待たせているタクシーのテールランプが視界の端に入り込み、名残惜しむように鈴木君から離れた。
子供みたいに抱きつき泣いた自分の行動に、乾いた笑いを零したあとは目の前の鈴木君の目を見られない。俯き加減で、「タクシー待たせてるのに……ごめん」そう口にするのが精いっぱいだった。
顔を上げられない私の目の前で、彼が首を横に振るのがわかった。
「あとで、ね……」
窺うように少しだけ顔を上げれば、まっすぐ見つめる視線と合い心臓が音を立てた。
この感覚を私は知っている……。けど、今はそれを素直に受け入れることができない。
「望月さん……」
呼ばれた名前に上目遣いのまま反応してしまえば鈴木君はきっと……。
愁いを帯びた鈴木君の瞳を見続けられなくて「今日は、仕事になるかな」と、茶化すようにわざと明るい声を出した。
機を削がれた鈴木君は眉根を下げ、少しだけ息をついたのがわかった。
回した腕と安心感。それがどうしてかと考えるのは、今はまだ少しだけ怖い。
チラつく奏太の笑顔。洸太の怒ったような顔。勇気というレベルで考える場所まで、まだ来ていない気がした。
マンション前に佇んだまま、鈴木君を乗せたタクシーが遠ざかっていくのを見送った。
車の音が遠ざかり、朝の物静かで澄んだ空気の中、フラフラとエントランスへ向かいエレベーターに乗り込めば、体や脳が酔っていたことを思い出したように壁に寄りかからないと座り込んでしまいそうだった。
ほんの五つランプを見送るのも、瞼が待ってくれないんじゃないかとぼんやり移り行く光を目で追う。焦らすようにゆっくりと開いたドアから一歩踏み出せば、渡り廊下の手すりに洸太がもたれかかっていてとても驚いた。
「どう……したの……」
こんな時間にいるとは思わなかった。
素直すぎる感情が表情に現れ、頬が僅かに引き攣った。
訊ねながら瞬時に頭を過ったのは、鈴木君の胸に納まった自分のことだった。さっき切なく鳴った心臓が、今度はドクリと音を立て血液を力づくで押し上げる。
酔っている自分を取り繕うつもりはなかったけれど、自然と渡り廊下の手すりに掴まり、サクサクと歩き洸太へ近付いた。
そばに行くと眠そうな顔をしている割に洸太の目は力強くて、数歩手前で足が止まりやましい思いに駆られていった。
渡り廊下からは、外がよく見える。鈴木君と帰ってきたところを見られていただろうか。
心が委縮していく。同時に、恋人でもない洸太に何を言われたところで関係ないではないかと開き直る自分もいた。
気づかれないように、深く息を吸い吐き出してからまた歩き出す。平気な素振りでバッグの中から鍵を取り出していると「飲み過ぎだろ」と呆れたように傍に立つ。
多分、全てお見通しなのだろう。こんな時間に酔って帰ってきている時点で、何もかもを見透かされていてもおかしくない。
敢えて鈴木君に触れない洸太の第一声が、余計に心を委縮させていく。
苦笑いで「そうだね」と頷きながら鍵を開けると、洸太がドアを引いて開けてくれた。
玄関先でもたもたと靴を脱ぐのを急かすこともなく、私が部屋に上がるのを待ってから洸太も靴を脱いであがってくる。
「座ってろ」
ふらつく私の手を引きベッドへ促すと、冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出し、キャップをはずして手渡してくれた。
「ありがと」
素直に受け取り口にする。
今までなにも感じていなかったのに、一度水が喉を通ると止めどなく体内に水分は飲み込まれていき、一気に半分ほどまで煽った。渇いた喉を潤せば、ふうっと息が漏れる。
「一緒に帰れなくて……悪かったな」
