お店の前にたどり着いた頃に、雲は晴れていた。フィルターから逃れた夜空が、明るい月を従えて迎えてくれる。
 ゆっくりと階段を下り、大きなドアに手をかけ開ければ、今日も心地のいいジャズが聴こえて来る。弾むように踊るピアノの曲に、自然と歩調が軽くなった。

「菫ちゃーん。いらっしゃい」

 久しぶりに顔を出したというのに、あいも変わらずすんなりと引き寄せる接客は、仕事じゃなかったら勘違いしてしまうくらいの笑顔だ。つられて笑みを返しながらカウンターへと向かった。

 今夜のテーブル席は、賑わっていた。殆どが埋まっていたけれど、カウンター席にはまだ誰もいない。

「こんばんは。来てくれて、嬉しいな」

 俊君の前の席に座ると、おしぼりを広げて渡してくれた。あったかい。

「今日は、何食べる?」

 開口一番に食べ物のことを訊かれて、つい吹き出してしまった。

「あれ。なんか、変なこと言ったかな?」

 ここはあくまでバーだというのに、飲み物よりも食べ物をふられる私って、食いしん坊みたいだよね。

 ここへ来ると、落ちていた心が身構える前に笑わせられる。

 俊君は頬を緩める私へ、ドリンクのメニューと共にフードメニューも広げてくれた。

「今日はね、芽キャベツのいいのが入ってるんだ。まだ少し寒かったりするし、シチューを煮てあるんだけど、どうかな?」

 シチューか。一人だとなかなか作る機会もないから嬉しいな。

「うん。それにする」
「そうそう。パンも焼いたから、一緒に出すね。これは、サービス」

「え、いいの?」
「菫ちゃんの、美味しそうに食べる顔が見たいから」

 目じりを垂らし、「ちょっと待っててね」と俊君が裏に引っ込む。

 俊君にあんなこと言われたら、お客さんはみんな勘違いしちゃうだろうな。
 カウンターに頬杖を突きながら、無邪気な笑顔を振りまく俊君の後姿を目で追った。

 少しして目の前にやって来たシチューは、芽キャベツの緑がとても色鮮やかだった。
 人参がお花だ。可愛い。量も調節してくれているのか、少なめにしてくれている。沢山食べられなくて残してしまったら悪いなと考えていたから、この気遣いには本当に頭が下がる。
 スプーンに掬い取り、とろりとするシチューをふうふうしながら口へと運んだ。

「おいし~」

 とても優しい味がする。

「良かった。いい笑顔」

 少しだけ先生みたいに言って、満足そうな顔をする俊君に笑顔を返した。

 ドリンクは、あの朝焼けのようなカクテルにしてもらった。飲んでみるとアルコールがいつもより抑えられていて、また俊君の気遣いが伝わった。きっと見た目でもわかるくらい、元気のない顔つきをしているのだと思う。

 出されたシチューを慌てずゆっくりと体に沁み込ませる。染み出した野菜の旨味と、ホワイトクリームがよく合っている。俊君の焼いたサービスのロールパンも、柔らかくて美味しい。シチューの時には、フランスパンを食べることが多いけれど、ロールパンの柔らかさがとてもいい。
 俊君は、傷ついた私が今日ここへやってくることを解ってでもいたみたいだよね。パンの柔らかさは、彼の優しさに思えた。

「鈴木君は、来てる?」

 パンを小さくちぎり、シチューに浸して口にしたあと訊ねた。

「来てるよ。なんだか最近は、よく来るんだよ。うちとしてはありがたいけど、あいつ寂しいのかも」

 笑みを浮かべながらグラスを磨く。

 あれ以来、毎日会社で顔を見ていても、まともに会話をする機会もない。寒い中、外でお弁当を食べた日がずっと遠い昔だった気がしていた。ゲームセンターへ行ったことも、懐かしむくらいの過去に思えて、どうしてだか心がきゅっと切なく反応した。

