小学生の頃。日曜日の午前から、私たちは公園に向かっていた。確かあれは、三月頃だったはず。
 春だといっても朝の空気はまだまだ冷たくて、寒さに身を固くしていたのを憶えている。
 金曜日の放課後の帰り道に、洸太が弾むように言い出した。「四丁目にある公園まで行こう」と。
 私と奏太は、当然のように驚いた。だって、四丁目の公園に行くためには、通っている小学校とは逆方向へ歩いていき、一旦大通りに出てからその大通りを渡り、更にお大人の足で五分ほど行かなくてはならないからだ。子供の足では四丁目にある遠い公園に行くことを、うちの親も奏太と洸太の親も心配してよく渋っていた。
 けれど洸太は、「宝探しに危険はつきものだ」と息巻き、親たちには内緒で私たちを誘った。

 四つも年の離れた洸太だけれど、その頃は奏太よりもずっと冒険や探検なんかに夢中だった。夜にやっていた宝物を探す映画に影響され、宝探しごっこなるものをやろうと奏太や私を誘ったのだ。

 前日に洸太が描いた宝の地図を渡され、私と奏太はそれを頼りに公園の中を探し回る。洸太は、私たちが探している間に、こっそりとポケットに忍ばせてきたお菓子のおまけを、滑り台の影やシーソーの下に隠していた。それを探し当てるのが楽しかったのを憶えている。
 そんなある日の帰り道に、奏太が不意に足を止めた。

「ねえ、菫。ほら、見て」

 隣を歩いていた奏太が指をさした先には、花屋があった。店先に並ぶ花は色とりどりで、カラフルな中にある緑の葉たちが柔らかな陽を浴びていて気持ち良さそうだ。
 黒のポリポットにいくつも植えられている紫色の花を、奏太は眺めていた。

「それ、菫だろ」

 半歩後ろを歩いていた洸太が、少しだけだるそうにしながら私に向かって応えた。

「へぇー」
「へぇー、って、自分の名前だろ。なんで知らないんだよ」

 その頃、花の名前などまだよく知らなかった私は、そんな言葉しか口から出てこなかったのだけれど、洸太にはそれが不満だったようだ。
 面倒臭そうに言って立ち止まる洸太に向かって、「口が悪いよ」と奏太がたしなめるような顔を向ける。洸太は唇を少し尖らせ、不満げに口を噤んだ。
 どっちが年上かわからない。そんな二人から視線を戻し、綺麗な紫色を広げた花を見た。
 そっか、このお花、私と同じ菫っていうんだ。

「綺麗だね」

 奏太に笑顔を向けると、そのすぐ後ろからまた憎まれ口が飛んできた。

「花は、な」

 いちいち余計な一言を言う洸太を睨みつける。

「洸太、煩いっ」

 怒って言い返すと、「まぁ、まぁ」というように奏太が間に入る。三人の仲は、いつもこんな調子だった。洸太が私にちょっかいを出し、奏太が洸太を窘める。そして、奏太は私に優しくしてくれるのだ。

「もうすぐ、菫の誕生日だよね。僕、菫にこの花をプレゼントするよ」

 店先のポリポットを指差す奏太に、「そんな金ないだろう」と夢も希望もないセリフを投げつけてから、洸太は先を歩き出した。

「絶対買うよ。ママのお手伝いをたくさんして、お小遣いを溜めたら必ず買うから。だって、僕は菫の笑顔が大好きだから」

 初めは洸太に向かって言い返していたのに、最後には柔らかな笑みを添えて私を見てくれる。
 そんな奏太の笑った顔は、まだ夏にもならないのにひまわりみたいに眩しかった。


「奏太」

 漏れ出た自らの声に目を覚ました。瞼を持ち上げれば、見慣れたクリーム色の天井がぼんやりと目に映る。柔らかな布団に潜り込んでいた体が温もりを求め、さらに襟元まで毛布を引き上げた。