謝られてから、それがもう何日も前のことだったような気がしていた。
ベッドの前にあるテーブルの横で、洸太がこちらを向いた姿勢で座る。スーツ姿のままなのを見れば、仕事が終わったあと帰宅せずにここでずっと待っていたのかもしれない。それとも,色々と探し回っていたのだろうか。マスターのところへ行ったり、実家に連絡を入れたり、大袈裟なことになっていなければいいなと。自分から連絡を取れなくしておきながら勝手なことを思っていた。
床に置いたバッグを引き寄せ、中に収まるスマホを取り出すと何度も洸太から着信やメッセージがあった。
繋がらなかった名前の数は、心配してくれていた数だ。スクロールしていくほどに胸が痛んだ。記憶が戻って間もない私を一人で帰らせたことに、生真面目な洸太は考えている以上に心配していただろう。
「気がつかなかった、……ごめん」
スマホを手にして謝ると、いつものことだと片方の口角を上げる。余裕を見せる笑顔が少し寂しげに映った。
日が暮れ、夜になり。また日が明けるまで待ち続けていたというのに、そんなのは瑣末なことだというように軽く笑う洸太がとても痛々しく思えてならない。
どうしてそんなに無理をするのだろう。私なんか放っておいてもいいのに……。
「飯は、ちゃんと食ったのか?」
訊ねられても、アルコールに浸された頭では直ぐに思い出せなかった。
どうだっただろう……。
そろそろ二日酔いにでもなりそうな脳内で少し考えてから、芽キャベツのクリームシチューを思い出した。
「食べた」
「そうか。ならいい」
「先生みたいだね」
話し方をからかうと洸太が笑う。
壁の時計が時を刻む音を聞き、視線をやった。四時か。鈴木君の家は遠いのだろうか。今から帰って出社に間に合うだろうか。迷惑かけちゃったな。
帰って行く後ろ姿を思い出せば、こんな時間まで付き合わせたことを申し訳なく思うけれど、そうしてくれたことにとても感謝していた。
「そんなんで、仕事に行けるのか?」
鈴木君のことを思いぼんやりしていると、洸太が静かに話しかけてきた。
「どうかな。シャワー浴びたら、少しはスッキリするかもね」
「そうか」と俯き小さく床に漏らす。
「洸太は、帰らなくて大丈夫?」
訊ねると顔を上げる。
疲れて眠そうな眼差し。私とは違い、接客やら上司の相手で今日も忙しく動き回るのだろう。心配させてしまっているのは私だけれど、こんなことを続けていたら洸太の身が持たない。私のことは、私が面倒を見ればいい。洸太には、これ以上――――。
「洸太……」
「鈴木と一緒だったのか?」
重ねられた言葉に息を飲む。
さっきまで静かに話していた声とは違って、鈴木君とのことを訊ねる声には鋭さがあった。瞬時に形容し難い緊張感が走り言葉に詰まった。
「えっ……と……」
「鈴木に話したのか?」
それは、奏太の事をという意味だろう。
軽率だっただろうか。なんの関係もない鈴木君や俊君に話す事は躊躇われたけれど。私は彼らに話すことで救われた。こんなになるまで酔わせてくれた事を感謝している。
「同情してるだけだ」
「え……?」
洸太が言葉を切る。はっきりと言った洸太の目を見ると、視線を外せなくなった。
同情……。
「スミレのことをわかってやれるのは、もう俺だけだ」
「洸太……」
「同情されて、これ以上スミレが傷つくところを俺は見たくない」
そこまで言ってすっと立ち上がると、ベッドに座っていた私のそばへと来た。
「鈴木のそばにいれば、スミレが傷つく」
「そんなことな――――」
「――――ある」
かき消す否定の言葉は強く、それ以上何も言うことができなくなった。
「スミレの心配をするのは、俺だけでいい」
