週の中弛みではないけれど、抱えている仕事をしながらも瞼は時折重力に逆らえなくて眠りに誘われる。襲い来る睡魔になんとか抗い、ランチタイムまでのあと数十分に気合いを入れた。何を食べようかと考えれば、少しは眠気もおさまる気がした。
洸太は相変わらず忙しそうで、仕事中はそれほど絡んでくることがない。颯爽とデスク脇を通り過ぎて、来客と一緒に会議室へと足を向けている。背中を目で追っている時に、総務の女子が視界に入った。何かしらの書類を届けにでも来ているのだろう。その姿を視界の端にとらえていると突然の衝動にかられた。
そうだ。あの頃の記録を見せてもらえないだろうか。見せて貰えないまでも、本当に私が長期の休暇をとっていたのかどうかを教えてもらいたい。
ランチに何を食べるかよりも、その時間を利用して鈴木君の話していた真相を調べることにした。
調べようと思ってからは、ランチになるまでの時間がとてももどかしく過ぎていった。何度も腕時計を確認しては、あと少しと落ち着きなく仕事をする。
漸くランチタイムになり、すぐに席を立った。フロアを足早に出て、総務のある階を目指す。
ランチタイムでエレベーター前に並ぶたくさん社員には目もくれず、廊下を行き真っ直ぐ階段へ向かった。
重い非常ドアを開けて、ヒンヤリとした無機質な空間を階下へと駆け降りる。
階段を下りた先で、再び非常ドアを抜けて総務のあるフロアへ急いだ。ランチ時刻でも、数名残っていた総務の人に声をかけた。以前の休暇期間について訊ねると、僅かに顔を顰めたもののすぐに調べてくれた。
「確かにお休みされていますよ。冬季休暇が明けて、一週間ほど経ってからですね。期間は、十日間」
「十日って、一週間以上も……」
教えられた事実に目が見開く。
鈴木君が嘘を言っていないとは思っていたけれど、自分の中にない記憶にはここに来るまでまだ疑いを持っていた。けれど、見せられたデータを確認してしまえば間違い無いと思うしかない。
調べてくれた総務課の人へ、ゆるゆると頭を下げてフロアを出る。
一週間以上も、一体どうして? 私に何があったの? なにが……。
再び掻き立てられていく不安に食欲がなくなっていく。
フラフラと自席へ舞い戻り、ストンッと椅子に座ってしまえばもうなにもする気にはなれなかった。魂が抜けたように焦点が定まらないまま座り込んでいると、ランチで人の少なくなったフロアに足音がした。
「飯、行かないのか?」
声をかけて来たのは、さっきまで忙しそうに来客の対応をしていた洸太だった。
ゆっくりと洸太へ視線をやれば、いつもと違う私の雰囲気を感じ取り、皮肉な憎まれ口を叩くこともなく右手を差し出してきた。
差し出された右手の意味もわからず同じように手を出すと、しっかりと握り椅子から体を持ち上げられる。
「カツ丼でも食うか。こういう時は、パワーのつくもんを食ったほうがいい」
こういう時って、……どんな時なのだろう。
疑問に思っても、口にすることができず。洸太に手を引かれ、そのまま会社をあとにした。
洸太は会社の人たちが行きそうにない、離れた場所にある京うどんの店に連れて行ってくれた。
「カツ丼もいいけど、今日は消化にいいものだな」
普段口は悪くても、洸太の気遣いレベルは高い。椅子に座ると、迷う事なく温かなうどんを二つ注文して、自分にはかやくご飯もつけた。
「スミレもいるか?」
訊ねられたけれど首を振った。
お冷の代わりに温かな焙じ茶が置かれて、湯のみから上がる湯気を眺めていたら程なくしてテーブルに届いたうどんからも湯気と美味しそうな出汁の香りがした。出汁の色が薄いうどんには、生麩もトッピングされていて食べると体に優しい味がした。