 昨夜、鈴木君と飲んだあと、家に戻ってからシャワーだけを浴びてすぐにベッドへと潜り込んでしまった。
 布団から出ている顔が冷たい。十二月の空気は、容赦ないようだ。もぞもぞとリモコンを手にしてスイッチを入れ、エアコンの暖房を全開にした。
 もう少しあったかくなるまで、この中にいよう。

 懐かしい夢だった。小学生の頃の淡い思い出だ。あの頃から、三人でいるのが当たり前だった。少し離れた公園に出かけるだけで、まるで冒険でもしている気になっていた。
 そういえば、花屋に売られていたあのポリポットの菫は、奏太からプレゼントされただろうか。貰ったような気もするし、結局貰えなかったような気もする。
 私の誕生日にと言っていたけれど、考えてみれば奏太の誕生日の方が間近だったんだよね。私、何か奏太へプレゼントをしただろうか?

 曖昧な記憶を辿っていたら、枕元にあるスマホが震えた。手に取り画面を見ると、洸太からだった。
 メッセージには【既読無視かよ】と一言。
 遡ってみたら、電話に出ないことを心配している文面が幾つかと、その後無視されていることへ多少の怒りをこめたメッセージが続いていた。

 そうだった。バーで掛かってきた電話を無視したんだっけ。あの場所の雰囲気があまりに心地よくて、二次会で盛り上がっただろうテンションの高い洸太の相手をしなくちゃならないと考えたら、ボタンを押す気にはならなかったんだ。鈴木君に気を遣ってもみたけれど、彼も照れくさいのか結局出ようとはしなかったし。

【ごめん、寝てた】

 それだけ返すと、すぐさま電話がかかってきた。

「体調、良くないのか?」

 通話が繋がった瞬間には、話の続きが始まる。相変わらずせっかちだ。

 体調? 疑問に思ったけれど、まーいいかと黙っていた。

「大丈夫そうなら、飯でも食わね?」
「今何時?」
「十一時」

 そうか、もうすぐお昼なんだ。寝すぎたかな。

「どうせまた引きこもってんだろ」

 確かに、洸太からの誘いがない日は、家から一歩も出ないで終わる休日はよくあった。

「彼女は?」
「そんなのいないって」

 社内でモテ男の洸太だから、このセリフはお決まりのように口にしていた。
 仕事ができて、上司からの人望も厚い。幼馴染の贔屓目を抜きにしても、顔立ちは整っているし、鼻筋は通っていて、瞳はスッとした一重で涼しげだ。身長だって百八十センチを超えている。これでモテなきゃ相当性格が悪いでしょって話だ。
 女性が寄り付かない理由を敢えて言うなら、涼しげな瞳で睨まれると震え上がるくらい怖いっていうのはあるけれど。

 冗談で、「相手を脅して、仕事取ってるでしょ」とふざけて言った時があった。本人は、ゲラゲラと笑っていたけれど、強ち嘘じゃないのかもしれない。あの目、知り合いじゃなかったら身が竦む。
 小さい頃は、もう少し柔らかな視線をするタイプだったのに。いつから、あんなになったのだろう。

 洸太とは対照的に、奏太の瞳はきれいな二重でかわいらしい。かわいいなんて言えば、奏太でも怒るかもしれないかな。口にして言ったことはないけれど、その目に見つめられるのが本当に大好きだった。身長はギリ百八十センチで、「兄ちゃんには、結局追いつけなかった」と苦笑いを浮かべていたっけ。
 サラサラのストレートショートは飾りっ気の一つもなく、黒髪のままだった。それが、奏太らしかった。その点洸太は、おしゃれ番長のようにヘアスタイルもカラーもしょっちゅう変えている。今は、ビジネスショートでアッシュブラックにしている。軽く刈り上げたところの剃りあとに触れると気持ちいいんだよね。