洸太の手が伸びてきて、ベッドに座る私の首の後ろへと回る。そのまま引き寄せられ、洸太のお腹当りへと寄りかかるように抱きしめられた。
「俺がそばにいるから」
その言葉のあと洸太は身をかがめて額に唇を優しく押し当てた。
触れられた温もりをどう処理すればいいのか、アルコールという言い訳に私は思考を閉じた。
徹夜なんて、十代。いや大学の頃以来かな。こんなにキツかったかな。
酒に溺れた睡眠不足の体は、吐きたくもないため息を何度も吐かせる。
洸太が帰ったあと少しだけでも眠ろうかと思ったけれど、二日酔いになりかけの体はダルすぎて、今眠りについたら寝過ごすのは目に見えてやめた。
シャワーを浴びてスッキリさせてから、苦いコーヒーを淹れて一口二口飲み、ぼんやりと時間をやり過ごした。化粧ノリが最悪のまま玄関を出ると、同じように寝不足の顔をした洸太が、いつものように迎えに来ていた。
「飯は?」
「食べられる気がしない」
苦笑いを浮かべると、途中のコンビニで栄養ドリンクを買って渡された。
コンビニの前に立ち、二人で一気に飲み干すとなんだかおかしくて笑えて来た。徹夜ハイだろうか。
出社して直ぐに電話対応に追われる洸太から離れて自席へ向かう。途中のデスクには、同じように二日酔いの鈴木君が目に入った。
「おはよう」
声をかけると亡霊のようにゆっくりと顔を上げてから、眼鏡の奥を頑張って三日月にしている。
どうみても、無理やりの笑顔だ。とても申し訳なくなる。
「昨日は、ありがと。大丈夫……じゃないよね」
「だ、大丈夫だよ」
応えながらも、顔つきにも目にも力がない。
「待ってて」
言い置いて自席へ向かわず、真っ直ぐ休憩室に行き濃いコーヒーを入れて戻った。
「はい」
「ありがと」
「ドリンク、買ってこようか?」
今朝洸太に買ってもらい飲んだドリンクの効き目はなかなかで、出社した頃には体もだいぶ楽になっていた。
「大丈夫、大丈夫」
力なく笑ってから、鈴木君はコーヒーを口にして熱さに驚きカップから直ぐに口を離した。
そこへ洸太がやって来て、私の腕を強く引く。驚いて振り返ると、洸太の瞳は鈴木君を睨みつけていた。
「関わるなと言ったろ」
「ちょっ、洸太……」
感じの悪い言動に慌てる私とは正反対に、言われた鈴木君は動じることもなく真っ直ぐ洸太を見返している。
さっきまで二日酔いでへばっていたのが嘘のような力強い瞳だ。
引き摺られるように自席へと連れていかれ座らされた。周囲からは、そのやり取りを見て囁き交わす声や視線が降り注いだ。
「また、変な噂がたつよ」
「構わない」
言い切ると席から離れ、仕事へと戻って行った。
午後を過ぎ、外への用事を頼まれたついでにコンビニへ寄った。小さな小瓶を一つ手にして社に戻る。デスクで書類に目を通していた鈴木君の目の前で、さっき買った小瓶を振ってから置いた。
「今更かもしれないけど」
「あっ、ありがとう」
三日月の瞳は、今朝よりもだいぶ復活していた。にこりとした笑みを見せられれば、こちらの目尻も下がる。
「睡魔と闘ってたから助かるよ」
言いながらキャップをひねり、一息に飲み干した瓶をデスクに置く。私はそれに手を伸ばした。
「あ、いいよ。自分で捨てに行くから」
休憩室にある備え付けのゴミ箱にしか瓶は捨てられない。
「じゃあ、一緒に少し休憩しよっか」
洸太は会議室で商談中だから、今フロアにはいない。提案すると、鈴木君が満面の笑みを見せた。
コーヒーを二杯入れて、カップをテーブルに置いて向かい合う。
「昨日は、ごめんね」
「謝らなくていいよ。ぼくも一緒に飲みたかったし。俊だって、望月さんにノリノリでカクテル作ってたしね」
