時は大正。都心では路面電車が当たり前になった頃、人々の在りようもまた変わって来た。
一方で既得権益に則り富を有する者がいる他方では女性の社会進出が活発になり、街に活気が溢れだしてきた頃のことだった。


子爵、鷹村邸。

「華乃子(かのこ)! またお前は変なものを相手にしていただろう!」

パシンと父・一夜(いちや)が華乃子を叩(はた)く。
華乃子には父が自分を叩く理由は分かっていたけど、原因は分からなかった。

「あやかしと慣れ合うのは止めなさいとあれほど言っただろう! どうして人間なのにあやかしと関わるんだ!」

「お父様、華乃子はお腹が空いたと言ったあの子に、おにぎりをあげただけです。何も悪いことはしていません……」

叩かれた頬を小さな手で覆い、華乃子は震える声で父に言った。

「それが人間には見えない、あやかしだったんだ! どうしてお前はあやかしなんかに慈悲を掛けるんだ!」

「だって、お父様、あの子が、お腹が空いたと言ったから……」

「良いか、華乃子。お前の口からあやかしの話は聞きたくない。この前は河童、その前は狐。金輪際あやかしと関わらないと誓うまで、華乃子を蔵に閉じ込めておけ!」

鷹村の持つ蔵はどれも大きくて立派だが、その分埃っぽく、冬は底冷えする。
華乃子はその蔵に閉じ込められて、しくしくと泣いた。

「お父様、ごめんなさい。此処から出して……。お願い……」

どんどんと扉を叩いても、母屋には聞こえない。華乃子は三日三晩、その蔵に閉じ込められていた。
母屋では華乃子と血のつながらない弟妹が、継母の愛情を一身に受けていた。

「お前たちは華乃子の真似をしないでね。あれは出来損ないの人間。友達が出来ないのも当然だわ。わたくし、あの娘の母親だと言うだけで、近所の人に奇異の目で見られるのよ。悲しいわ」

その様子を、父は黙ったまま見つめていた。




やがて華乃子は学校を卒業し、華族の社会に自分は必要ないと考え、世間の職業婦人たちと肩を並べて働きに出ている。
今日も着物に袴、編み上げブーツで勤め先の出版社に出勤した。

華乃子は婦人雑誌の流行ファッション特集する仕事をしている。今の時代、新しいファッションが次々と生まれていて、家庭から出て働く女性たちはそのファッションを楽しむことをしている。
自分と同じ職業婦人たちをファッションから後押しできるこの仕事を、華乃子は誇りに思っていた。
今日も新しい特集を組もうと席に着いた華乃子を、編集長が呼んだ。

「あー、鷹村さん。君には移動をしてもらう」

そんな話は寝耳に水だ。今の仕事はやりがいを感じることが出来、漸く会社でも居場所を見つけたと思えたのだ。そんな仕事を離れたくない。

「編集長、私は女性にファッションの提案をするのが合っています。どうか移動なんて言わないでください!」

華乃子が食い下がると、編集長も困り顔でこう言った。

「いや、鷹村さん。僕としても君の腕は惜しいんだが、何せうちの出版社は婦人誌だけでは食っていけないんだ。だから今回、文芸部に移動してもらうことになった。何分、先方の作家先生の直々の引き抜きでね」

「そんなっ!」

悲壮な顔をしても、もう社内人事は決まってしまっていた。華乃子はしぶしぶ文芸部の編集長に挨拶した。

「鷹村華乃子です。よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げると、文芸部の編集長は満面の笑みで迎えてくれた。

「いやあ、我が社の気鋭のファッション通である鷹村さんを我が部に迎えることが出来て嬉しいよ。ささ、こっちへ来て。先生を紹介しよう」

そう言って応接室に促される。部屋の一角に衝立で囲われた其処には、やさしそうだが若干病弱そうな白い顔をした風貌の男性が座って居た。

人の良さそうな月のカーブを描くやさしい双眸。眉はやや困ったようにㇵの字を描いている。鼻筋はすっと通っており、唇は薄くおだやかな笑みを浮かべていた。
前髪が中央で左右にふんわりと分かれていて、やわらかい髪の毛は彼がお辞儀をするとさらりと顔の輪郭に沿って流れた。

「こんにちは。雪月(ゆづき)と申します。お世話になります」

自己紹介をしてお辞儀をする声が若干弱々しい。白い顔も相まって病弱な感じを受け、自分はこの人の体調管理も任されるのだな、と感じた。

「初めまして、鷹村華乃子です。文芸部とは畑違いの婦人部に居たので、先生のお力になれるかどうか分かりませんが、頑張りますのでよろしくお願いします」

作家の先生と担当者とだったら、先生の方が上だ。それなのに華乃子が頭を下げると、そんな、僕の方こそお世話になります、とまた頭を下げられてしまう。

「僕には芥川先生や漱石先生、子規先生方のような文才はありません。どうか気楽に接してください」

そういってぺこぺこと頭を下げる。華乃子は『作家先生』の想像図を覆されて、ぽかんとした。これでは移動させられた憤りをぶつけられない。

ひょろりと細い腕が着物の袖から見える。原稿料が足りなくて栄養が摂れず健康状態のよくない作家はいくらでも居ると知っているから、取り敢えずは安くて栄養豊富な食事からだな、と華乃子は思った。