洸太とした週末の予定に気を取られることが多い中、鈴木君と約束した弁当の方へ気持ちを持って行くようにした。何か別の物事に意識をやらないと、暗闇に取り込まれてしまいそうだった。
 今度こそ、忘れないようにしないと。
 仕事帰り、近所のスーパーへ寄った。冷蔵庫の中にはそれなりの具材はあったけれど、誰かに作るとなると適当にはできない。無くなりかけていた卵に、キャベツを半分。鶏挽肉と鶏モモ肉。挽肉と卵のそぼろご飯の上に照り焼きチキンを乗せよう。それから、コールスローにほうれん草の胡麻和えにプチトマト。男の人だと、お腹にたまるようにもっとたくさん入れた方がいいだろうか?
 色々考えていたら楽しくなってきて、夜のうちに下ごしらえをしてからベッドに潜り込んだ。
 鈴木君の美味しいと言って頬張る顔を想像したら、気持ちが少し上がってきて気分のいいまま眠りに誘われた。

 いつもより少しだけ早起きをした。弁当作りは慣れているけれど、誰かのために作るのだから失敗するわけにはいかないので余裕を持っての行動だ。鼻歌交じりにキャベツを細かく刻み、肉を炒めていく。すり胡麻を和えたほうれん草を、少しだけ摘まんで味見する。拡げたランチボックスへおかずを彩りよく詰めた。鈴木君の分は、ご飯の量を少し多めにする。よし。
 誰かのために作ることなど、奏太以外には今まで殆どなかった。弁当を片手に出社する。フロアに入ると出勤したての鈴木君はまだぼんやりとしているようで、電池切れのように自席に腰掛けて何処ともなく視線をやっている。
「おはよ」
 デスクのそばに行き声をかけると、そばに立つ私の姿をゆっくりと目で追った。
「……。あ、望月さんっ!」
 ゆっくりとした仕草で存在を認識した鈴木君は急にあたふたとしだし、慌てる必要などないのにガタガタと騒がしく椅子から立ちがった。
「おっ、おはようっ」
 眼鏡の奥の瞳が、一瞬で目覚めたように見開いている。
「朝、弱いんだね」
 笑みを浮かべると、恥ずかしそうに頬を歪めて笑った。
「お弁当、作ってきたの。はい」
 ランチボックスを鈴木君の胸元に差し出すと、さっきまでの寝ぼけ顔が嘘みたいにパーっと笑顔になった。
「ありがとう!」
 ものすごく高級なものでもプレゼントされたくらいの表情をされて照れ臭くなる。
 くしゃりと笑って大事そうにランチボックスを抱える姿は、可愛い子猫でも抱いているみたいだ。そんなにぎゅっとしたら、本物の猫なら嫌がって逃げられることだろう。
「あんまり期待しないでよ」
 大袈裟な喜びように、段々と中身に自信が持てなくなっていく。もう少し凝った中身にした方が良かっただろうか。とは言っても、何も思いつかない。スマホでレシピくらい検索すればよかったかな。子供相手じゃないからキャラ弁とまではいかなくても、もう少しやりようはあったかも……。
 凝っているとは言い難い中身を思えば、目の前にある満面の笑みに顔が引き攣ってしまいそうだ。これ以上自信を失う前に退散しよう。っと、その前に――――。
「お昼さ。よかったら、近くの公園に行かない? 休憩室だと洸太が来たら、また煩いだろうし」
 洸太の悪行を思い出し、渋顔を作って提案すると鈴木君が笑顔を浮かべる。
 ああ、やっぱりアニメの中に出て来そうな笑みだ。黒縁眼鏡のせいかな? この笑顔、悪くない。いや、寧ろもっと見たいかも。
 癖になりそうなアニメ笑顔から一旦離れて、眠そうだった鈴木君と自分の為に休憩室でコーヒーを入れる。さっきよりも動きが良くなった鈴木君のデスクへコーヒーを持っていくと、また驚いた顔と満面の笑みを向けられて、やっぱり癖になりそうだ。
 キャラクターにエサをあげて育てていくゲームに似ている。なんていうのは、かなり失礼だよね。けど、あの笑顔を見る為に色々やるのはいいかもしれない。気が付けば、自然と気持ちが上向きになっていくのを感じていた。
 今までは社内で言葉を交わす相手など、仕事上の人間関係だけだった。それ以外で話すのは洸太一人だったから、人の笑顔がこんなにも自分の中を明るくしてくれるなんて忘れていた。
 洸太は大人を気取っているのかあまりバカみたいに笑ったりしないから、余計に鈴木君の笑顔が眩しく見えるのかもしれない。

 お昼時の公園には、近くの会社からもサラリーマンやOLが休憩に来ていた。造られた大きな噴水に向かって円を描いて幅広の階段が下っている。ベンチに空きを見つけられなかった私たちは、その階段に腰掛けた。
 来る途中で買ったペットボトルのあったかいお茶のキャップを開けて、ひとまず喉に流し込む。お天気が良くて、太陽が眩しい。雲は少なく、青い空が都会の狭い空を覆っていた。
「まだ結構寒いけど、これだけ晴れてると外で食べるのもいいね」
 笑みを向ける鈴木君はランチボックスを保温バッグから取り出すと、ちょっと驚いたようにして私を見た。
「鈴木君の方が似合うと思って」
 クスクスと笑う私に「ええ〜」なんて苦笑いだ。
 鈴木君のランチボックスは、ゲームセンターでゲットしたあのふてぶてしい猫キャラにしていた。私のは、以前使っていた和柄の物を引っ張りだして詰め込んだ。
 キャラクターのランチボックスを手に持ち食べる姿は、やっぱり様になっている。このままアニメの世界へ飛び込めるんじゃないだろうか。あ、実写版に出演して欲しいかも。間違いなく溶け込めるはず。
 想像するだけで、どんどん楽しくなっていく。
「また変な想像してるでしょ」
 敢えて不満そうな表情をする鈴木君だけれど、彼の目も笑っていて楽しそうだ。弁当を黙々と食べながら、照り焼きチキンを摘まんだ鈴木君が私を見た。
「照り焼きチキンて、ハンバーガーの中に入ってるだけだと思ってた」
 真顔でそんなことを言うから目が点になる。
「家で食卓に出てこなかった?」
「ん〜、記憶にないな。基本、魚が多かったし」
「へぇ〜」
 魚がよく出る食卓って稀な気がする。おじいちゃんやおばあちゃんと暮らしていたのだろうか。それとも、肉類が苦手な家族がいたとか?