「俊君にも悪いことしたなぁ」
ニコニコと人懐っこく対応してくれた俊君だけど、思い返せば酔っ払って話し声が少し大きくなっていたように思う。
「迷惑だっよね」
はぁーっと大きく息を吐き項垂れ、机に一度伏せた。
「あれだけ飲んだんだし、いいお客でしょ」
半ばからかうように笑う声を聞き、伏せていた顔を起こした。鈴木君は、コーヒーを口にしている。
「あちっ」
「猫舌?」
「いや、そうでもないはずなんだけど」
おかしいなぁ、というように首をかしげる表情はどこか惚けていて笑みを誘う。
「それと、洸太の事。何度もごめん。最近、少しおかしいんだよね……。私の記憶が戻ったせいかな。奏太のことを思い出したせいで、どこか少しずつ悪い方へとずれてきている気がする……」
奏太のことをあのまま思い出さない方がよかったのだろうか。知らないまま日常を越えて、洸太と軽く付き合っていくのが賢明な判断だったのだろうか。
そう考えてみたけれど、すぐに打ち消した。いずれ記憶は戻っていたに違いない。だとすれば、遅いか早いかだけの問題だ。タイミングもあるだろうけれど、たらればで考えたところで今更だ。
隠していたのかな。思い出さない私のせいで、洸太は自分がどんな気持ちでいたのかを隠さなくちゃいられなかったのかな……。
洸太の気持ちに気づくこともない私を前に、いつもどんな思いでいたのだろう。
「望月さんのせいじゃない。元々そうだったことが、表に出て来てしまっただけだよ」
鈴木君の慰めは結局元の場所に戻ってきて、記憶が覚醒されてしまったことに起因していると言っているのと同じことだった。慰めてくれようとする気持ちに感謝する。
「ありがと、鈴木君。今日は残業なしで、早く帰って体休めてね」
「望月さんも」
互いに頷きあい。コーヒーを飲み終えたあと、それぞれの仕事へと戻った。
子供みたいに抱きつき泣いた自分の行動に、乾いた笑いを零したあとは目の前の鈴木君の目を見られない。俯き加減で、「タクシー待たせてるのに……ごめん」そう口にするのが精いっぱいだった。
顔を上げられない私の目の前で、彼が首を横に振るのがわかった。
「あとで、ね……」
窺うように少しだけ顔を上げれば、まっすぐ見つめる視線と合い心臓が音を立てた。
この感覚を私は知っている……。けど、今はそれを素直に受け入れることができない。
「望月さん……」
呼ばれた名前に上目遣いのまま反応してしまえば鈴木君はきっと……。
愁いを帯びた鈴木君の瞳を見続けられなくて「今日は、仕事になるかな」と、茶化すようにわざと明るい声を出した。
機を削がれた鈴木君は眉根を下げ、少しだけ息をついたのがわかった。
回した腕と安心感。それがどうしてかと考えるのは、今はまだ少しだけ怖い。
チラつく奏太の笑顔。洸太の怒ったような顔。勇気というレベルで考える場所まで、まだ来ていない気がした。
マンション前に佇んだまま、鈴木君を乗せたタクシーが遠ざかっていくのを見送った。
車の音が遠ざかり、朝の物静かで澄んだ空気の中、フラフラとエントランスへ向かいエレベーターに乗り込めば、体や脳が酔っていたことを思い出したように壁に寄りかからないと座り込んでしまいそうだった。
ほんの五つランプを見送るのも、瞼が待ってくれないんじゃないかとぼんやり移り行く光を目で追う。焦らすようにゆっくりと開いたドアから一歩踏み出せば、渡り廊下の手すりに洸太がもたれかかっていてとても驚いた。
「どう……したの……」
こんな時間にいるとは思わなかった。
素直すぎる感情が表情に現れ、頬が僅かに引き攣った。
