鈴木君と花見をした翌日の朝も、洸太は玄関先で私のことを待っていた。
心配してくれているからだとわかってはいるけれど、過保護すぎる気がしてならない。洸太が考えるほど、今の私は弱っていない。あの時の私とは違う。過去の私より、今の私はずっと強くなっている。そう思いたいし、そうなりたい。
全ての記憶を取り戻したからこそ前に進まなくちゃいけないし、下を向くことはしたくない。
芹沢家に訪ねて行った時のおじさんやおばさんの優しい言葉や、両親の気持ちにも応えたい。何より鈴木君や俊君といる時間に、私は癒され元気をもらっている。
奏太とはなんのつながりもない彼らといることが、いい影響を与えているのかどうかはわからないけれど、少なくともあの二人の前では本気で笑えていた。
洸太に守られ大きな壁に囲まれ過ごしてしまったら、前を向く力を失ってしまいそうだった……。未来を見ることを遮られてしまっている気になる。
「ねぇ、洸太」
会社の入るビルのエントランスを並んで歩きながら、エレベーターに歩を進める。
「もう……、送り迎えは、いいよ」
言葉にしてみると、とても素っ気ない感じがした。洸太を傷つけたいわけじゃないから、もっと何か前置きをした方がよかっただろうか。
変に受け取られなければいいなと隣を行く洸太の顔を見たら、それは無理なようだった。
ショックを受けたように、洸太の顔が切なさに歪んでいる。その顔を見た瞬間、胃の当りがキュッとなり。胃液に侵されたような酸っぱい感覚が込み上げて、右手が自然と腹部へと動いた。
洸太の歪む顔を見続けられず、視線を磨かれた床へと落とす。沢山の足音が反響するエントランスで、唾を飲み込み気持ちと一緒に顔も上げた。
「送り迎えなんて、いつまでも続けられないでしょ。洸太には、洸太の時間があるし。私には私の時間がある。洸太は私なんかよりもずっと忙しいんだから、無理することないよ。それに、私。前に進みたい」
一人でも大丈夫だと遠回しに言ったのだけれど、伝わっただろうか。
話している間、洸太は何一つ言葉を発しなかった。ただ、傷ついたような瞳が揺れていて。酷く悪いことをしている気にさせられる。
沢山の社員と一緒に、エレベーターに乗り込む。他の社員がいることもあって、エレベーターの中では何も話さなかった。
たどり着いたフロアで流れに乗るようにエレベーターから降りると、洸太がポツリと漏らした。
「わかった……」
その一言はとても重く悲しげで、この選択は間違いだったのかと思えてきた。
けれど、進みたいんだ。歩き出さなくちゃいけないんだ。私の時間は、動いているのだから。あの日からずっと動き続けていたのだから。立ち止まっていた分、少しくらい駆け足になってでも踏ん張っていきたい。
俯き加減のまま、洸太は自席へと向かう。その背中を見送り、私も席へ向かった。
数歩行ってから、昨夜の花見のお礼を言おうと鈴木君のデスクへ向かったのだけれど姿がない。踵を返して、以前にもいた休憩室へ向かった。ぼんやりと眠そうな眼差しでコーヒーを入れている鈴木君を想像しながら中を覗き込んだけれど、そこにも彼の姿はなかった。
まだ出社していないのだろうか。
自席に戻りバッグを置いて再び鈴木君のデスクへ視線をやっても彼の姿はなかった。
お昼を過ぎた頃になっても姿を見なくて、今日は休みなのだろうと思うと残念な気持ちになる。昨日は休むという話などしていなかったけれど、夜の肌寒さに風邪でも引いてしまったのだろうか。