 洸太の手前、鈴木君からそばに来ることがないのだから、私から話しかければいいのだろうけれど、時間が経つにつれ、どうやって声を掛けたらいいのかわからなくなっていた。

 洸太に牽制された時の鈴木君を思えば、私が近づくことは迷惑にしかならないのではないだろうか。そう考えても、視線は時折彼のデスクへ向いていて。眠そうだなとか、疲れてるのかなとか。眼鏡の奥がとても真剣で、そうやって仕事に取り組むんだな、なんて姿を眺めていた。
 鈴木君へと眼差しを向けていると、決まって洸太が視界へと入り込み、僅かなその時間も遮られることが多かった。

 洸太は、どうしてか鈴木君を嫌っている。それが何故なのかわからないけれど、初めから彼のことをよく思っていない。
 いや、それは鈴木君に限ったことじゃないのかもしれない。資料室でも言っていた。奏太以外は、誰も私のそばにいることを洸太はよく思わないのだろう。
 記憶が戻った今でも、それは変わらない。私は、洸太に独占されている……。

 思考の渦に入り込んでいるところへ、ドアが開いた。来客だ。
 スプーンを握ったまま入り口を振り向くと、鈴木君が立っていた。
 頭の中にいた鈴木君が、現実として目の前に現れて、驚きに目が見開いた。同時に、心がふわりと明るさを増す。

「噂をすれば」

 楽しそうな声音の俊君が、「いらっしゃい」と声を上げると、私に気がついた鈴木君の目がまん丸に大きくなったあとに思いっきり三日月になった。
 その目を見られたことがやたらと嬉しくて、笑みを返しながらも泣きそうになったんだ。

 カウンターに鈴木君と並んで座れば、目の前には俊君もいて。このトライアングルな環境にとてもほっとしていた。二人からふんわりと漂う柔らかな雰囲気は、私みたいな尖った性格には春風みたいで心地いい。

「えっと。前は、洸太がごめんね」

 会社のロビーで、洸太が冷たく放った言葉に頭を下げた。
 ビールを口にして一息ついていた鈴木君は、何かを口にしようとしてうまくいかないみたいに苦笑いをする。

「望月さんは、……大丈夫?」

 心配した鈴木君が、顔を覗き見る。

「大丈夫だよ。ここに来たら、元気が出た」

 俊君に笑顔を向けると、笑みを返される。

「洸太は、少し過剰なところがあるから。あまり気にしないで……」

 そうは言っても、会社でまともに会話することさえできない状況に、気にしないでなんて気休めにもならないよね。

「……芹沢さんは、望月さんが大事なんだよね……」

 鈴木君が、目の前にあるグラスに向かってボソリとこぼす。

「大事、……か」

 心配されて大事にされて。この数年の間、記憶のない私のそばに洸太はいつもいてくれた。それはきっと、感謝してもし足りないだろう。けれど、それと並行するように私から色んなものを遠ざけようとしていることを寂しく感じている。奏太のことしか、受け入れる資格がないみたいで悲しくなるんだ。全てを理解してくれている洸太に縋りたい気持ちもあるくせに、こんな風に考える私は冷たいのだろうか。
 奏太以外のことを考える私は、洸太にとって別の世界にいる他人のように感じられるのだろうか。一も二もなく奏太、奏太と言っていた私を知っている洸太だから、そこに別の……鈴木君が入り込んできたことが許せないのかもしれない。

 最愛の人を喪ったのだから、その悲しみに包まれるのは簡単だ。暗闇に引きこもって、目をつぶり、耳を塞いで、口を閉じ、感傷に浸っていればいいのだから。けれど、それでいいの? どんなに引きこもろうとも、奏太は帰ってこない。その事実は何をしたって覆らないのに、そこにだけ心を置いていていいはずがない。
 だって、私は、生きている。奏太を喪ってしまった今も、私は生きている。洸太だって、毎日を超えているじゃない。
 奏太の分までなんて、言葉にしてしまえばとてもチープな気がするけれど。奏太なら、きっと今の私や洸太の状況を望まない気がする。自分がそばに居なくなったあとの、貼り付けた笑顔ばかり浮かべている私たちのことを、奏太は望まない。望むはずがない。
 だって、それが奏太という人間だから。

 カウンターに立ち、鈴木君と他愛もない話をして笑みを浮かべている俊君。注がれたビールを美味しそうに口へと運び、時々隣の私を窺い見る鈴木君。
 二人といる時間は、この先の私にとって大切な時間になる気がする。ここから離れて洸太のそばにだけいるのは、体の半分を失ったまま、その傷に手を当て痛みに耐えて生きていくのと同じだ。