訊ねながら瞬時に頭を過ったのは、鈴木君の胸に納まった自分のことだった。さっき切なく鳴った心臓が、今度はドクリと音を立て血液を力づくで押し上げる。
酔っている自分を取り繕うつもりはなかったけれど、自然と渡り廊下の手すりに掴まり、サクサクと歩き洸太へ近付いた。
そばに行くと眠そうな顔をしている割に洸太の目は力強くて、数歩手前で足が止まりやましい思いに駆られていった。
渡り廊下からは、外がよく見える。鈴木君と帰ってきたところを見られていただろうか。
心が委縮していく。同時に、恋人でもない洸太に何を言われたところで関係ないではないかと開き直る自分もいた。
気づかれないように、深く息を吸い吐き出してからまた歩き出す。平気な素振りでバッグの中から鍵を取り出していると「飲み過ぎだろ」と呆れたように傍に立つ。
多分、全てお見通しなのだろう。こんな時間に酔って帰ってきている時点で、何もかもを見透かされていてもおかしくない。
敢えて鈴木君に触れない洸太の第一声が、余計に心を委縮させていく。
苦笑いで「そうだね」と頷きながら鍵を開けると、洸太がドアを引いて開けてくれた。
玄関先でもたもたと靴を脱ぐのを急かすこともなく、私が部屋に上がるのを待ってから洸太も靴を脱いであがってくる。
「座ってろ」
ふらつく私の手を引きベッドへ促すと、冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出し、キャップをはずして手渡してくれた。
「ありがと」
素直に受け取り口にする。
今までなにも感じていなかったのに、一度水が喉を通ると止めどなく体内に水分は飲み込まれていき、一気に半分ほどまで煽った。渇いた喉を潤せば、ふうっと息が漏れる。
「一緒に帰れなくて……悪かったな」
謝られてから、それがもう何日も前のことだったような気がしていた。
ベッドの前にあるテーブルの横で、洸太がこちらを向いた姿勢で座る。スーツ姿のままなのを見れば、仕事が終わったあと帰宅せずにここでずっと待っていたのかもしれない。それとも,色々と探し回っていたのだろうか。マスターのところへ行ったり、実家に連絡を入れたり、大袈裟なことになっていなければいいなと。自分から連絡を取れなくしておきながら勝手なことを思っていた。
床に置いたバッグを引き寄せ、中に収まるスマホを取り出すと何度も洸太から着信やメッセージがあった。
繋がらなかった名前の数は、心配してくれていた数だ。スクロールしていくほどに胸が痛んだ。記憶が戻って間もない私を一人で帰らせたことに、生真面目な洸太は考えている以上に心配していただろう。
「気がつかなかった、……ごめん」
スマホを手にして謝ると、いつものことだと片方の口角を上げる。余裕を見せる笑顔が少し寂しげに映った。
日が暮れ、夜になり。また日が明けるまで待ち続けていたというのに、そんなのは瑣末なことだというように軽く笑う洸太がとても痛々しく思えてならない。
どうしてそんなに無理をするのだろう。私なんか放っておいてもいいのに……。
「飯は、ちゃんと食ったのか?」
訊ねられても、アルコールに浸された頭では直ぐに思い出せなかった。
どうだっただろう……。
そろそろ二日酔いにでもなりそうな脳内で少し考えてから、芽キャベツのクリームシチューを思い出した。
「食べた」
「そうか。ならいい」
「先生みたいだね」
話し方をからかうと洸太が笑う。
壁の時計が時を刻む音を聞き、視線をやった。四時か。鈴木君の家は遠いのだろうか。今から帰って出社に間に合うだろうか。迷惑かけちゃったな。
帰って行く後ろ姿を思い出せば、こんな時間まで付き合わせたことを申し訳なく思うけれど、そうしてくれたことにとても感謝していた。