私が花見の話なんかしたから、無理をしてくれたのかもしれない。そう考えると、申し訳ない気持ちになっていく。
花見のお礼は明日にしようと、気持ちを切り替えてみたのだけれど。翌日も、その翌日も鈴木君は出社してこなかった。
昨日から、洸太の迎えがなくなっていた。お願いしたことを実行してくれているのだ。
玄関先で履き慣れたヒールに足を入れ、バッグの他に保温バッグも手にする。今朝は久しぶりに早起きをして弁当作りを再開した。
前日の帰りにスーパーへ寄り、あれこれと食品を眺めながら洸太に悪いなと思う気持ちを少しずつ振り切るように食材を見て歩いた。
出社してすぐに目がいくのは、鈴木君の席だった。今朝も、机の上にはビジネスバッグは置かれていない。まだ出社していないのか、今日も休みなのか。
「ねぇ。鈴木君て、今日も休みなの?」
同じくらいの時間に出社していた、鈴木君の向かい側に座る男性社員に訊ねてみても首をかしげられるだけだった。
洸太に訊いたらわかるだろうか。上に立つ人間だから社員のことは把握しているだろうと思っても、送り迎えしなくていいと拒否した手前訊きにくい。
「どうしたんだろう」
ランチの時間になり、休憩室でポツリと独り言をもらしたところに洸太がやって来た。
「あんな奴のこと、そんなに気になるのか」
嫌味っぽい口調の洸太は、コーヒーを淹れると私の前に座った。
「言い方に棘がある」
「当然だ」
何が当然なのかわからないけれど、それについて訊ねてしまえば碌なことを言われない気がして口を閉ざした。それ以上訊ねてこないと理解したのか、洸太も何も言わない。ただ黙って、自ら入れたコーヒーに口をつけている。
昼時なのにランチにも出かけずにこんなところでコーヒーを飲んでいる洸太だから、きっと何か言いたいことがあるのだろう。断った送り迎えのことだろうか。やっぱり明日から迎えに行くと言い出すのだろうか。それともランチの誘いに来たのに、以前同様私がお弁当を作ってきていたことで、出かけるタイミングを逃したのかもしれない。昨日までは作ってきていなかったのだから、その可能性は高いかな。
かといってそんなことを口にしまえば、送り迎えの話がぶり返してしまう気がして、結局鈴木君のことを話した。
「今日で三日目だよ。体調でも崩してるのかな。一人暮らしで発熱って、大変だよね。連絡、してみようかな」
連絡先は知っているのだから気になるならかければいいのだけれど、なんとなく踏ん切りがつかずにいた。高熱で寝ているところを起こしてしまうのは申し訳ないと思う傍ら、そもそも私から電話なんて来たら迷惑な気がしてしまう。休み中に社の知り合いから連絡なんて、してもらいたくないだろう。
「スミレが心配することじゃない。それに、あいつ自身は元気だ」
その言葉に弁当へ向けていた視線を素早く洸太へやった。
「何か、知ってるの?」
問いかけに応えたくないのか洸太は口を噤む。
「洸太が教えてくれないならいいよ。部長に訊いてくる」
社員の事情をわざわざ部長に訊ねるなんてよく思われないだろうと我慢していたけれど、洸太の態度につい勢いづいてしまった。
食べ終わったランチボックスを素早く片付け始めると「わかったよ」と渋々口を開いた。
面倒そうな顔つきをしてから、ため息交じりに話し始めた。
「家族の調子が……悪いらしい」
「――――え」
洸太の言葉に脳内が素早く動き出す。
鈴木君の家庭状況はよく知らない。一緒にいても家族の話題になったことはなかった。
家族って、誰だろう。お父さん? お母さん? 調子が悪いって病気? 怪我でもした?