 鈴木君は、苦手じゃないよね? この前牛丼食べてたし、大丈夫だよね。
 好き嫌いくらい訊いてから作るべきだっただろうかと、今更ながらに思った。
「照り焼き弁当って、コンビニにあるよね」
 チルドの棚に並ぶ弁当を想像する。
「うん。見かけるけど、今まで口にしたことのないものになかなか手が出なくて」
「でも、牛丼は食べてたじゃん」
「あれは学生の頃、俊に教えて貰ったから」
「俊君の影響は、絶大ですね」
 からかい口調で言うと「確かに」なんて笑っている。他人事みたいな態度にこっちが笑ってしまう。
 弁当を食べ終わり、陽の光を浴びながら冷気にすっかり冷めてしまったお茶を口にした。
「流石に寒いね」
 冷えたお茶を掲げると、鈴木君が立ち上がり近くのコーヒーチェーン店に行こうと促す。
 空になったランチボックスを片手に、公園を出てすぐのところにあるカフェに入った。席を選んで荷物で場所を確保してから、カウンターに行ってコーヒーを二つ頼んだ。
「ホットチョコじゃなくていいの?」
 財布を取り出していると、鈴木君から訊かれた。
「あれは、休日用なの」
 応える私を見て、よくわからないのか僅かに首をかしげている。
 コーヒーを手にテーブルに着いた。向かい合わせで温かなコーヒーを飲めば、自然と息が漏れてホッとした。
「いくら晴れてても、さすがに外はまだ寒かったね。ゴメン」
 窓越しから冬枯れの外へ視線をやる。歩く人たちは、まだしっかりとコートを着込んでいる。いくら風もなく晴れ渡っているとはいえ、外でのランチは少し無謀だったようだ。
「外でのランチ楽しかったよ」
 視線を目の前に座る鈴木君へ戻すといい笑顔をしていた。
「いつも室内だから、公園で食べるって新鮮だった。しかも、猫の弁当箱だし」
 わざとらしく、鈴木君は皮肉って笑う。
「そこ、美味しいお弁当って言ってね」
 意地悪に返すと、コクコクと大きく頷いている。ホント、面白いよね。鈴木君て。
 動きがアニメ的なのかな?
 この黒縁眼鏡をシャープな感じに変えたら、違うキャラに変身できそうだよね。知的な感じになったりするのだろうか。今度、眼鏡の試着に無理やり連れて行っていろいろ試してみたいな。
「あんまりじっと見られると、その……、照れるというか……」
 鈴木君の顔をまじまじと見ていたら、動揺するように彼の目が泳ぎだした。挙動不審だ。
「ゴメン、ゴメン。なんか、見てて飽きない」
 面白いおもちゃでも目の前にあるみたいな言い方になってしまった。
「洸太がこないと思うと、安心してご飯を食べられるよね」
 皮肉ると、悪いなという思いでもあるのか鈴木君は苦笑いだ。
 そこで、昨日のことを再び謝りつつ休暇のことを話した。
「昨日は、お弁当。ごめんね」
「いや、もうそれはいいから。寧ろ、感謝したいくらいだから。ご馳走様でした」
 頭を下げた後に「とっても美味しいお弁当でした」とあえて口にして笑っている。
 その笑顔に一息ついてから、総務で調べたことを鈴木君に話した。
「昨日、鈴木君が話してくれたこと、……確認しに行って来たの」
「確認?」
 鈴木君が教えてくれた、記憶にない休暇を総務で訊ねてきたこと。そのことを洸太に話したら、何か私に言えなかったことがありそうだということ。週末に時間を作るように言われたことを訥々と話していった。
 話しを一切邪魔することなく、鈴木君は時々頷いて黙って聞いてくれた。
「自分のことだから、知りたいの」
「うん……」
「私。何かとんでもないことを忘れている気がして、考えると泣きそうになるの。考えたってわからないのに、どうしてか泣きたくなるんだ……」
 こんな風に話している今だって喉の奥が熱くて、必死に感情を殺さないと泣き出してしまいそうだった。
 大きく息を吸い吐き出して、気持ちを落ち着かせようと冷めてきたコーヒーを喉へと流し込む。苦味とまろやかさが喉を伝い、体の内部に沁み渡る。
「せっかくのランチなのに、……ゴメン」
 湿っぽい空気にさせてしまったことを謝ると、鈴木君がゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫だから」
 何も気にする必要はないと表情が語っている。
「僕はいつでも聞くよ。望月さんの気持ちが晴れるまで、何度でも僕は聞く」
 アニメのようなキャラを引っ込めた鈴木君の言葉と表情はとても頼り甲斐があって、ここが昼間のコーヒーチェーン店じゃなかったら、しがみついて泣き出してしまいたいくらい安心できる相手に思えた。