 生きることは、痛い。辛くて、苦しい。だけど、それだけじゃ、生き続けていくなんて、できないよ。

 息苦しくなっていく感情に心が色をなくしそうになると、不意に奏太の声が聞こえた気がした。

 菫。笑って――――。
 笑顔の菫が、一番好きだよ――――。

「奏太……」

 小さく零れた出た声に、隣に座る鈴木君が僅かに反応した。隣から心配そうに窺う目を見ると、苦しさと同時に安堵に襲われ涙腺が緩くなる。
 咄嗟におしぼりを手にして目がしらに当てると、慌てたような様子が伝わってきた。

 奏太。もしかして、奏太が鈴木君に会わせてくれたの? 彼と話すことで、私の中にある冷たく悲しい記憶を小さく砕き溶かし、心を温めてくれるって知っていたの?

 寂しくないようにと、奏太が鈴木君に出会わせてくれた気がした。
 私がもう一度笑っていられるように、奏太が鈴木君の存在に気づかせてくれた気がした。
 だしとしたら、話すべきじゃないだろうか。何も知らないまま鈴木君といることは可能だけれど、話すことでもっと彼に近づけるし近づいてもらえる。俊君だってそうだ。この二人なら、私の過去を聞いても、今までと同じようにいてくれる。きっと、そうしてくれる。

 心配するような気配を感じ、目からおしぼりを外した。
 視界が元に戻ると、やっぱり鈴木君はとても心配そうに隣から様子を窺っていた。俊君も、私のことを切ない瞳で見ていた。

「話……、聞いてもらえるかな?」

 思いつめたような顔をしているだろうか。ううん、この先を歩き続けていくための、一人でも立って歩いていくための、意志のある目をしているはず。

 真剣な目に同じように真剣な瞳で向き合ってくれた二人がゆっくりと、けれどしっかりと頷きを返してくれた。

 私は二人に向かって、少しずつ奏太とのことを話していった。あの日、洸太が連れて行ってくれた、奏太のお墓のことも……。

 泣いて叫ぶ私を落ち着かせようと、必死に抱き締めた洸太のこと。ずっと私の記憶に付き合い、話を合わせ続けてくれていた、おじさんやおばさんや両親のこと。今もそばに居続けようとしてくれている洸太のこと。

 あの日の事故を思い出せば、今でも心臓を握りつぶされるほどの悲しみと苦痛がやってくる。その痛みに目をつぶらず、迎え撃つくらいの心持ちで背筋を張った。

 冬期休暇を前にして、一時帰国のハガキが届いた。飛び跳ねるみたいに喜んだのもつかの間。奏太は二度と帰らない人となってしまった。
 小さな航空会社の、小さな飛行機だった。着陸に失敗して炎上する場面は、なんだか映画の中みたいで真実味にかけていた。けれど、繰り返し繰り返し、何度もニュース番組で流れるその瞬間を見せつけられていると、嘘でも映画でも作り物でもない事実だと突きつけられた。飛行機は燃えている、奏太は帰ってこない。骨さえまともに拾えない状態だったとおじさんが苦しそうに言っていた。何が何だか分からなくなって、気がおかしくなりそうで。気が付けば、その時の記憶は、私の中からすっぽりと抜け落ちていた。

 ううん。心の奥の、ずっと深いところに閉じ込めてしまったんだ。誰にも見られないように。誰にも訊かれないように。誰にも、その時の話をさせないように。弱い私が、記憶を封じ込めた……。

 奏太がいつ帰ってくるのかなんて、平気で口にする私のそばに、洸太がどんな気持ちでいたか。私が奏太の話をするたびに、きっと胸を苦しくさせていたに違いない。
 それでも投げ出すことなく、ずっとそばにいてくれた。

 店内に流れているジャズは、もう何度アーティストが入れ替わっただろう。来た時に流れていたピアノは、気が付けばギターに変わっていた。ベースの深いけれど軽快に奏でる低い音が心地いい。
 鈴木君の前にあるビールのグラスは、私が話を始めたときのまま炭酸の勢いを失いグラスに残っている。俊君は、とうにグラスを磨く手を止めていた。