脳内にいくつか思い浮かべてみても、すべて憶測でしかない。
食べ終わったランチボックスを持って立ち上がる。
「どうするんだよ」
「電話、してみる」
あんなに躊躇っていたのに、鈴木君が困っているかもしれないと思ったらかけずにはいられなくなった。
「やめておけ。あいつのことなんか、放っておけよ」
「何でよ。何か手助けできるかもしれないじゃないっ」
冷たい洸太の言葉を一蹴して、廊下へ飛び出した。
同じ部署の社員が困っているのに、どうして何かしてあげようって思わないのよ。
以前の自分なら、そんなこと思いもしなかっただろう。なのに、今ではそんな風に誰かのことを気遣えるようになっていた。できるなら、力になりたいと思うほどに。
鈴木君や俊君の優しさに触れたから、そういう気持ちを持つことができたのだろうか。
スマホを手に持ち鈴木君を呼び出しながら、非常口のドアを開けて中に滑り込んだ。
窓のない階段だけの無機質な空間は、春だというのに空気がひんやりしていた。
スマホを耳に当てて、あの柔らかな鈴木君の声が耳に届くのを待つ。けれど、長い時間呼び出し続けても電話は繋がらなかった。
「鈴木君……」
コール音だけが、耳の中に何度も響いた。
仕事中に、何度スマホを見たことだろう。けれど、いくら液晶画面を確認したところで、鈴木君の名前は表示されることがない。
着信に気が付いていないのかな。それとも、気にする余裕もないような状況なのだろうか。電話が繋がらないということに不安が募っていく。
就業時間後、バッグを片手に席を立つ。洸太のいる席を振り返れば、こちらに向かって軽く手を上げているから、お疲れというように頷きを返してフロアを出た。
エレベーターを待ちながら、またスマホを手にする。無言を貫く薄っぺらな機械を見ながら、不意に何か取り返しのつかない事態にでもなっているんじゃないだろうかと考えてしまった。
瞬間、三年前にニュースで観た飛行機の炎上シーンが鮮明に蘇って動悸が激しく鳴りだす。
エレベーターを待ちながら廊下の黒光りする床に視線を落としているうちに、呼吸が苦しくなっていき胸に手を当てた。奏太を失ったあの瞬間が脳を揺らすように襲い、眩暈を呼んだ。
待っていたエレベーターのドアが開き、数名しか乗っていない箱へふらりと乗り込む。壁に体を預けて、ドクドクと異様なまでに音を立てる心臓辺りに再び手を当てた。
大丈夫。あんな大きな事故なんて、そうそう身近で続くわけがない。洸太だって、鈴木君自身は元気だと言っていたじゃない。
けれど奏太と同じようなことが、もしも彼の家族に起きていたとしたら。彼の心は……。鈴木君は、今、大丈夫なのだろうか……。
箱が一階に着きエントランスに降りたあと、直ぐにもう一度鈴木君へと連絡をした。
ワンコール目。ツーコール目。
繋がらない通信に気が焦り、心臓が痛い。
スリーコール目。
鈴木君、お願い出て。
祈る気持ちに、スマホを握る手に力が入る。
フォーコール目。
鈴木君っ。
脳内にあの残酷なシーンが鮮明に蘇り、カタカタと手が震えだす。
……鈴木君っ。
繋がらないと諦めかけた瞬間「望月さん」と、いつもの柔らかな声が耳に届いた。声が聞こえた瞬間に、怯えて青ざめていた体に温かな血が巡りだす。やっと聞くことのできた鈴木君の声にホッとして、その場にしゃがみ込んでしまった。
「ごめん。電話折り返さなくて」
いつもと変わらない鈴木君の口調に、私の姿が見えもしないのに何度も首を横に振って応えた。恐る恐る訊ねる。
「……大丈夫?」
私の問いかけに、――――間が空いた。
鈴木君の顔が見えないのに、眼鏡の奥の瞳が悲しげに歪んでいる気がしてならない。
これは、私の勝手な想像だ。何かあったなんて考えるのはよくない。そう思っても、あの時の恐怖や悲しみ、涙、叫び。全てが今の私を再び取り巻いて、鈴木君へ重ねずにはいられなかった。
再び胸に手をやり、息苦しくなっていく呼吸を抑えるように、落ち着けと自分に言い聞かせる。よく耳を澄まして見れば、電話の向こうからは忙しなくアナウンスが聞こえてくる。
駅?
