「華乃子さん、何か悩み事ですか?」

不意に雪月から声を掛けられて、華乃子ははっとした。

今日も雪月の家に来て、資料の提供と食事の支度をしていた。最近雪月は年明けの出版を控えて執筆活動に大忙しだった。

「……先生はお郷に帰らなくても、良いんですか?」

沙雪は自分のことを婚約者だと言っていた。人間の風習に倣うのなら、年に一度くらい顔見せがあるだろう。けれど雪月は華乃子の質問に困った顔をして、万年筆を置いた。

「僕が今度、郷に帰るときは、結婚相手を決めた時、と此処に出てきてから決めていたのです」

え……。でも沙雪は自分のことを雪月の婚約者だと言っていたけど……。……もしかして、雪月の中では沙雪の立場は違うのだろうか……?

「さ……、沙雪さんは、結婚相手ではないのですか? あの……、実は以前、沙雪さんが訪ねて来られて、それで……」

不安な心のまま問う華乃子の言葉に、雪月がぴくりと反応した。

「……沙雪が、何か言ってましたか……?」

やさしい声音だが、応えることを拒ませない声音だった。華乃子も俯いて口を開く。

「先生の……、……婚約者だと、ご自分で……」

華乃子の言葉に、雪月は、そうですか、と呟く。そのまなざしが鋭くなったことに、俯いていた華乃子は気づけなかった。

「華乃子さん……。僕の勘違いだったら叩(はた)いてくださって構いません。華乃子さんが元気がなくなったのは……、沙雪のことを知ったからですか……?」

雪月の言葉にはっとして顔を上げる。……雪月は穏やかな微笑みを浮かべて華乃子を見つめていた。

視線が絡み合ってどきりとする。気弱そうなくせに、こんな時に視線をそらさない雪月から逃れようと、うろうろと視線を彷徨わせたけど、雪月が華乃子の名を呼ぶから、やっぱり雪月の顔を見なくてはならなかった。

「……先生に、御婚約者様がいらっしゃったって、……知らなかったから……」

だから、勝手に傷付いた、とまで言わせずに、雪月が手を伸ばして華乃子の両手を包んだ。雪女らしく、ひんやりとした、大きな手。それなのに、雪月の体温(ぬくもり)が伝わってくるようだった。

「……華乃子さん。沙雪は確かに郷が決めた婚約者です。……でも僕は、子供の頃に僕に親切にしてくれたあの少女に会いたくて、現世に来たんです。……同じ出版社に居ると分かって、有頂天でした……。職業婦人の未来を描こうとしていた華乃子さんの夢を邪魔してまで、傍に居て欲しかった……。もし、華乃子さんがお嫌じゃなかったら、……僕の郷に来て欲しいです……」

何時もは弱々しく視線を寄越すのに、今日の雪月はしっかりと華乃子を見据えて、熱い眼差しで華乃子のことを欲してくる。夢だったとか、勘違いだったとか考えていた雪月の本音に、華乃子の心臓が走り出す。

「……で、でも……、同族同士じゃないと、いけないって、……沙雪さんが……」

この前、そう言われた。華乃子では役不足だと、沙雪が言っていた。でも雪月が穏やかに微笑んで首を振る。

「僕は、十年以上前から、番うなら貴女だと決めていたのです。弱かった僕に、やさしさをくれた、貴女が良いのです」

親に忌み嫌われた理由そのことで華乃子を選んでくれるという。人間とあやかしのどっちつかずの自分でも良いと、言ってくれる。子供の頃から殻に覆われ、職業婦人として生きることで鎧を被り、沙雪に会って以来ずっと不安だった心が溶かされていく。溶けて結晶になったほころびは、ぽろりと涙になって頬に零れ落ちた。

「ああ、泣かないでください。貴女に泣かれると、どうしたら良いか分からなくなります……」

「ち……っ、違うんです……っ。は、……初めて、私は私のままで良いんだって、……思えて……」

自分のすべてを受け入れて、受け止めてくれる。そんな人が、現れるなんて思っていなかった。

ぽろぽろと涙を零す華乃子のことを、雪月はやさしく抱き締めてくれた。強引じゃないその腕が、とても心地よかった……。