桜が満開になり、思い出した辛い記憶にも、少しずつだけれど自分の中でケリをつけ始めていた。週末を利用して芹沢家にお邪魔し、仏壇に手を合わせ、おじさんやおばさんと話しもできた。
 洸太には、敢えてここを訪ねることを話さずに来た。変な横やりが入らない方が、まっすぐ向き合える気がしたからだ。
 おじさんとおばさんが涙をこらえながら話す言葉一つ一つを、しっかりと胸に抱く。

「菫ちゃんも、つらかったね……」

 涙声で話すおばさんの言葉に涙が溢れ出してしまい、ハンカチはあっという間にぐしょぐしょになった。

「ずっと奏太のことを、引き摺る必要はないからね」

 そう優しく諭すおばさんに、うまく頷きを返すことができなかった。

「奏太は、大切な人だから……」

 私の中で、奏太の存在は永遠だ。どんなことがあろうとも、大切な愛しい人だ。あの笑顔のそばにいることができたから、今の私があるんだ。

「菫ちゃんは、今を生きなさい」

 帰り際、そう告げたおじさんの言葉が心のずっと奥まで届いた。
 奏太を大切に思ってくれる気持ちは嬉しいけれど、未来がある私を過去に留めておくことなどできないと言われ、深く頭を下げた。

 実家にも顔を出し、今まで話を合わせてくれていた両親にも感謝した。

「思い出したのね……」

 眉根を下げる母に、小さく頷いた。

「大丈夫なの?」

 奏太のことを口にすれば、まだ声が震えて喉の奥が熱を持つ。けれど、越えなければいけない。いつまでも引き摺るのは簡単なこと。ただ、ウジウジしていればいいのだから。けれど、奏太ならそんな私を望まないだろうし、寧ろ俯いてばかりの人生なんて送っていたら嫌われるかもしれない。

 奏太は、言ったんだ。私の笑っている顔が好きだと。
 だったら、笑顔でいたい。悲しみなんて吹き飛ばすんだ。
 忘れるんじゃない。奏太の好きな私でずっといることを、彼はきっと望んでくれるはずだから。

 簡単なことではないかもしれないけど、そもそも落ち込んで悩むなんて性に合わない。
 どうしても、難しい時は……、そうだ。鈴木君がいる。彼のアニメチックな三日月の瞳や笑顔を見れば、きっとつられて笑顔になれる。俊君の作る美味しいカクテルを飲んで、料理を食べたら元気も出る。
 また迷惑をかけることになるかもしれないけれど、私は彼らといたい。

「友達ができたんだ。奏太のこともね、聞いてもらったの」

 母が少しだけ驚いた顔をした。

「ずっと洸太に、迷惑をかけ続けるわけにもいかないし。もっとね、周りに目を向けてみようと思う。また傷つくかもしれないけど、きっとそれだけじゃないと思うから」

 母は何度も頷き、目を潤ませる。

 ずっと見守ってくれていた人たちに、これ以上辛い涙を流させたくない。

 ねぇ、奏太。私、元気になるから見ていてね。


 実家からの帰り。あれ以来顔を出していなかった、バーへと足を向けた。

「俊君」

 テーブル席の後片付けをしている背中に走り寄り声をかけると、「菫ちゃんっ」と満面の笑顔を向けてくれた。

「前に来た時のこと、謝りたくって」
「ん? 何か謝るようなことあったっけ?」

 本気なのか惚けているのか。ううん。俊君の事だから、気を遣ってくれているのだろう。
 本当、よくできた人。

「お詫びの印に、これ。実家のそばにあるケーキ屋さんなの。美味しいよ」

 ケーキの収まる白い箱を目線まで上げると、俊君はパーっと花が咲いたように喜ぶ。

 このわかりやすさがいいんだよね。

 持ち込んだケーキと、俊君が淹れてくれたコーヒーを前にカウンターで話した。

 日曜の夜は、翌日仕事が控えている人が多いせいか、店内はまばらだ。テーブル席に何組かいるだけで、ジャズもそれに合わせたみたいに、しっとりとした曲が流れている。

「実は、あの日。五杯目くらいから、あんまり憶えてないんだけど……、私何かやらかしてなかった?」
「えっ。憶えてないの?」

 私の告白に声を上げて笑う俊君が、ケーキにフォークをさして口へと運ぶ。ほっぺたが落ちそうなのか、目がなくなるほどの笑みを浮かべた。

「見た目、かなりしっかりしてたよ。記憶がないなんて、ウソみたいだよ」

 ケーキを咀嚼し、美味しそうな表情のまま言ってから、ハッとした顔をした。
 俊君がどうしてそんな表情をしたのか、理由がよく分からず首をかしげたのだけれど。数秒後に、“記憶がない”ってところに気がついた。気を遣い過ぎだから。