「ごめん。今……外で――――」
電車の音に遮られて、時折聞こえなくなる声にスマホを耳に当てる力が強くなる。
「何処っ?」
焦りに、つい言葉尻が強くなる。
「東京駅」
「会いたいっ」
未だ社員が行き交うエントランスにいることも構わず、電話の向こうにいる鈴木君へと叫んでいた。
きっと近くを通る人たちには、異様な目で見られていたことだろう。けれど、あの事故が脳内で再現され、やっと繋がった鈴木君の声に戸惑いを感じてしまった今。周囲の目など、些末なことでしかない。
「えっと、じゃあ俊の店で」
喧騒でざわつく電話の向こうからでも、鈴木君が戸惑っているのがわかる。迷惑になるだろうかなんてことも、今の頭では考えることもできない。
短い会話で締めくくってから、足早に大通りに向かって手を上げた。滑り込んできたタクシーに乗り込み場所を告げる。
大丈夫という私の問いかけに、間があったことが気になった。以前俊君が言っていた。鈴木君の方が大変だったと話していたことを思い出したから、いつも笑っている彼の笑顔の奥にある、悲しみなのか寂しさなのか。今はわからないそれに、胸がざわざわとして止まらなかった。
心配してくれているからだとわかってはいるけれど、過保護すぎる気がしてならない。洸太が考えるほど、今の私は弱っていない。あの時の私とは違う。過去の私より、今の私はずっと強くなっている。そう思いたいし、そうなりたい。
全ての記憶を取り戻したからこそ前に進まなくちゃいけないし、下を向くことはしたくない。
芹沢家に訪ねて行った時のおじさんやおばさんの優しい言葉や、両親の気持ちにも応えたい。何より鈴木君や俊君といる時間に、私は癒され元気をもらっている。
奏太とはなんのつながりもない彼らといることが、いい影響を与えているのかどうかはわからないけれど、少なくともあの二人の前では本気で笑えていた。
洸太に守られ大きな壁に囲まれ過ごしてしまったら、前を向く力を失ってしまいそうだった……。未来を見ることを遮られてしまっている気になる。
「ねぇ、洸太」
会社の入るビルのエントランスを並んで歩きながら、エレベーターに歩を進める。
「もう……、送り迎えは、いいよ」
言葉にしてみると、とても素っ気ない感じがした。洸太を傷つけたいわけじゃないから、もっと何か前置きをした方がよかっただろうか。
変に受け取られなければいいなと隣を行く洸太の顔を見たら、それは無理なようだった。
ショックを受けたように、洸太の顔が切なさに歪んでいる。その顔を見た瞬間、胃の当りがキュッとなり。胃液に侵されたような酸っぱい感覚が込み上げて、右手が自然と腹部へと動いた。
洸太の歪む顔を見続けられず、視線を磨かれた床へと落とす。沢山の足音が反響するエントランスで、唾を飲み込み気持ちと一緒に顔も上げた。
「送り迎えなんて、いつまでも続けられないでしょ。洸太には、洸太の時間があるし。私には私の時間がある。洸太は私なんかよりもずっと忙しいんだから、無理することないよ。それに、私。前に進みたい」
一人でも大丈夫だと遠回しに言ったのだけれど、伝わっただろうか。
話している間、洸太は何一つ言葉を発しなかった。ただ、傷ついたような瞳が揺れていて。酷く悪いことをしている気にさせられる。
沢山の社員と一緒に、エレベーターに乗り込む。他の社員がいることもあって、エレベーターの中では何も話さなかった。
たどり着いたフロアで流れに乗るようにエレベーターから降りると、洸太がポツリと漏らした。
「わかった……」
その一言はとても重く悲しげで、この選択は間違いだったのかと思えてきた。
けれど、進みたいんだ。歩き出さなくちゃいけないんだ。私の時間は、動いているのだから。あの日からずっと動き続けていたのだから。立ち止まっていた分、少しくらい駆け足になってでも踏ん張っていきたい。
俯き加減のまま、洸太は自席へと向かう。その背中を見送り、私も席へ向かった。
数歩行ってから、昨夜の花見のお礼を言おうと鈴木君のデスクへ向かったのだけれど姿がない。踵を返して、以前にもいた休憩室へ向かった。ぼんやりと眠そうな眼差しでコーヒーを入れている鈴木君を想像しながら中を覗き込んだけれど、そこにも彼の姿はなかった。
まだ出社していないのだろうか。
自席に戻りバッグを置いて再び鈴木君のデスクへ視線をやっても彼の姿はなかった。
お昼を過ぎた頃になっても姿を見なくて、今日は休みなのだろうと思うと残念な気持ちになる。昨日は休むという話などしていなかったけれど、夜の肌寒さに風邪でも引いてしまったのだろうか。