 私に向き合ってくれている二人に、うまく伝えられているだろうか。どれほど奏太と洸太と私が仲良しだったか。どれほど洸太が弟の奏太を大事にしていたか。どれほど私が奏太を好きだったか。伝えられただろうか。

 二人は言葉を挟むことなく、語る話を聞いてくれた。淡々と話したけれど、時々込み上げてくる感情にジワリと目の前が熱くなると、さりげなく俊君が新しいおしぼりを手に握らせてくれた。
 温かなおしぼりの熱に、さらに涙腺が緩みそうになる。

 鈴木君が、見守るように穏やかな視線をくれる。眼鏡の奥の三日月は優しく弧を描いている。
 いつの間に現れたのか、ここのマスターだろう銀髪のおじ様が、私の話を真剣に聞いてくれている俊君の代わりに、お客さんからの注文を受けていた。

 ここには、やさしさが溢れている――――。
 
 一息に話すと、さっぱりとした炭酸飲料がコースターに置かれた。俊君からだ。グラスに浮く三日月のライムと弾ける泡を眺めてから、刺激を求めるように口にした。話し続け渇いた喉の奥に、棘のように刺さる炭酸に顔が渋くなる。
 汗をかくグラスの水滴を指先でなぞれば、コースターが雫で濡れていく。涙のように染み込んだ水滴を眺め、喉の奥はまた熱くなる。

 鈴木君の前にも、新たなビールのグラスが置かれた。鈴木君の顔を見て促すようにすると、遠慮がちに手に取り口をつける。コースターにグラスが戻るのを見届けてから、私は再び口を開いた。

「洸太に、いっぱい迷惑かけてきちゃった」

 二人に話し終えたことで、心は落ち着き始めていた。喉の奥をくすぶる熱も、瞳の奥に控える涙も、少しずつ引いていく。

「散々迷惑かけてきたけど、記憶が戻ってからも私はまだ洸太に甘えようとしてる。そんな自分が嫌でたまらないのに、……どうしようもなくて。洸太だって辛いのにね……」

 再びグラスを手にして、強い炭酸に刺激をもらえば、しっかりしなさいと言われている気がした。

「ありがと、俊君。これ、美味しい」

 俊君が笑みを浮かべて、こくりと頷いた。
 隣の鈴木君は、何も言わない。こんな話をされて、困っているのだろうか。過去のつらい話など聞かされて、迷惑に感じているのだろうか。そう思ったら、急に不安になってきた。

 俊君は仕事柄、嫌な顔などするはずない。笑みを浮かべていながらも、もしかしたら心の中では面倒ごとに巻き込まれてしまったと感じているのかもしれない。
 こうやって私は、洸太だけじゃなく鈴木君や俊君まで巻き込んで困らせている。

 さっき渡されたおしぼりはすっかり冷えていて、店内の温度と同化していた。手いたずらするようにおしぼりに触れ、またグラスを手にする。不安に思う気持ちが、落ち着きのない行動をさせた。
 グラスに残るジンを、一気に煽った。空腹だった胃に染み込むアルコールが酔いを呼ぶ。

 もう、ここへ来ることはないかもしれない。会社で鈴木君と話すこともないかな。さみしいけれど、仕方ないよね。一人で勝手に盛り上がり、自分の感情を二人に押し付けてしまったのだから。

 迷惑をかけて、ごめんなさい……。

 息をつき、席を立とうかと思ったところで鈴木君が口を開いた。

「大丈夫?」

 何も口にしないまま、アルコールだけを一気に飲み干した私を心配してくれた。
 薄く笑みを返すと、テーブルに置いた私の手にそっと手を重ねた。
 酔い始めた思考の中、ゆっくりと伝わる鈴木君の手の温かさを感じていた。視線を向けると、言葉もなく優しく労わるような瞳が私を見つめていた。

 迷惑……じゃなかった?