食事の間、洸太は何も話さなかった。私の様子がおかしい事を分かっていても、何一つ訊ねてはこない。食事時に会話がないのはいつものことだけれど、沈黙はいつものそれとは違って不自然だった。
店内には、見知った顔は誰一人おらず。うちの社員は多分一人もいないように思い、うどんを食べていた割り箸を静かに置いてから目の前の洸太を見た。
「あのね、……洸太」
口を開くと同時にお店の人が来て、湯飲みにお茶を足していった。焙じ茶の香ばしい香りが再び鼻腔をくすぐる。満たされた湯飲みを手にして、入れてもらった熱い焙じ茶をまた啜った。
静かに黙って私の様子を窺っていた洸太には、いつもの自信に満ちた目力がない。頼りがいのある瞳がないことで、言葉が萎んで消えそうになってしまう。けれど、ここで訊ねなければこの先も知らないままの自分を抱え、不安と共に過ごしていかなくてはならない。
焙じ茶から上がる湯気を少しだけ眺めてから、徐に口を開いた。
「洸太、私ね。入社した年明けに、一週間以上も休んでたんだって。病気でもして、入院してたっけ?」
語尾を少しだけ上げて、まるで他人事みたいな言い方をしたのは不安だったからだ。少し声が震えて、未だに信じきれていない感情が不安を煽り、可笑しくもないのに片方の口角が持ち上がる。洸太は相変わらず黙ったままだけれど、何かを汲み取ろうと頭を悩ませているように見えた。
「洸太」
答えが欲しくて名前を呼ぶと、洸太は俯き、右手を固く握り額にコツンと当てて何かを堪えるようなしぐさをした。
困らせているのだろう。この質問は洸太にとって、何か辛く苦しい問いになっていることはわかる。それでも、知りたい。自分のことだから。記憶にないなんて、不安でたまらない。
必死に何かを考えているのか、洸太の顔はなかなか上がらない。
「昨日、鈴木君にね。聞いたの」
ドタキャンした理由が分かったからか、洸太が顔を上げた。合った視線に、どきりとした。洸太の瞳は、今にも泣きだしそうだった。苦しそうに唇を歪めてから、右手が私へと伸びてきた。
伸びた手は優しく頭に触れ、唇は音もなく何かを言っている。洸太がなんて言っているのか少しも分からなくて、抱える不安は益々膨らんでいった。
「こうた……」
奏太がいなくなると聞いた時の事を思い出した。何も知らされていなかった私は、普段は喧嘩するなんて事もなかったのに、いつ戻るかもわからないと笑って話す奏太に怒りをぶつけた。今まで何も話してくれなかった事。一人で全て決めてしまっていた事。私の存在意義がまるでない気がして、必要とされていなかったことに愕然として、奏太の胸を何度も強く叩いた。
同じように、洸太も感じていたのだろう。兄という立場にもかかわらず、奏太は何一つ頼ろうとしなかった。どんな時も一緒に考え乗り越えてきたつもりでいたのに、ここにきて奏太は誰一人頼ることなく未来を決断した。洸太の中にあった兄としての自信を、奏太はこのときあっけなく砕いてしまったんだ。
あの時、洸太はとても悲しい顔をしていた。泣くのを我慢する幼い子供のように、唇を噛み締め拳を握っていた。おじさんやおばさんも何も知らなかったみたいで、奏太の話に芹沢家は相当揉めた。それでも意思を曲げず、奏太はあの夏旅立ってしまったんだ。
あんなに頑固な子だったかしら。そう言って、泣き笑いをしたおばさん。好きにすればいいと匙を投げながらも、旅立つ背中を心配そうに見送ったおじさん。
洸太と力強く握手を交わし「行ってくるよ」と優しく微笑みながら私をその大好きな胸に抱きしめてくれた奏太。
あの温もりを糧に今まで歩いて来たけれど、目の前の洸太を見てしまえば、あの頃の苦しさが蘇ってくるようだった。
「週末、……時間あるか?」
