まずは、僕の本を読んでみますか。

そう誘われて雪月先生のお宅へ伺った。古くて小さな長屋の一軒家で、風通しが良いと言えば聞こえはいいが、冬は寒かろう。

「て、照れますね、女性を家にお招きするのは……」

そういって雪月先生は、ははは、と頼りなく笑っている。部屋に上がると、書きかけの原稿用紙や資料と思われる書物が散らばっていた。

「先生、顔色があまり良くなくお見受けしますが、お食事、どうされていますか?」

華乃子が問うと、雪月先生は、食事、ですか……、と返事を躊躇った。

「まさか、召し上がってらっしゃらないわけ、ないですよね?」

「ああ、そういうことは、ないのですが、……何と申しましょうか、あまりお腹が減らないので……」

食欲がないからと言って、食事を抜いては駄目だ。雪月先生の不健康そうな顔や身体は、やはり食生活が不十分だったからだった。

「先生。ご執筆に精力的なのは良いことですが、身体あってのご執筆です。夕食だけでも、きちんとしたものを食べてください」

華乃子の言葉に雪月先生は、困ったように、そうですねえ……、と煮え切らない様子だ。もしかしてお金のことを心配しているのだろうか。

「あの、もしご迷惑でなければ、私がお作りしましょうか?」

「えっ、そんな……、そこまでしていただくわけには……」

それでも、家事に慣れない男の人が下女もなく、毎日食事を作るのは大変だ。
華乃子は子爵の長女でありながら、学校を卒業してから鷹村の別邸ではなゑと一緒に暮らしをしているので、はなゑに教えを乞うたこともあり家事全般一通りできる。

「私もまだ先生の担当になったばかりで、何がお役に立てるか分かってませんので、出来ることからやらせて頂きます」

畳に手をついて頭を下げながら、華乃子は、そう、雪月先生に宣言した。雪月先生は困ったように笑っていた。



その後、雪月先生のお宅で先生の作品を三冊ほど借りての帰り道。華乃子に話し掛けるものが居た。

『それで華乃子は嫁入り前だというのに男の家に上がり込むのか』

「煩いわね。仕事なんだから仕方ないでしょ。それに見たところ雪月先生はそんな悪い人ではないわ」

『いやいや、人間の男は信用ならない。俺の白い身体に泥を塗ったのも、人間の男だった』

そういって男を一からげにして嫌うのは、華乃子の目の前を行ったり来たりする、一反木綿。足元には猫又が寄りついてきて、あいつは止めとけよ、とこちらも忠告を口にする。

『あいつと関わったって良いことないぞ。俺の方が、よっぽど華乃子のことを幸せにしてやる』

「おあいにく様だけど、私、あやかしとどうにかなろうなんて、思ってないから」

……そう、こいつらあやかしたちが鬱陶しい。
昔から普通の人間が見ることのできない、あやかしの類を視ることが出来た所為で、彼らと喋っているところを級友たちに目撃され、変な子供扱いされて友達が出来なかったのは悲しく辛い思い出だ。

だから今の会話もぼそぼそとまるで独り言のように話す。時々咳ばらいを交えながら、話を繰り広げる。

「しかし、女性たちの社会進出を後押ししたいという私の夢は断たれたわ……。おまけに状況に負けたとはいえ、まかないの仕事までついてきちゃった……」

はあ、と今回の異動に肩を落とす以外に出来ない。華乃子は子爵家でもこのあやかしを巡って奇人扱いされて一人別邸に住まわされているので自立心が強い。同じように社会で頑張っている女性の為になることをしたかったのに、未来は上手く動かないものだ。

はあ、と肩で大きくため息を吐く。兎に角今日は借りてきた雪月先生の本を読もう。まずはそれからだ、と思った。