「犬や猫じゃねーんだから、おかしな触り方するなっ」て洸太は嫌うけど、犬や猫ならもっとふんわりしてて抱き心地がいいから。

 思考を現実に戻し、スマホに向かって口を開いた。

「よくわからない女の子たちに、あとからぐちぐち言われるの嫌だからね」

 洸太は軽口をよく叩くし、女の子には優しい。仕事もソツなくこなすから、ウケがいい。だからか、勘違いする女の子が多い。私と洸太が幼馴染だと知らない子たちは、あからさまに鋭い視線をよこしてくるし、噂話の中心にされるのはよくあることだった。迷惑でしかない。
 そんな風に女子ウケがいいにもかかわらず、彼女いない発言は不思議でならない。
 やっぱりあの目のせいか、性格の問題か。

「言いたい奴には、言わせておけばいいんだよ」

 洸太はそれでいいかもしれないけれど、攻撃されるのはこっちなんだけど。

 部屋が温まるにはまだ少し早いけれど、布団の中から出て、繋がったままのスマホを手に洗面所へ向かった。ハンズフリーにして、鏡のそばに立てかける。
 夜遅くにお酒を飲んで、あのバーテンダーの美味しい料理を食べすぎたせいか、鏡をのぞくと心なしか顔が浮腫んでいる。

「出かけたくないな」

 浮腫んだ顔を見てぼそりと独り言を呟きため息をつくと、繋がっていたハンズフリーの向こうから「感じ悪い」と抗議された。

 繋がってたの、忘れてた……。

「洸太も、そろそろ落ち着いたら? 私にいつまで構ってても仕方ないでしょ」
「スミレに言われたくない」

 鏡の前で肩をすくめる。

「いつもの店で待ってるから、こいよ」

 言ってすぐに通話が切れてしまった。

「有無は、言わせないと」

 いつもながらに強引で自己中だ。


 洸太の住む一人暮らしのマンションと、私の住むマンションの丁度中間辺りに位置する喫茶店は、モーニングが終わった途端にランチが始まる。常に手頃な価格で食事ができるから、私たちはその喫茶店をわりとよく利用していた。
 外観は昔ながらの喫茶店という様相で、外からでは中の様子がよく見えない。おかげで、何も知らないと余計な妄想だけが先走りする。
 嵌め殺しの窓の奥なんて覗こうものなら、タバコをふかし新聞を広げた中年のサラリーマンに睨まれるんじゃないだろうかと思わせ、二の足を踏ませるんだ。
 明るく清潔感にあふれたオープンカフェに慣れた最近の若い子たちなら、まず利用しない類の店だ。そんな若者の寄り付きそうにない店を、私たちが利用するようになった切っ掛けは奏太だ。

 奏太というのは、どういうわけか人との繋がりに長けていた。近所のおばちゃんやおじさん。通りの魚屋さんや精肉店のおばさん。書店のおじさんもそうだし、一時しかそこにいないマンション工事についている警備員など。気が付けば、誰もが奏太の知り合いになっていた。不思議な人だった。

 奏太がいなくなってから、洸太は少しばかり彼のまね事をするときがあった。この店は、その時のまね事が切っ掛けで知ることになった。今までなら絶対に近寄ることもない、店内の雰囲気が少しもわからない喫茶店に入ろうと言い出した時は驚いた。

「入ってみたら、意外と居心地がいいかもしれないだろう。奏太なら、入ると思わないか?」

 そんな風に言いながらも、私が逃げ出したりしないように、しっかり手を握り放さなかったことを憶えている。意外と小心者なのだろう。

 木枠のドアを開ければカウベルが低くカランと鳴り、マスターが低い声で「いらっしゃい」と迎えてくれる。
 そう、この声だ。地響きかと思うくらい低く、マスターのことを知らないお客なら回れ右をして出ていきたくなるだろう。よく店が潰れず、今まで生き抜いてるなと感心してしまう。

「マスター、おはよう」
「もう昼だよ」

 マスターが低い声で笑う。その声とは裏腹に、笑った顔に皴をたくさん作って、目じりを垂らし愛嬌がある。
 マスターに昼だと訂正されて、「そっか、そうだった」と少しの笑いがこぼれた。
 いつもの窓際奥にあるテーブル席には、既にコーヒーを飲みながら雑誌を眺めている洸太の姿があった。

