を味わっているようだった。

「いやあ、本当に涼しい。これは執筆も捗(はかど)りそうです」

「そうですか。それなら良かったです」

出迎えてくれた下女に荷物を預けると、華乃子と雪月は屋敷へ入った。

「先生は此方のお部屋をお使いくださいな。私は隣の部屋で控えています」

そう言って華乃子は雪月に南向きの一番いい部屋を宛がった。恐縮です、と頭を下げて、雪月は執筆に入った。
隣の部屋に入って、華乃子も寛ぐ。……と、荷物に紛れて太助と白飛が現れた。

「……ついてきたの……?」

華乃子が呆れて眉間に皴を寄せて渋い顔をしているというのに、あやかしたちは平気な顔だ。

『俺たちを置いて行こうなんて、ひどいぜ、華乃子』

『そうだぞ。華乃子の行くところに我らありってな』

本当に太助たちは華乃子にくっついて回って面倒なことこの上ない。くれぐれも雪月の邪魔をしないよう、あと他にいたずらをしないようにと言い含めた。

『そりゃあ、華乃子の為ならそうするけど、此処は東京よりもあやかしが多いから、華乃子の方こそ気を付けろよ。どんな奴に目を付けられるか分からないからな』

えっ、それは誤算だった。田舎の人は、まだ言い伝えを信じているのか……。

「ま……、まあ、此処は東京ほど人も多くないし、あやかしに会ったって、私を見てる人は少ないでしょ。大丈夫よ、きっと」

そうは言って笑ってみるものの、実際にあやかしに話し掛けられてしまったら姿かたちがおかしくない限り返事をしてしまいそうだし、其処は自信がない。どうして自分はあやかしが視えてしまうのだろう……。

『でも、華乃子の先生とやらがあやかしの話を書くんであれば、華乃子の体験は先生の執筆の良い材料になるんじゃないのか?』

白飛に言われて、成程そう言うものの見方もあるのかと思った。後で雪月に聞いてみよう。
自分の『視える』力が誰かの汚点になることはあっても、役に立ったことはなかった。
もしそれが叶えば、少しはこの力に対する嫌悪感がなくなるかもしれない。そうだと良いな、と華乃子は思って白飛に、ありがとう、そうしてみるわ、とお礼を言った。


暫くしてから庭に出ると、涼しい風が木立の間をすり抜けて華乃子の頬を撫でた。東京の喧騒から逃れ、家族の目も届かない此処でのびのびと出来ることは良いことだ。
下女が手入れしてくれていた庭の花々を見ていると、ふと敷地入り口のところから此方を窺っている子供の姿を見つけた。

「どうしたの? 何かご用?」

首を傾いで問うと、子供も首を傾げる。まだ他人の言葉が理解できないのかもしれない。親は何処に行ったんだろう。

「お母さんは、何処かな?」

入り口まで歩み寄って、膝に手を置き中腰で問う。すると子供は、華乃子の足にしがみつき、かーしゃ、と言った。

「えっ、えええ? 私、あなたのお母さんじゃないわよ!?」

焦って言う華乃子に、子供は、かーしゃ、かーしゃ、と嬉しそうにしがみつく力を強くした。ますます困って、下女を呼ぶ。

「梅、うめー! この子をどうにかして頂戴!」

呼ばれた下女が何事かと慌てて屋敷から出てくる。そして、玄関を出たところで、訝しげな顔をしてぴたりと足を止めた。

「……お嬢様、『この子』とは、いったい……?」

「何言ってるの、この子よ。足にしがみついて離れないの」

「足……、でございますか……?」

下女は眉間の皴を深くして、疑問を露わに華乃子を見る。……もしかして……。

「うめ……。見えてない……?」

「なにが、……で、ございますか……?」

これは、完全に見えてない。『この子』はあやかしだったのだ。

(失敗した!)

華乃子はそう思ったが、もう遅い。梅にはごまかすように笑って見せた。

「あ……、あらやだ。草がつま先に絡みついて、動かなかっただけみたい。叫んだりして、ごめんなさいね、梅」

そうは言ったものの、下女の顔つきは常人の中に交じりこんだ異物を見る眼付きのようだった。
屋敷に戻っていく下女の後姿を見つめながら、華乃子は足に子供をしがみつかせたままため息を吐く。
……兎に角、この子をどうにかしなければならない。親を探しているのなら、尚更の事。親に見放されることほど、子供にとって辛いことはないのだと、華乃子は自身の経験で知っていた。