奏太のいないお正月は、まるでスパイスのないアラビアータみたいだ。脂っこさに動きを封じられ、刺激のない物足りなさに時間を持て余すような日々。
 こんなことを口にしてしまえば、洸太からはただのだらけグセだろうと一蹴されてしまうだろうけど。
 仕事始めは、五日からだ。母に言うと「なら、前日までゆっくりしていけばいいのに」と引き止められた。けれど、なんだかんだと理由をつけて、二日の夕方には実家から自宅マンションへと戻っていた。ダラダラと過ごしたいのだ。
 テーブルの上でスマホが震えた。画面には鈴木君の名前が表示されている。
 仕事関係だろうか。一瞬そう過ったけれど、正月早々に掛けてくる電話などどう考えても違うだろう。洸太のことかと、僅かに出るのを躊躇ったけれど、忘年会で助けてもらったことを思い出しゆるゆると通話ボタンに触れた。

 待ち合わせ場所のカフェに着くと、鈴木君はすでに来ていて窓辺のテーブル席からこちらに向かって軽く手を挙げた。同じように手を上げてそばに行くと、今日も黒縁眼鏡の奥は三日月で、どうしてかふっと気が緩む。
「よかった」
 コートを脱いで足元にあるカゴに入れると、目を細めるいつもの笑顔を向けてきた。
「何がよかったの?」
 訊ねておきながら、財布片手に注文カウンターへ視線をやった。
「コーヒー、買ってくる」
 そんな私を見て、また目を細めている。
 コーヒーと言い置いたわりに、数分後テーブルへ戻って来た私の手にはホットチョコレートの入ったカップが握られていた。カップからは、甘い香りが漂っている。
「イメージ違うね」
「何が?」
 同じような問い返しに、鈴木君は目を細めるばかりだ。相変わらず三日月を維持し、笑みを浮かべている。頬の筋肉がそういう作りにでもなっているのかもしれない。普通にしていてもこの表情になるようなシステムとか……なんて。
 いつにもまして機嫌がいいように見えるのは、何かいいことでもあったのかもしれない。楽しい話なら、暇つぶしに聞かせてもらいたい。
「望月さんて、甘いの飲まない人かと思ってた」
 イメージって、それか。
 カップに口をつけ少しずつ飲めば、甘いチョコレートが脳内に回って思考が活発化していく気がする。
「疲れているのかも」
 ホットチョコレートに再び口をつければ、甘さが心地良くて息が漏れた。ダラダラしている毎日の方が意外と疲れがたまるのだろうか。仕事をしている時には、甘いものなんて欲しくならないのに。
 鈴木君の前には、黒い液体の入ったカップがある。
「あ、そうなんだ。ごめん」
「え? 何が」
 訊ね返してから、さっきから同じ言葉しか言っていない事に気がついて笑えた。
 つられて、鈴木君も少しだけ声を出して笑う。
「実家に戻ったりしてるかなと思ったけど、連絡してみてよかったよ」
「一応、年末から戻ってたけど。実家に長居してても暇だしね。マンションに戻ったからといって暇なのは変わりないんだけど。なんていうか、実家にいる意味がないかなって……」
 実家にいる意味なんて、今までは奏太がいたからで。洸太がいても、家族といても、私の中ではなんの意味ももたらさない。
 そんなことを口にしてしまえば洸太も両親も悲しむだろうけれど、それが今の私の心の中にある本音だった。
「鈴木君は? 帰ったの? 実家」
 ホットチョコレートに息を吹きかけ、目の前の彼を窺い見れば「うん。……少しだけね」とすぐに話を逸らしてしまった。私と一緒で、自分のことを話すのは好きじゃないのかもしれない。
 お互い様というように、それ以上自身のことを話すことも相手のことを訊くこともなく、なんとなしに視線を外へと向けた。
「三日ともなると、そこそこ人も増えて来てるね」
 通りを歩く人たちを見れば、普段よりは格段に数が少ないとはいえ、それでも昨日より人通りは多い。道行く人と同じくらいたくさんの買い物袋が目立つのは、ここぞとばかりにセール品を買っているからか。私はあまり人混みが得意じゃないし、それほど物欲もないせいか、セールに行こうという気にはならない。最近服を買ったのはいつだっただろうと考えれば、春先にまとめ買いして以来だったことを思い出し苦笑いが浮かぶ。
「望月さん」
 知っているブランドの買い物袋を抱えている女性になんとなく目が行き、何を買ったのだろうと想像していたら改まったように名前を呼ばれた。
 外に向けていた視線を戻すと、眼鏡の奥が真剣みを帯びていた。
「芹沢さんとは、付き合ってるの?」
 前置きもなく切り込まれたプライバシーに、しばらく黙り込んだ。前回、洸太とは幼馴染だと話したけれど、それだけでは納得がいかなかったのだろうか。
 なんにしろ、鈴木君には洸太と私が付き合っているように見えるのだろう。だとしたら、社内からも同じように見られているって事だよね。
 呼び出された理由がこれかと思うとため息が漏れた。
 結局は、みんな洸太なんだ。だから言ったじゃん、巻き込まれるのは面倒だって。洸太の阿呆。
 でも、この場合は特殊だから仕方ないといえば仕方ないのか。洸太のことを年末から気にしていた鈴木君のことだから、乙女心を抱えて心をすり減らしていたことだろう。でも、巻き込まれたには違いないからやっぱり面倒だよ。
 二度目の息を吐くと、目の前では鈴木君が動揺していた。私が怒っていると思っているのだろう。怒っているわけではないけれど、多少のイラつきはある。
「あ、ごめん。えっと……」
 吐いた溜息に鈴木君がどうしようとでもいうように狼狽している姿は、一方的に虐めてでもいるみたいだ。
「謝るくらいなら、初めから訊かない方がいいと思うけど」
 こういう子、高校の時にいたよね。後先考えずに近づき質問して、言い返されると動揺しちゃってすぐ謝っちゃうの。考えがなさ過ぎでしょ。覚悟が足りないのよ。あー、面倒くさい。
 教会へ行って、神父様にでも相談してみたら?