「おせーよ」

 席に近づいて直ぐに、文句を言われた。

「そうかな」

 待たせているつもりなどなかったから気の無い返しをして腰掛けると、スマホ画面の時計を見せられた。
 時刻は、十三時になろうとしていた。

 結構、経ってた。

 納得して、「ごめん」と謝ると、気持ちが入ってないと面倒なことを言ってくるから無視した。

「マスター、エビピラフのセット」
「いつものだね。ホットでいいかい?」
「うん」

 コートを脱いで空いた隣の席に置くと、先に注文していた洸太のナポリタンセット大盛りが届いた。

「またナポリタン。飽きないの?」

 苦笑いを向けると、フォークへ手を伸ばしながら目を見てくる。

「俺は、一途だからな」

 真面目な顔をしてナポリタンへの愛を告白されたから、声を上げて笑ってしまった。

 この町へ引っ越してきたのは、就職が決まってすぐだった。実家からだと会社へ通うには少し距離があるから、すぐに一人暮らしをする決断をした。
 そんな私が心配だからと、元々一人暮らしをしていたマンションの更新時期も重なってか、洸太までもこの辺りに越してきた。その時は奏太も一緒で、二人は少し広めの2LDKに住んでいた。
 けれど奏太がいなくなり、二人の両親からも一人暮らし用のマンションへ引っ越すように言われ、洸太は渋々というように現在のマンションへと越した。
 洸太にしてみたら、いつ奏太が戻ってきてもいいように住処を変えたくはなかっただろうけれど、出費の嵩む家賃を思えば、そうもいかない。

 奏太のいない部屋を引き上げるときの物悲しさは、今もよく憶えている。いつ帰ってくるとも知れない奏太を待ち続けるわけにいかない。洸太も、洸太と奏太のおばさんも、そして私も。みんながみんな、そう自らに言い聞かせているようだった。

 大盛りのナポリタンが大盛りだったこともわからないほどの速さで、洸太が皿の上からあっという間に消してしまった。少し視線を外しているうちに、オレンジ色のシミだけを残したお皿は、マジシャンの小道具のようになっていた。

「よく噛んで食べなよ」

 どっかの掃除機並みの吸引力に呆れていると、頼んだピラフがやってきた。

「スミレも毎回ピラフだな」

 口の周りのケチャップを紙ナプキンで拭い、満足したように背もたれに寄りかかる。

「私も一途だから」

 ニカッと笑うと、洸太は複雑な表情をした。

 届いたピラフを食べている間、洸太は雑誌をめくり何も言わずに黙っている。この感じは、いつものことだった。洸太と食事へ行くと、会話という会話もないまま、ただ黙々と食事をすることが多い。
 対照的に奏太は、よく喋った。目をキラキラさせて話す全てに、私はいつだって心を奪われていた。どんな事も、奏太が話せば魔法にでもかかったみたいに楽しかった。食事の時も賑やかだった。
 奏太がいた頃は、何もかもが眩しくて、生き急ぐみたいに毎日を楽しんでいた。今思えば、奏太がいなくなることを、どこかで感じていたのかも知れない。
 できるだけ奏太のそばにいて、声を上げて笑い、はしゃいぐ。そうしていれば、それよりも楽しいことなどあるわけ無いと、奏太を引き止める材料になる気がしていたのかもしれない。

 結局は、こうなってしまったけれど……。

 今洸太と二人になって、会話はあまりないけれど、それは悪いものじゃないと思っている。食事を邪魔されないからだ。
 それに、楽しくおしゃべりしながら食事をするなんて、変に生真面目な洸太とはイメージできない。いい加減なところの多い私にしてみれば、下手をすると洸太との会話が説教に変わりかねないから、そうなると面倒に感じるというのもあった。

 食べることに集中する時間は嫌いじゃない。もちろん、楽しく会話をしながらも嫌いじゃないけれど、人は選ぶ。そういえば、昨夜は鈴木君とそれなりに会話をしながら食事をした。鈴木君とは、ありってことか。

