母屋に戻ると戸のところに子供が立っていた。子供は華乃子を見つけるとぱっと笑顔になり、たたたっと寄って来た。そして、「かーしゃ」と言って華乃子の足にしがみついた。その呼び方には覚えがある。

「えっ? もしかして、軽井沢で会った子かな?」

「軽井沢で?」

雪月が問うのに華乃子は答えた。

「夏に先生が別荘でご執筆されているときに庭に現れた子なんです。その時は雪女だって私は分からなくて、白飛が山に帰してくると言って連れて行ったんですけど、まさかこの郷まで?」

華乃子の疑問に雪月が答えた。

「きっと、赤城山まで運んだんじゃないでしょうか。霊峰として祀られているので、幽世との接点があります。あそこからならこの郷に帰るのも容易い」

成程。とすると、現世の人間が祀っている幾多の場所にはそれぞれ幽世との入り口がありそうだ。

「そうですね、その通りです。華乃子さんのお母様もそんな接点から一夜さんのことを見つけのでしょう。どの世にも、別世界に惹かれる個体は居ます。今居る雪女の中にだって、現世に憧れている娘が全くいない、と断じることは出来ませんね」

そう言うものなのか。古来から現世でも別世界への興味は尽きなかったようだし、お互いさまと言うところか。

「それにしても、お母様と和解できて良かったです。華乃子さんがお心の広い方で、僕もほっとしました」

一族の次代を担う雪月は、きっと華乃子の両親に対して心を砕いてくれたんだろう。

「私、少し自信持てました。私にも、愛してくれた人が居たんだな、って」

それは最初から与えられるものではなかったけど、でもこうやって、今、華乃子の心をあたためてくれる。華乃子がそう微笑むと、雪月もやわらかく微笑んだ。

「その『愛してくれた人』の中に、僕のことも加えてもらえると、嬉しいですね」

やさしい物言いにどきっとしてしまう。あの時の言葉が嘘じゃなかったと思い出して、動悸が走る。そんなのもうとっくに居るというのに、雪月には伝わっていないんだろうか。

「そりゃ……」

居ないわけないでしょ。そう言おうとしたら、子供が「かーしゃ!」と叫んで、手を引っ張った。玄関を指差して、どうやら何処かへ行きたいらしい。雪月に屋敷からあまり離れないよう言い含められて、華乃子は子供の手を取った。丁度雪月も誰かに呼ばれて廊下の奥へと行ってしまって、華乃子は子供と二人、散策を楽しむことにした。




「雪月様。あの娘は止めた方が良いです」

呼ばれて部屋には居ると、沙雪がそう言った。

「やあ、これはとんだ諫言(かんげん)だ。君は自分の立場を考えたうえで、そう言うのかな?」

沙雪は雪月の言葉にぐっと黙る。雪月は言葉を続けた。

「君のお母様が、華乃子さんのお母様に現世の何たるかを説いていたことを、僕は知っているよ。随分と脚色したそうじゃないか。それ故華乃子さんが独り置き去りにされた、その原因の尻拭いこそすれ、彼女との婚姻を止めろとは、図々しいにも程があるんじゃないかい?」

雪月の声は吹雪く雪のように冷たい。沙雪はこうべを垂れたまま、ぐっと奥歯をかみしめた。

「……あの娘は、力を持ちません……。雪月様にご迷惑が掛かることを、わたくしたち雪女は見捨てておけないのです……」

「それは、あの時僕だけを連れ戻した君たちが言うことじゃあないな」

男の雪女をみすみす人間界に盗られることはままならなかったんだろう。それにしたって、あの時一緒に華乃子も連れ戻せていたら、華乃子はあんなに長い間、独りで寂しい思いをすることもなかった。

「兎に角、僕は華乃子さんと番うことを宣誓しますよ。もとより、君との婚約話も僕がものを考えられるようになる前に組まれたことだ。華乃子さんのことでなんのお咎めもないことを、幸運に思って欲しいですね」

雪月は冷ややかに沙雪を一瞥すると、奥の自室へと帰って行った。沙雪はぎり、と両手を握りしめた。