私が花見の話なんかしたから、無理をしてくれたのかもしれない。そう考えると、申し訳ない気持ちになっていく。
花見のお礼は明日にしようと、気持ちを切り替えてみたのだけれど。翌日も、その翌日も鈴木君は出社してこなかった。
昨日から、洸太の迎えがなくなっていた。お願いしたことを実行してくれているのだ。
玄関先で履き慣れたヒールに足を入れ、バッグの他に保温バッグも手にする。今朝は久しぶりに早起きをして弁当作りを再開した。
前日の帰りにスーパーへ寄り、あれこれと食品を眺めながら洸太に悪いなと思う気持ちを少しずつ振り切るように食材を見て歩いた。
出社してすぐに目がいくのは、鈴木君の席だった。今朝も、机の上にはビジネスバッグは置かれていない。まだ出社していないのか、今日も休みなのか。
「ねぇ。鈴木君て、今日も休みなの?」
同じくらいの時間に出社していた、鈴木君の向かい側に座る男性社員に訊ねてみても首をかしげられるだけだった。
洸太に訊いたらわかるだろうか。上に立つ人間だから社員のことは把握しているだろうと思っても、送り迎えしなくていいと拒否した手前訊きにくい。
「どうしたんだろう」
ランチの時間になり、休憩室でポツリと独り言をもらしたところに洸太がやって来た。
「あんな奴のこと、そんなに気になるのか」
嫌味っぽい口調の洸太は、コーヒーを淹れると私の前に座った。
「言い方に棘がある」
「当然だ」
何が当然なのかわからないけれど、それについて訊ねてしまえば碌なことを言われない気がして口を閉ざした。それ以上訊ねてこないと理解したのか、洸太も何も言わない。ただ黙って、自ら入れたコーヒーに口をつけている。
昼時なのにランチにも出かけずにこんなところでコーヒーを飲んでいる洸太だから、きっと何か言いたいことがあるのだろう。断った送り迎えのことだろうか。やっぱり明日から迎えに行くと言い出すのだろうか。それともランチの誘いに来たのに、以前同様私がお弁当を作ってきていたことで、出かけるタイミングを逃したのかもしれない。昨日までは作ってきていなかったのだから、その可能性は高いかな。
かといってそんなことを口にしまえば、送り迎えの話がぶり返してしまう気がして、結局鈴木君のことを話した。
「今日で三日目だよ。体調でも崩してるのかな。一人暮らしで発熱って、大変だよね。連絡、してみようかな」
連絡先は知っているのだから気になるならかければいいのだけれど、なんとなく踏ん切りがつかずにいた。高熱で寝ているところを起こしてしまうのは申し訳ないと思う傍ら、そもそも私から電話なんて来たら迷惑な気がしてしまう。休み中に社の知り合いから連絡なんて、してもらいたくないだろう。
「スミレが心配することじゃない。それに、あいつ自身は元気だ」
その言葉に弁当へ向けていた視線を素早く洸太へやった。
「何か、知ってるの?」
問いかけに応えたくないのか洸太は口を噤む。
「洸太が教えてくれないならいいよ。部長に訊いてくる」
社員の事情をわざわざ部長に訊ねるなんてよく思われないだろうと我慢していたけれど、洸太の態度につい勢いづいてしまった。
食べ終わったランチボックスを素早く片付け始めると「わかったよ」と渋々口を開いた。
面倒そうな顔つきをしてから、ため息交じりに話し始めた。
「家族の調子が……悪いらしい」
「――――え」
洸太の言葉に脳内が素早く動き出す。
鈴木君の家庭状況はよく知らない。一緒にいても家族の話題になったことはなかった。
家族って、誰だろう。お父さん? お母さん? 調子が悪いって病気? 怪我でもした?
脳内にいくつか思い浮かべてみても、すべて憶測でしかない。
食べ終わったランチボックスを持って立ち上がる。
「どうするんだよ」
「電話、してみる」
あんなに躊躇っていたのに、鈴木君が困っているかもしれないと思ったらかけずにはいられなくなった。
「やめておけ。あいつのことなんか、放っておけよ」
「何でよ。何か手助けできるかもしれないじゃないっ」
冷たい洸太の言葉を一蹴して、廊下へ飛び出した。
同じ部署の社員が困っているのに、どうして何かしてあげようって思わないのよ。
以前の自分なら、そんなこと思いもしなかっただろう。なのに、今ではそんな風に誰かのことを気遣えるようになっていた。できるなら、力になりたいと思うほどに。