眉根を下げた洸太が再び俯き、テーブルに向かってこぼした。
「うん」
小さな声で返すと、洸太が静かに息を吐き出したのがわかった。
洸太は相変わらず忙しそうで、仕事中はそれほど絡んでくることがない。颯爽とデスク脇を通り過ぎて、来客と一緒に会議室へと足を向けている。背中を目で追っている時に、総務の女子が視界に入った。何かしらの書類を届けにでも来ているのだろう。その姿を視界の端にとらえていると突然の衝動にかられた。
そうだ。あの頃の記録を見せてもらえないだろうか。見せて貰えないまでも、本当に私が長期の休暇をとっていたのかどうかを教えてもらいたい。
ランチに何を食べるかよりも、その時間を利用して鈴木君の話していた真相を調べることにした。
調べようと思ってからは、ランチになるまでの時間がとてももどかしく過ぎていった。何度も腕時計を確認しては、あと少しと落ち着きなく仕事をする。
漸くランチタイムになり、すぐに席を立った。フロアを足早に出て、総務のある階を目指す。
ランチタイムでエレベーター前に並ぶたくさん社員には目もくれず、廊下を行き真っ直ぐ階段へ向かった。
重い非常ドアを開けて、ヒンヤリとした無機質な空間を階下へと駆け降りる。
階段を下りた先で、再び非常ドアを抜けて総務のあるフロアへ急いだ。ランチ時刻でも、数名残っていた総務の人に声をかけた。以前の休暇期間について訊ねると、僅かに顔を顰めたもののすぐに調べてくれた。
「確かにお休みされていますよ。冬季休暇が明けて、一週間ほど経ってからですね。期間は、十日間」
「十日って、一週間以上も……」
教えられた事実に目が見開く。
鈴木君が嘘を言っていないとは思っていたけれど、自分の中にない記憶にはここに来るまでまだ疑いを持っていた。けれど、見せられたデータを確認してしまえば間違い無いと思うしかない。
調べてくれた総務課の人へ、ゆるゆると頭を下げてフロアを出る。
一週間以上も、一体どうして? 私に何があったの? なにが……。
再び掻き立てられていく不安に食欲がなくなっていく。
フラフラと自席へ舞い戻り、ストンッと椅子に座ってしまえばもうなにもする気にはなれなかった。魂が抜けたように焦点が定まらないまま座り込んでいると、ランチで人の少なくなったフロアに足音がした。
「飯、行かないのか?」
声をかけて来たのは、さっきまで忙しそうに来客の対応をしていた洸太だった。
ゆっくりと洸太へ視線をやれば、いつもと違う私の雰囲気を感じ取り、皮肉な憎まれ口を叩くこともなく右手を差し出してきた。
差し出された右手の意味もわからず同じように手を出すと、しっかりと握り椅子から体を持ち上げられる。
「カツ丼でも食うか。こういう時は、パワーのつくもんを食ったほうがいい」
こういう時って、……どんな時なのだろう。
疑問に思っても、口にすることができず。洸太に手を引かれ、そのまま会社をあとにした。
洸太は会社の人たちが行きそうにない、離れた場所にある京うどんの店に連れて行ってくれた。
「カツ丼もいいけど、今日は消化にいいものだな」
普段口は悪くても、洸太の気遣いレベルは高い。椅子に座ると、迷う事なく温かなうどんを二つ注文して、自分にはかやくご飯もつけた。
「スミレもいるか?」
訊ねられたけれど首を振った。
お冷の代わりに温かな焙じ茶が置かれて、湯のみから上がる湯気を眺めていたら程なくしてテーブルに届いたうどんからも湯気と美味しそうな出汁の香りがした。出汁の色が薄いうどんには、生麩もトッピングされていて食べると体に優しい味がした。
食事の間、洸太は何も話さなかった。私の様子がおかしい事を分かっていても、何一つ訊ねてはこない。食事時に会話がないのはいつものことだけれど、沈黙はいつものそれとは違って不自然だった。