「大丈夫だよ。ありがとう」
「僕としたことが……」

 珍しく俊君が落ち込んでしまったから、よしよしと頭を撫でていたら、そこに鈴木君がやって来た。
 ドアを開けて私と俊君に視線を合わせた瞬間、バタバタと音を立てるように駆け寄って来たかと思うと、俊君の頭にある私の手を凝視した。

「鈴木君?」
「渉」
「わ、渉じゃないよっ。俊っ!」

 鈴木君は、焦ったような表情で俊君に詰め寄っている。俊君は、俊君で悪戯な笑みを見せ、「ふふーん」などと得意気な顔をしている。

「まー、座れよ」

 落ち着き払った俊君に促されて、憮然とした様な態度のまま鈴木君が隣に腰掛けた。

「偶然だね」

 声をかけると憮然とした表情を一変させて、笑顔を見せてくれた。
 そこへ俊君が、悪戯な笑みを添えて付け加える。

「偶然でもないよな、渉。ほぼ毎日来てるから、会わない方がおかしいし」
「あ、そうなんだ」
「俊、余計なこと言うなよ」

 なんだか分からないけれど、二人のやりとりは長年の付き合いもあって小気味いい。

「今日はね。徹夜で酔っ払った時のこと、謝りに来たの」

 フォークで目の前のケーキを指し示し、俊君に笑みを向けた。

「そ、そうなんだ」
「鈴木君も食べない? 少し多めに買って来たから」
「渉には、もったいなくてあげたくないな」

 わざと腕を組んで渋い顔をつくる俊君に、「いいから持ってこいよ」と何故だか偉そうに指示を出している鈴木君は、社では見られないくらい珍しく上から目線だ。

「しょうがないなあ」

 そんな顔は一ミリもしていないのだけど、俊君は敢えてそう口にするとケーキの準備に取り掛かる。
 俊君がコーヒーの準備で奥へ引っ込んだところで、改めて鈴木君にも謝った。

「実は、後半辺りからあまり憶えてなくって。私、何か変なこと言ったり、やったりしてない?」

 訊ねると、少し考えてから首を振った。

「よかった」

 ほっとしたあと、コーヒーを口に含む。

「話していることは、意外としっかりしてたよ。ただ、足元がおぼつかなくて心配だから、家までは送ったけど」
「その節は、大変お世話になりました」

 恭しく頭を下げると、「いえいえ、そんな」と鈴木君もノリに付き合い頭を下げた。

 鈴木君のとぼけていてノリのいい対応を見ていたら、母に「友達ができた」と話した時のことを思い出した。

 この笑顔や雰囲気。実は、最強のアイテムなんじゃない?

 そんな風に思っているところへ、俊君が鈴木君の分のケーキとコーヒーを持って戻って来た。

「これ、菫ちゃんちの近くのケーキ屋さんのなんだって。美味しいよ」
「へえ〜」

 三人でまったりとケーキを頬張りコーヒーを飲んでいれば、ここが誰かの家みたいな錯覚をしてしまう。
 時々、テーブル席から注文が入り、俊君が華麗な手さばきを披露してくれて、それを二人で見ながらこっそり拍手を送って笑いあった。

 とても穏やかな時間だった。学生の時のようなノリは心地よくて。仲間意識みたいなものに安心して笑えた。時々、鈴木君をからかって俊君と笑い。美味しい料理にほっぺを押さえれば、鈴木君が穏やかに微笑む。そんな時間は、本当に久しぶりだった。
 あの事故から止まっていた私の時間が、漸く動き出したのだろう。

 芹沢のおじさんが言ってくれたように、今を生きなくちゃ。後ろ向きのまま、声をあげて笑うこともなかった日々は、もうお終いだ。美味しいものを美味しいと言い、楽しい事には笑い、冗談だって言う。この二人がいつまで私に付き合ってくれるかわからないけれど、そばにいてくれる間は笑顔を絶やさずにいたい。リハビリに付き合わせてしまっているようで申し訳なく思うけれど、この二人は私に温かくて優しい時間をくれる。

「今日は、ありがとう。迷惑かけたことを謝りに来たのに、しっかり楽しんじゃいました」
「それでいいと思うよ。ごめんねよりさ、ありがとうの方が僕も嬉しいし。また、飲みに来てよ。あのカクテル、菫ちゃんのために、とびきり美味しくつくるから」

 俊君に送り出され、鈴木君と一緒に店を出た。外へ出ると風は緩やかで、けれどまだ肌寒さの残る夜の街に少し肩を竦めた。

「夜は、まだ寒いね〜」
「そうだね」

 カツカツとヒールが鳴り、コツコツと革靴が音を鳴らす。歩調を合わせてくれているのか、重なる音が心地いい。バーのジャズには負けるけど、シンプルなこのリズムは好きだ。

「色々、ありがとうね。なんだかバタバタして、鈴木君には迷惑なことばかりだったよね」
「迷惑なんて、一個もないよ」

 口角を上げて笑う眼鏡の奥は、いつもの三日月だ。それを確認してから夜空を見たら、同じような三日月が浮かんでいて、つい笑いがこぼれた。
 突然笑った私に、鈴木君が動揺する。