 少しイラっとした表情を向けると、迷える子羊だったはずの鈴木君が突然シャキッと態度を変えた。
「いや、うん。謝らない。さっきのは、撤回」
 態度を改めると、背筋を伸ばして目を見返してきた。
 質問に答えて欲しいという顔は、ここへ来た時に手を挙げ浮かべていた笑みなどなかったみたいに真面目腐っている。
 バカ真面目だ。あ、この場合は、馬鹿正直っていうのか。
 呆れつつも撤回した彼に応えようと思ったのは、鈴木君が羊の皮をかぶったオオカミに見えたからではない。雑な性格をしている私に、真っ向から向き合おうっていう意気込み? みたいなものを感じたからだ。でも、少しだけ意地悪をしてみたくなるのはどうしてだろう。
「付き合ってるって言ったら、どうなるの?」
 淡々と返すと、鈴木君はヒュッと僅かに息を吸い込んで苦い顔をした。
 今度は、子犬をいじめているみたいな気持ちになってきた。
 答えを待って肩に力を入れている鈴木君を目の前にして、冗談でもこれ以上きついことを言う気力が削がれていく。怯える子犬をいじめる趣味はない。
「付き合ってないけど」
 息を吐きつつ応えてから、ホットチョコレートを再び口にした。冷めてきたせいか、甘みを強く感じて、ホイップを追加すればまろやかになったかなと、カスタマイズしなかったことを少しだけ後悔した。
「そう……、なんだ」
 目の前の鈴木君は、ホッとしたような顔をしている。やっぱり洸太に気があるのだろう。女だけじゃなく男まで虜にするなんて、洸太ってば罪な男だよ。
 こういう場合は、協力してあげるべきだろうか。同性同士の恋愛はよくわからないけれど、異性相手よりも色々と困難のように思える。
 ただ、洸太のことを思えば、ここで鈴木君を薦めるというのも、ね。
「協力してあげたいけど、多分そっちの“け”はないと思うよ」
 断りを入れると、驚いたような表情のあとに複雑な顔をした。やっぱり、同性同士は大変なのかもしれない。
 暇を持て余していたところもあって外出してきたけれど、こういった話で時間を潰されるのは本意じゃない。そう考えれば、予定を決めて映画に誘った洸太は幼馴染ながらよくできた男なのだろうと改めて思った。
 どうして洸太は彼女を作らないのだろう。奏太がいなくなり、一人になってしまった私に悪いとでも思っているのだろうか。変なところが生真面目な男だから、なくもないよね。今度会った時に、気にしないよう話してみようか。男の二十九歳なんて、まだまだこれからだろうけれど、私のせいで行き遅れたなんて言われても敵わない。
「話は、それだけ?」
 席を立とうとして、カップのホットチョコレートがまだ半分以上も残っているのに気がついた。一気に飲み干そうと口をつけたけれど、この甘い飲み物は冷めてしまうと喉に纏わりつくようで何とも飲みにくい。一口二口飲むのが精一杯だった。
「何か用事があった?」
 帰りたそうにしている様子を察知して、気遣うように訊ねてくる。
 用事と問われれば特に何もない。ただ、無駄な会話に意味を見出せないだけだ。家にいても無意味に時間を潰しているだけだろうと、洸太の皮肉が聞こえてくる。
 そんな時、賑やかな話声をあげて家族連れが隣のテーブル席に着いた。小学生くらいの女の子がパパらしき男性と楽しそうに話し、ゲーム会社のロゴが入ったビニールの袋からお菓子や小物などをテーブルへと出し始めた。それを母親が「こんなところで広げないで」と止めている。
「UFOキャッチャーだね」
 母親に咎められ、つまらなそうな顔をしながらお菓子たちを袋へ戻す女の子を鈴木君が眺めている。その表情は一見穏やかだけれど、どこか寂しげで翳りのようなものが窺えた。
 普段はアニメのキャラみたいに目を三日月にしているから、少し陰の入った顔つきはどこか別人のようにさえ見えた。
「行こうか」
 不意に声をかけられて思考が戻る。
 何処へ? そう問うことにさえ気がまわらず、立ち上がった彼に倣うようにしてコートを手にした。
 ホットチョコレートは、まだ三分の一ほど残っていた。