玄関先で大きく息を吸って吐き出す。泣きすぎたせいで塩分と水分不足なのか、体も心も重くだるかった。
 一番履きなれていて、足に負担のないヒールを出した。右、左。革靴が足になじむ。バッグを手に持ち、もう一度息を吸い吐き出した。
 奏太の事故を知った三年前。あの頃の自分は、もっと酷かった。何日も食べ物を口にできなかったし、話すこともできなくなっていた。その時に比べれば、今の自分は随分とましになっている。
 痛みに鈍くなり、慣れていく心。時が解決してくれるってやつなのかな。それとも、記憶を封じ込めたせいで、その分クッションで和らげられたのか。なんにしても、あの頃より平気な自分がいて逞しくなったと思うよりも、奏太の事を忘れようとしている気がして悲しくなった。
 それでも、これ以上周囲に迷惑をかけるわけにはいかない。甘えてばかりなんて、いられない。
「大丈夫」
 呪文のように口にして、ドアを開ければ洸太が待っていた。
「はよ」
 いつもより空元気のような洸太の挨拶に、私も頑張って声を張った。
「朝飯は?」
「コーヒー飲んだ」
「途中でどっか寄るか? マスターのとこでもいいし」
 私の歩調に合わせて隣を歩く洸太が、いつもよりも優しい。
 ううん。本当は、ずっと優しかったんだ。ずっと誰よりも優しかったのに、気がつかなかっただけ。守られていたことに、気がつかなかっただけ。

 会社のエントランスに着けば吸い込まれるようにたくさんの人に紛れ、いつものように自然と歩いて行けた。不思議なもので、慣れというのはこういうところで前に進む強さをくれる。
 ヒールの音が、広いエントランスに溢れる音に浸透するようにして消える。まっすぐエレベーターへ向かって歩いていくと、隣の洸太が一瞬足を止めまた歩き出した。
 どうしたのだろうと洸太の視線を辿れば、同じくエレベーターに向かう途中の鈴木君が、こちらを向いて立ち止まっていた。
「おはよ……望月さん……」
 洸太に軽く頭を下げたあと、鈴木君は私の方へ顔を向ける。語尾を濁した鈴木君は、私に向かって心配そうな表情をしていた。
 私は、どれほど酷い顔をしているのだろう。目の下のクマや泣きすぎて腫れた瞼を、化粧では隠しきれていないのか。それとも、そもそもの表情が暗いのだろうか。
 口角を持ち上げ笑みを返すと、隣の洸太が促すように私の背中を優しく押した。合図を送られた動物のように足を前に出すと、追いかけてくるように鈴木君が付いてくる。
「僕のせい……?」
 訊ねる顔に向かって首を振ると、間に割って入るように洸太が前に出た。
「スミレ、先行ってて」
 再び背中に手をやると、エレベーターへと再度促される。言われるままに、一歩踏み出した。
「もう、スミレに構わないでくれ」
 鈴木君への切り捨てるような冷たい言い方に振り返ると、彼の瞳が悲しげに私の方を見ていた。
 その場に立ち尽くし動かなくなった鈴木君に気を取られていると、追いついた洸太が私の腕を引き歩き出す。たくさんの社員たちとエレベーターの箱へと乗り込んだ。静かな機械音と共に上昇するエレベーターの中で、洸太はまるで何かから私を守るみたいに腰に手を当て引き寄せる。驚いて顔を上げて洸太を見ると、瞳はまっすぐ前を見たまま硬い表情をしていた。
 大丈夫だよ。そう言う代わりに洸太を見上げて、空気を和ませるみたいに笑みを作った。その表情に、洸太がふっと息を吐き表情を緩ませる。
 そういえば。
「洸太……。今日、お弁当作るの忘れちゃった」
 さっき鈴木君と会った事で、何も作らずに来た事を思い出した。
「俺と一緒に、外で食えばいいさ」
 洸太の言葉に頷きを返し、登りゆく数字のランプをぼんやりと目で追った。

 仕事はルーティンだからか、いつもと変わらずこなしていけた。突発的な事案がなかったせいもある。それでも洸太は様子を気にして、ことあるごとに近くへ来ては声をかけてきた。忙しい合間にやって来ているから、かけてくる言葉はほんの一言二言だけれど、その気遣いに救われていた。
 奏太の事を知る唯一の存在だから、かけてくれる言葉に間違いはないと安心できた。
 その日、鈴木君は洸太に言われた事を気にしているのか、仕事以外のことでそばに来て話しかけるようなことはなかった。
 三日月のような瞳を眼鏡の奥に見ることのない一日は、なぜだか味気なく感じた。

 記憶が戻り一週間が過ぎていた。私は相変わらずの状態で、普通に過ごしているようでどこか違うのか、社内では以前よりも浮いている気がした。
 奏太の記憶がハッキリしてから、私に対する洸太の態度は以前と変わり始めていた。そばにいる時間は明らかに増えていたし、社内でも言葉を交わす機会が多くなっていた。
 同じ傷を持つ私と洸太が歩いていくために、近くにいて互いを助け合っていく方法しか、今は思いつかない……。
 なのに、今までにない不自然なこの距離感を、どう受け止めればいいのか困惑もしていた。
 それに加え、周囲はそんな私たちのことをそっとしておくはずもなく、噂は容赦なくいらぬ方へと拡がっていった。洸太と私の関係は以前の軽い噂ではなく、確信的になっていった。
――――ほら、やっぱり付き合ってるんだよ。
――――いつも一緒にいるよね。同棲してるんだって。
――――あの二人、結婚するらしいよ。
――――この前、社内で抱き合ってたの見た。
――――え、キスしてたって聞いたけど。
 噂は一人歩きし、いつの間にか私たちは社内で抱き合ったり、キスをしていることになっていた。けれど、そんな事をわざわざ否定する気力もなくて、噂されるままに日常を越えていく。
 鈴木君は相変わらずだけれど、以前のように話しかけてくれることもなく、それだけが寂しい。少し前のように接して欲しくて何度か声をかけようとしたけれど、そのタイミングはいつも洸太の存在にかき消されていた。