 鈴木君はほんの少しだけれど、奏太に似ているのかもしれない。変にヘアスタイルをいじらないところや、眼鏡の奥がいつもにこやかに三日月になっているところ。そうだ。忘年会の時に来ていたダッフルもそう。奏太も、ダッフルコートを愛用していた。
 鈴木君と初めてまともに会話をしたことで、そういうことに気が付いた。だから、少し親近感がわいて、おしゃべりになったのかもしれない。

 窓の外に時々視線をやりながら、目の前のピラフをお腹におさめていく。時々、水を口に含みスプーンを休め、また口にする。その作業は、今の自分みたいだ。急ぐこともなく、ただ漫然と日常を超えていくのに似ていた。

「体調は、大丈夫なんだろ?」
「え?」

 なんのことを言っているのか瞬間的にわからなかったけれど、二次会を蹴った理由に仮病を使った事を思い出した。ついでに言えば、今朝も「体調、良くないのか?」と訊かれたことも思い出した。

「仮病か」

 表情から読み取られて、肩を竦めた。

「ごめん。カラオケの気分じゃなかったから」
「あいつ。メガネの鈴木と帰ったのか?」
「ああ。うん。そうだね」

 寄り道したことは、話さない方がいいかな。
 洸太は四つ上ってだけで、昔から保護者気取りのところがあり少し面倒臭いのだ。起きてすぐに、説教などされたくない。

「あいつ。スミレのこと好きだろ」

 食後のコーヒーに口をつけた瞬間、洸太が驚き発言をするから思わず吹き出しそうになった。
 あの日初めて話したといっても過言じゃないのに、何を根拠に好きなんて言ってくるのか。

「ちょっと、何言い出すの? ないでしょ」

 吹き出しそうになったついでに火傷しそうにもなって、舌をチロリと出す。グラスのお冷やを少しだけ口にすると、舌がピリピリとした。

「まったく、何でもかんでも愛だ、恋だ、に結びつけようとして。洸太の周りと一緒にしないでよね」

 言い返すと、苦笑いされた。

「スミレは、奏太一筋だもんな……」

 俯き加減で零した洸太のセリフに、ため息と共に、「そうだね」と返した。

 胸を張って返せない自分が情けない。けれど、時間が経てば経つほど、不安は膨らむし、気持ちは揺らいでいく。好きだという気持ちを消しきるなんてことはできないけれど、そばにない温もりや、聞くことのできない声は、気持ちを少しずつ蝕んでいた。

 俯いたままの洸太が顔を上げると、顔つきは言ったことを後悔しているみたいに見えた。
 そもそも鈴木君は、私よりも洸太に興味がありそうだよ。とは、鈴木君の気持ちを考慮して、口にするのはやめた。こういう想いは、デリケートだろうし。

「このあと時間あるだろ。今日から公開の、観たい映画があるんだ」

 上着とテーブルにある二枚の伝票を手に、洸太が立ち上がる。

「あ、それ私の分」

 ピラフの伝票も手に取るから慌てて声をかけると、「無理やり呼び出したから奢る」と、そのままレジへ行ってしまった。

「マスター、ご馳走さん」
「毎度」

 低い声でニッコリと笑うマスターに会釈をし、さっさと外へ出てしまった洸太の後を追った。

「ねぇ、払うよ」

 財布から札を取り出していると、「いいって」と背を向けられた。こうなると、洸太は絶対に受け取ってくれないのは長年の付き合いで知っている。何かの折に奢ればいいか。

「今日公開なら、混んでるんじゃない?」

 電車に乗り、映画館の混雑している様子を思い浮かべながら訊ねると、既にネットから予約を入れているらしい。抜かりない。
 これだから、モテるのだろうな。そのエネルギーを私なんかじゃなくて、洸太を好きな子に使えばいいのに。

 流れる景色に目をやりながら、そんなことを思っていた。