「そんなんで、仕事に行けるのか?」
鈴木君のことを思いぼんやりしていると、洸太が静かに話しかけてきた。
「どうかな。シャワー浴びたら、少しはスッキリするかもね」
「そうか」と俯き小さく床に漏らす。
「洸太は、帰らなくて大丈夫?」
訊ねると顔を上げる。
疲れて眠そうな眼差し。私とは違い、接客やら上司の相手で今日も忙しく動き回るのだろう。心配させてしまっているのは私だけれど、こんなことを続けていたら洸太の身が持たない。私のことは、私が面倒を見ればいい。洸太には、これ以上――――。
「洸太……」
「鈴木と一緒だったのか?」
重ねられた言葉に息を飲む。
さっきまで静かに話していた声とは違って、鈴木君とのことを訊ねる声には鋭さがあった。瞬時に形容し難い緊張感が走り言葉に詰まった。
「えっ……と……」
「鈴木に話したのか?」
それは、奏太の事をという意味だろう。
軽率だっただろうか。なんの関係もない鈴木君や俊君に話す事は躊躇われたけれど。私は彼らに話すことで救われた。こんなになるまで酔わせてくれた事を感謝している。
「同情してるだけだ」
「え……?」
洸太が言葉を切る。はっきりと言った洸太の目を見ると、視線を外せなくなった。
同情……。
「スミレのことをわかってやれるのは、もう俺だけだ」
「洸太……」
「同情されて、これ以上スミレが傷つくところを俺は見たくない」
そこまで言ってすっと立ち上がると、ベッドに座っていた私のそばへと来た。
「鈴木のそばにいれば、スミレが傷つく」
「そんなことな――――」
「――――ある」
かき消す否定の言葉は強く、それ以上何も言うことができなくなった。
「スミレの心配をするのは、俺だけでいい」
洸太の手が伸びてきて、ベッドに座る私の首の後ろへと回る。そのまま引き寄せられ、洸太のお腹当りへと寄りかかるように抱きしめられた。
「俺がそばにいるから」
その言葉のあと洸太は身をかがめて額に唇を優しく押し当てた。
触れられた温もりをどう処理すればいいのか、アルコールという言い訳に私は思考を閉じた。
徹夜なんて、十代。いや大学の頃以来かな。こんなにキツかったかな。
酒に溺れた睡眠不足の体は、吐きたくもないため息を何度も吐かせる。
洸太が帰ったあと少しだけでも眠ろうかと思ったけれど、二日酔いになりかけの体はダルすぎて、今眠りについたら寝過ごすのは目に見えてやめた。
シャワーを浴びてスッキリさせてから、苦いコーヒーを淹れて一口二口飲み、ぼんやりと時間をやり過ごした。化粧ノリが最悪のまま玄関を出ると、同じように寝不足の顔をした洸太が、いつものように迎えに来ていた。
「飯は?」
「食べられる気がしない」
苦笑いを浮かべると、途中のコンビニで栄養ドリンクを買って渡された。
コンビニの前に立ち、二人で一気に飲み干すとなんだかおかしくて笑えて来た。徹夜ハイだろうか。
出社して直ぐに電話対応に追われる洸太から離れて自席へ向かう。途中のデスクには、同じように二日酔いの鈴木君が目に入った。
「おはよう」
声をかけると亡霊のようにゆっくりと顔を上げてから、眼鏡の奥を頑張って三日月にしている。
どうみても、無理やりの笑顔だ。とても申し訳なくなる。
「昨日は、ありがと。大丈夫……じゃないよね」
「だ、大丈夫だよ」
応えながらも、顔つきにも目にも力がない。
「待ってて」
言い置いて自席へ向かわず、真っ直ぐ休憩室に行き濃いコーヒーを入れて戻った。
「はい」
「ありがと」
「ドリンク、買ってこようか?」
今朝洸太に買ってもらい飲んだドリンクの効き目はなかなかで、出社した頃には体もだいぶ楽になっていた。