「お疲れ様です」
 定時、周囲に声をかけて席を立つ。洸太の席を振り返れば、急ぎ足でこちらへ近づいて来た。
「悪い。仕事、まだかかりそうなんだ」
 エレベーターまで一緒に歩きながら、洸太はすまなそうな顔をする。あれ以来、洸太とは一緒に帰ることが多くなっていた。とは言っても忙しい洸太だから、今日のように残業になることもしばしばで、毎日一緒というわけでもない。そんな時には、決まってこの言葉をかけてくる。
「一人で平気か?」
 小さな子供を気遣うように掛けられた言葉にこくりと頷く。
 下りて来たエレベーターに乗ると、洸太も一緒に乗り込み一階のボタンを押し“閉”のボタンも続けて押した。洸太と私を乗せた四角い箱が静かに下降していく。
「平気だよ。心配し過ぎ」
 笑顔を張り付けると、切なげに眉根を下げられた。どうやら、うまく笑えていないみたいだ。
 仕事の邪魔をしているだろうことはわかっていても、一人の時間が辛いのは事実でつい甘えてしまう。陽の短いこの季節だから特になのか、煌々と明かりの灯っていたオフィスから一歩外に出てしまえば、街頭の煌びやかな電飾には僅かに眩暈を覚え、宵闇には押し潰されていく感覚に陥るときがある。
 常時そんな具合ではないけれど、不意に訪れるその感覚には鼓動が倍の速さになり耳鳴りがした。
「ストレスだね」
 大学の知り合いにたまたま会った際に、よく耳鳴りや動悸がするといった話をしたら、そんな風に言われた。心は、自分が考えている以上に傷から回復していないみたいだ。
 平気だと思い込もうとすればするほど、心に負担がかかっているのかもしれない。
 有休でも使って、どこかへ旅行にでも行って気分を変えた方がいいだろうか。けれど、一人ではいけない。都会の夜に押しつぶされる自分のことを思えば、遠い地で誰の助けもない場所に行くのは怖さしかなかった。
 頼りきりではいけないという思いと、寄りかかり縋り付きたい感情が透明な瓶の中でないまぜになる。いつの間にか振られる瓶の中で攪拌されて、感情は何が何なのか目を細め凝らして見ようとしてもうまくいかなかった。
「いつも、ごめん。忙しいのにね」
「そんなこと気にするな」
 誰もいない箱の中で洸太の手が首筋へと伸び、髪の間を縫いうなじの辺りに指が触れる。自然なその仕種に戸惑いを覚えても、無碍にすることができなかった。奏太とは違う手の大きさや温もりだとわかっていても、何も言えなかった……。
「メシ、マスターのところでもいいから、ちゃんと食えよ」
「うん」
 ありがと。声にならない感謝の言葉を残して、一階にたどり着いた箱から私だけが降りる。
「じゃあ」
 右手を軽く上げる洸太の姿が、閉まるドアで消える。見えなくなった瞬間に漏れるのは、深いため息だった。誰かがそばにいて理解してくれる安心感と、けれどそれは奏太ではない温もりと理解している心が天秤の上でグラグラと揺れていた。
 肌寒さも、そろそろ和らぐのだろうか。道路脇の桜は目を凝らして見なければ気が付かないけれど、小さな蕾を膨らませていた。あと何日。そう指折り数えるように、いつ咲き出そうかと待ち構えているのかもしれない。
 立ち止まり、その蕾を見上げてから空を仰いだ。暗い空に浮かぶ雲は大きく、暗闇の上にフィルターをかけている。星も見えない空を仰ぎ「お腹、空かないな」と呟き一歩を踏み出した。
 洸太には、ご飯を食べるよう念押しされたけれど、あれ以来食欲は半減されていて、一人だと何も食べずに眠りについていた。こんなことを言ってしまえば、洸太が心配するのは目に見えているから、一人でも食事はとっていると嘘を積み重ねている。
 そんな私に気づいているのかいないのか、洸太は心配してなるべく一緒に食事を摂ろうとしてくれる。ランチも一緒に取り、食べきれない分は洸太が食べてくれた。私のことを切なげに見てくる洸太は、少しだけふざけて「俺のために残したのか」なんて言いながら平らげてくれる。
「太ったらスミレのせいだからな」なんて笑ってくれて、私の目尻は下がるんだ。
 そんな風に心配されても、お腹の虫はなりを潜めてしまい鳴き出してはくれない。だから、マスターのところへ行っても食べられる気がしない。
 うつむき加減で駅に足を向けていたら、不意に人懐っこい笑顔を思い出した。
 そうだ、……あそこなら。
 さっきまで重かった足取りが、少しだけ軽くなった。