 怖くて言葉にして訊ねられない。心情を察したのか、今度は俊君が「よしっ」と声を上げた。

「菫ちゃん。今日は渉のおごりだから、じゃんじゃん飲もう!」

 俊君の言葉に鈴木君は「え?」なんて一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに相好を崩し「まかせて」と胸を張った。

 俊君は、当然のようにドリンクメニューだけじゃなく、食事のメニューまで一緒に手渡してくるから思わず笑みが漏れる。

 二人は魔法使いなのかもしれない。私の笑顔をすぐさま引き出してくれる。なんて素敵な人たちなのだろう。

 ありがとう。
 何度言っても足りないよ。

 ありがとう。

「よしっ。今日は飲むよっ」

 気合を入れて泣き笑いのような顔をすると、それに呼応でもするように以前あのピアニストが弾いてくれたのと同じ、軽快でいて明るいジャズが流れだした。

「俊君、おかわり」
「りょーかい」

 酔いつぶれる覚悟を決めた私のことを、二人は止めたりしなかった。

「心配しないで。ちゃんとタクシー呼ぶし、何なら渉に送らせるから」と二人が頷いている。

 何の心配もなく、飲みたいだけ飲めばいい。そんな風に見守る二人に感謝しながら、その後いいように次々とアルコールを摂取していった。

 ここには、やっぱり優しさが溢れている――――。


 自宅マンションに着いたのは、明け方だった。どれくらい飲んだかなんて、数えられるはずもなく。ただ、時々鈴木君にポツリポツリと奏太のことを話しては、アルコールを飲み、流れるジャズを聴いていた。

「歩ける?」

 タクシーから降りた私を抱えるようにして、鈴木君も降りる。

「大丈夫、歩ける」

 鈴木君から離れれば、体はフラフラとして思うように歩けない。いうことの利かない体でも、これ以上迷惑はかけられないという頭が働き、彼にはマンション前までで帰ってもらう事にした。

「鈴木君、ありがと」
「僕は何も……」
「ううん。一緒に飲んでくれたの、救われた。おごりだし」

 くすっと笑うと、鈴木君も笑う。

 アルコールにやられながらも笑みを浮かべたらフラリとしてしまい、慌てて鈴木君が手を伸ばし支えてくれた。

「やっぱり部屋の前まで行くよ」
「大丈夫。ホント、迷惑をかけました。こんな時間まで、ごめんね」

 白み始めている空にチラリと視線をやり、僅か数時間後には仕事が待っているのだからと、支えてくれる手から離れて両足に力を入れる。

「本当に大丈夫かな」と鈴木君はとても心配そうだ。その顔に向かって、「平気、平気」と笑みを見せた。

「僕でよかったら、いつでもお酒に付き合うよ」
「心強いなー。優しいね」

 僅かな言葉の波動にさえよろめいてしまい、再びふらつく体を支えられ鈴木君の手が私の背中に回った。
 回された手はとても自然だった。まるで、今までもずっとそうしてもらっていたみたいに、私は鈴木君の胸に納まっていた。

「ほっとけないよ。ほっとけるわけない。……強がらなくていいよ」

 抱きしめられた胸の中には、安心感が詰まっているみたいだった。それは、鈴木君の持つ特有のフワリとした柔らかな雰囲気や、眼鏡の奥でいつも三日月を作っている穏やかな瞳や気遣いなのだろう。

 このままこうしていたい。
 奏太じゃない匂い。奏太と違う抱きしめ方。
 なのに、とても安心できる。

 浴びるほど飲んだアルコールのせいか、彼の背中に私の手が回る。

「ごめんね」

 胸に顔を埋めて謝れば、止まっていた涙がまた流れ出した。

 これは何の涙なのか。奏太のいない今を嘆く涙なのか。飲みすぎたアルコールにやられた涙なのか。それとも、罪悪感からくる涙なのか……。

 涙の理由はわからないのに、安心感だけは間違いなく心を包み込んでくれていて。鈴木君の背中に回る私の手は、彼のコートを掴んだままだ。

 奏太はもういない。だけど、……でも。

 現実の辛さを伴う感情に追い立てられながら、アルコールに侵された脳内はこれ以上の何かを深く考えることなどできなくて、ただしがみつくように抱きつき、子供みたいに泣けてきて声が漏れた。

「ごめん、ごめんね……」

 漏れる嗚咽は、明け方の静かなマンション前に少しの間響いていた。