「大丈夫、大丈夫」
力なく笑ってから、鈴木君はコーヒーを口にして熱さに驚きカップから直ぐに口を離した。
そこへ洸太がやって来て、私の腕を強く引く。驚いて振り返ると、洸太の瞳は鈴木君を睨みつけていた。
「関わるなと言ったろ」
「ちょっ、洸太……」
感じの悪い言動に慌てる私とは正反対に、言われた鈴木君は動じることもなく真っ直ぐ洸太を見返している。
さっきまで二日酔いでへばっていたのが嘘のような力強い瞳だ。
引き摺られるように自席へと連れていかれ座らされた。周囲からは、そのやり取りを見て囁き交わす声や視線が降り注いだ。
「また、変な噂がたつよ」
「構わない」
言い切ると席から離れ、仕事へと戻って行った。
午後を過ぎ、外への用事を頼まれたついでにコンビニへ寄った。小さな小瓶を一つ手にして社に戻る。デスクで書類に目を通していた鈴木君の目の前で、さっき買った小瓶を振ってから置いた。
「今更かもしれないけど」
「あっ、ありがとう」
三日月の瞳は、今朝よりもだいぶ復活していた。にこりとした笑みを見せられれば、こちらの目尻も下がる。
「睡魔と闘ってたから助かるよ」
言いながらキャップをひねり、一息に飲み干した瓶をデスクに置く。私はそれに手を伸ばした。
「あ、いいよ。自分で捨てに行くから」
休憩室にある備え付けのゴミ箱にしか瓶は捨てられない。
「じゃあ、一緒に少し休憩しよっか」
洸太は会議室で商談中だから、今フロアにはいない。提案すると、鈴木君が満面の笑みを見せた。
コーヒーを二杯入れて、カップをテーブルに置いて向かい合う。
「昨日は、ごめんね」
「謝らなくていいよ。ぼくも一緒に飲みたかったし。俊だって、望月さんにノリノリでカクテル作ってたしね」
「俊君にも悪いことしたなぁ」
ニコニコと人懐っこく対応してくれた俊君だけど、思い返せば酔っ払って話し声が少し大きくなっていたように思う。
「迷惑だっよね」
はぁーっと大きく息を吐き項垂れ、机に一度伏せた。
「あれだけ飲んだんだし、いいお客でしょ」
半ばからかうように笑う声を聞き、伏せていた顔を起こした。鈴木君は、コーヒーを口にしている。
「あちっ」
「猫舌?」
「いや、そうでもないはずなんだけど」
おかしいなぁ、というように首をかしげる表情はどこか惚けていて笑みを誘う。
「それと、洸太の事。何度もごめん。最近、少しおかしいんだよね……。私の記憶が戻ったせいかな。奏太のことを思い出したせいで、どこか少しずつ悪い方へとずれてきている気がする……」
奏太のことをあのまま思い出さない方がよかったのだろうか。知らないまま日常を越えて、洸太と軽く付き合っていくのが賢明な判断だったのだろうか。
そう考えてみたけれど、すぐに打ち消した。いずれ記憶は戻っていたに違いない。だとすれば、遅いか早いかだけの問題だ。タイミングもあるだろうけれど、たらればで考えたところで今更だ。
隠していたのかな。思い出さない私のせいで、洸太は自分がどんな気持ちでいたのかを隠さなくちゃいられなかったのかな……。
洸太の気持ちに気づくこともない私を前に、いつもどんな思いでいたのだろう。
「望月さんのせいじゃない。元々そうだったことが、表に出て来てしまっただけだよ」
鈴木君の慰めは結局元の場所に戻ってきて、記憶が覚醒されてしまったことに起因していると言っているのと同じことだった。慰めてくれようとする気持ちに感謝する。
「ありがと、鈴木君。今日は残業なしで、早く帰って体休めてね」
「望月さんも」
互いに頷きあい。コーヒーを飲み終えたあと、それぞれの仕事へと戻った。