店内には、見知った顔は誰一人おらず。うちの社員は多分一人もいないように思い、うどんを食べていた割り箸を静かに置いてから目の前の洸太を見た。
「あのね、……洸太」
口を開くと同時にお店の人が来て、湯飲みにお茶を足していった。焙じ茶の香ばしい香りが再び鼻腔をくすぐる。満たされた湯飲みを手にして、入れてもらった熱い焙じ茶をまた啜った。
静かに黙って私の様子を窺っていた洸太には、いつもの自信に満ちた目力がない。頼りがいのある瞳がないことで、言葉が萎んで消えそうになってしまう。けれど、ここで訊ねなければこの先も知らないままの自分を抱え、不安と共に過ごしていかなくてはならない。
焙じ茶から上がる湯気を少しだけ眺めてから、徐に口を開いた。
「洸太、私ね。入社した年明けに、一週間以上も休んでたんだって。病気でもして、入院してたっけ?」
語尾を少しだけ上げて、まるで他人事みたいな言い方をしたのは不安だったからだ。少し声が震えて、未だに信じきれていない感情が不安を煽り、可笑しくもないのに片方の口角が持ち上がる。洸太は相変わらず黙ったままだけれど、何かを汲み取ろうと頭を悩ませているように見えた。
「洸太」
答えが欲しくて名前を呼ぶと、洸太は俯き、右手を固く握り額にコツンと当てて何かを堪えるようなしぐさをした。
困らせているのだろう。この質問は洸太にとって、何か辛く苦しい問いになっていることはわかる。それでも、知りたい。自分のことだから。記憶にないなんて、不安でたまらない。
必死に何かを考えているのか、洸太の顔はなかなか上がらない。
「昨日、鈴木君にね。聞いたの」
ドタキャンした理由が分かったからか、洸太が顔を上げた。合った視線に、どきりとした。洸太の瞳は、今にも泣きだしそうだった。苦しそうに唇を歪めてから、右手が私へと伸びてきた。
伸びた手は優しく頭に触れ、唇は音もなく何かを言っている。洸太がなんて言っているのか少しも分からなくて、抱える不安は益々膨らんでいった。
「こうた……」
奏太がいなくなると聞いた時の事を思い出した。何も知らされていなかった私は、普段は喧嘩するなんて事もなかったのに、いつ戻るかもわからないと笑って話す奏太に怒りをぶつけた。今まで何も話してくれなかった事。一人で全て決めてしまっていた事。私の存在意義がまるでない気がして、必要とされていなかったことに愕然として、奏太の胸を何度も強く叩いた。
同じように、洸太も感じていたのだろう。兄という立場にもかかわらず、奏太は何一つ頼ろうとしなかった。どんな時も一緒に考え乗り越えてきたつもりでいたのに、ここにきて奏太は誰一人頼ることなく未来を決断した。洸太の中にあった兄としての自信を、奏太はこのときあっけなく砕いてしまったんだ。
あの時、洸太はとても悲しい顔をしていた。泣くのを我慢する幼い子供のように、唇を噛み締め拳を握っていた。おじさんやおばさんも何も知らなかったみたいで、奏太の話に芹沢家は相当揉めた。それでも意思を曲げず、奏太はあの夏旅立ってしまったんだ。
あんなに頑固な子だったかしら。そう言って、泣き笑いをしたおばさん。好きにすればいいと匙を投げながらも、旅立つ背中を心配そうに見送ったおじさん。
洸太と力強く握手を交わし「行ってくるよ」と優しく微笑みながら私をその大好きな胸に抱きしめてくれた奏太。
あの温もりを糧に今まで歩いて来たけれど、目の前の洸太を見てしまえば、あの頃の苦しさが蘇ってくるようだった。
「週末、……時間あるか?」
眉根を下げた洸太が再び俯き、テーブルに向かってこぼした。
「うん」
小さな声で返すと、洸太が静かに息を吐き出したのがわかった。