「え? あれ? 今なんか変なこと言ったかな」

 心当たりのない笑いに困った顔が、またおかしい。
 和むなぁ。

「あと少しで、桜も散っていくね。今年も花見しなかったなぁ」

 社会人になってからした花見といえば、社内の付き合いくらいだ。奏太が旅立ってからは、洸太とするようなこともなく、咲いている花を一瞥して通り過ぎるだけだった。
 どんちゃん騒ぎがしたいわけでもないけど、ゆっくりと桜を愛でるような時間を楽しみたいな。

「まだ間に合うよ」
「え?」
「花見」

 言うが早いか、鈴木君は私の手を引き急ぎ足で歩き出す。何の躊躇いもなく突然繋がった手は、夜の寒さとは対照的にとても温かく、そして大きかった。
 子供みたいにはしゃいだ笑顔で、時々私を振り返り見せてくれる笑みにつられて目じりが下がる。

「この近くに、公園があるはずなんだ。確か、桜の木もあったはず」

 弾むように言って、少し先にあるコンビニで、あったかいコーヒーを二つ買い、鈴木君の言う公園に足を向けた。
 繋がる手と、コンビニ袋の鳴らすシャカシャカという音。公園に咲く大きな桜の木を想像して、心がワクワクと先を急がせる。軽く息を弾ませ、公園の入り口に二人で立ち尽くした。

 公園には、確かに桜の木があった。あった……けど。

「なんか……、ごめん……」

 申し訳なさに苦笑いする鈴木君を見て、多大な期待をし過ぎて、ついクスリと笑みを漏らして首を振った。

 公園に桜の木は、確かにあった。けれど、とても細い木が三本しかなく。しかも、何故かバラバラに離れた場所に一本ずつ植えられていた。こう言っては何だけれど、どう贔屓目に見たとしても貧相で寂しい。それでも、ベンチのそばに一本あったので、そこへ二人で腰掛けた。

「ちょっと。いや、結構寂しいけど……」

 ポリポリと頬をかくと、手にしていた温かな缶コーヒーをくれた。

 幹が細い桜の木を見上げれば、それでも満開の花が夜空を飾っていて綺麗だった。
 見上げた先に浮かぶ花びらは幻想的で、枝の色は夜に溶け込み、たくさんの小さな白が際立ちまるで絵画のようだ。

「いいね。桜」

 コーヒーで両手を温めるようにしながら、はらりと舞う薄桃色の花びらを目で追った。

「桜吹雪って、いいよね。実家の近くにある神社までの道の途中にね、桜が何本か続けて植えられてて。満開の後に散る様が圧巻なんだ。なんだか映画にでもありそうなくらいの散り方で。ぶわーって風が吹くのを狙って近くに寄るとね、花びらに取り囲まれるみたいになって、すっごく綺麗なの」

 あの街に越してから、その瞬間を毎年経験して来た。一人の時もあったし、三人の時もあった。それに、奏太と二人の時も。

 次にあの桜の中にいる時、私は一人なのだろうか。桜に囲まれるあの幻想的な瞬間に、鈴木君も一緒だったらいいのに。そんな風に思う自分がいた。

 想像の中から思考を戻して隣を見ると、穏やかな瞳で鈴木君が私を見つめていた。
 どうしたのかと窺っていたら、ぽつりとこぼした。

「綺麗だ」
「そうなの。すごく綺麗な桜なの」

 返す私に、鈴木君が少しだけ苦笑いを浮かべている。

 あれ、何か違う?

 首をかしげると、「ゆっくりでいいかなぁ」なんて鈴木君が笑った。

「色んなこと、ゆっくりでいいのかもしれない」

 缶コーヒーを一口飲んだ鈴木君から、ふわっと白い息が洩れる。
 温かなコーヒーは、鈴木君の心の温かさのようで。手を温めていると、気持ちまで一緒に温めてもらっている気がしてほっとする。

「いつか、行きたいな」
「え?」
「望月さんの住んでいた、桜の舞うその通りに」

 穏やかな口調で話す鈴木君を見ていれば、その瞬間が鮮やかに想像できた。
 目を瞑ると、舞う花びらの中、目を三日月にして細め、綺麗だね。そう穏やかな表情でいる鈴木君の姿が浮かんできた。そして、その隣には――――。

「いつか、行こうよ」

 応えると、鈴木君は少しだけ驚いて目を大きくしてから、すぐに三日月に変えた。

 私は鈴木君といることで、心穏やかでいられる事に気がついていた。この時間が大切だと、気づき始めていた。