鈴木君や俊君の優しさに触れたから、そういう気持ちを持つことができたのだろうか。
スマホを手に持ち鈴木君を呼び出しながら、非常口のドアを開けて中に滑り込んだ。
窓のない階段だけの無機質な空間は、春だというのに空気がひんやりしていた。
スマホを耳に当てて、あの柔らかな鈴木君の声が耳に届くのを待つ。けれど、長い時間呼び出し続けても電話は繋がらなかった。
「鈴木君……」
コール音だけが、耳の中に何度も響いた。
仕事中に、何度スマホを見たことだろう。けれど、いくら液晶画面を確認したところで、鈴木君の名前は表示されることがない。
着信に気が付いていないのかな。それとも、気にする余裕もないような状況なのだろうか。電話が繋がらないということに不安が募っていく。
就業時間後、バッグを片手に席を立つ。洸太のいる席を振り返れば、こちらに向かって軽く手を上げているから、お疲れというように頷きを返してフロアを出た。
エレベーターを待ちながら、またスマホを手にする。無言を貫く薄っぺらな機械を見ながら、不意に何か取り返しのつかない事態にでもなっているんじゃないだろうかと考えてしまった。
瞬間、三年前にニュースで観た飛行機の炎上シーンが鮮明に蘇って動悸が激しく鳴りだす。
エレベーターを待ちながら廊下の黒光りする床に視線を落としているうちに、呼吸が苦しくなっていき胸に手を当てた。奏太を失ったあの瞬間が脳を揺らすように襲い、眩暈を呼んだ。
待っていたエレベーターのドアが開き、数名しか乗っていない箱へふらりと乗り込む。壁に体を預けて、ドクドクと異様なまでに音を立てる心臓辺りに再び手を当てた。
大丈夫。あんな大きな事故なんて、そうそう身近で続くわけがない。洸太だって、鈴木君自身は元気だと言っていたじゃない。
けれど奏太と同じようなことが、もしも彼の家族に起きていたとしたら。彼の心は……。鈴木君は、今、大丈夫なのだろうか……。
箱が一階に着きエントランスに降りたあと、直ぐにもう一度鈴木君へと連絡をした。
ワンコール目。ツーコール目。
繋がらない通信に気が焦り、心臓が痛い。
スリーコール目。
鈴木君、お願い出て。
祈る気持ちに、スマホを握る手に力が入る。
フォーコール目。
鈴木君っ。
脳内にあの残酷なシーンが鮮明に蘇り、カタカタと手が震えだす。
……鈴木君っ。
繋がらないと諦めかけた瞬間「望月さん」と、いつもの柔らかな声が耳に届いた。声が聞こえた瞬間に、怯えて青ざめていた体に温かな血が巡りだす。やっと聞くことのできた鈴木君の声にホッとして、その場にしゃがみ込んでしまった。
「ごめん。電話折り返さなくて」
いつもと変わらない鈴木君の口調に、私の姿が見えもしないのに何度も首を横に振って応えた。恐る恐る訊ねる。
「……大丈夫?」
私の問いかけに、――――間が空いた。
鈴木君の顔が見えないのに、眼鏡の奥の瞳が悲しげに歪んでいる気がしてならない。
これは、私の勝手な想像だ。何かあったなんて考えるのはよくない。そう思っても、あの時の恐怖や悲しみ、涙、叫び。全てが今の私を再び取り巻いて、鈴木君へ重ねずにはいられなかった。
再び胸に手をやり、息苦しくなっていく呼吸を抑えるように、落ち着けと自分に言い聞かせる。よく耳を澄まして見れば、電話の向こうからは忙しなくアナウンスが聞こえてくる。
駅?
「ごめん。今……外で――――」
電車の音に遮られて、時折聞こえなくなる声にスマホを耳に当てる力が強くなる。
「何処っ?」
焦りに、つい言葉尻が強くなる。
「東京駅」
「会いたいっ」
未だ社員が行き交うエントランスにいることも構わず、電話の向こうにいる鈴木君へと叫んでいた。
きっと近くを通る人たちには、異様な目で見られていたことだろう。けれど、あの事故が脳内で再現され、やっと繋がった鈴木君の声に戸惑いを感じてしまった今。周囲の目など、些末なことでしかない。
「えっと、じゃあ俊の店で」
喧騒でざわつく電話の向こうからでも、鈴木君が戸惑っているのがわかる。迷惑になるだろうかなんてことも、今の頭では考えることもできない。
短い会話で締めくくってから、足早に大通りに向かって手を上げた。滑り込んできたタクシーに乗り込み場所を告げる。
大丈夫という私の問いかけに、間があったことが気になった。以前俊君が言っていた。鈴木君の方が大変だったと話していたことを思い出したから、いつも笑っている彼の笑顔の奥にある、悲しみなのか寂しさなのか。今はわからないそれに、胸がざわざわとして止まらなかった。