夜の風は切るように冷たくて、洸太が買ってくれたマフラーを巻いていても凍えそうなほどだった。春は、まだまだ遠い。
身を縮めポケットに手をねじ込み、肩からかけたバッグを腕で抱えるようにしてうつむき歩く。コツコツとヒールがコンクリートにぶつかる音は歪で、軽快さはかけらもない。
店を出た後、少し歩きたいからと背を向ける私を、鈴木君はやたらと心配して一緒に行くと言っていたけれど断った。今は、一人になりたい。
分からないことが不安だった。こんなに不安になるのは、“自分のことなのに”という前置きがあるからだろう。
他人のことを知らないのは当然のことで、いくら洸太が幼馴染だからといって、何もかもを知っているわけではないし。血の繋がった両親のことだって然りだ。知らないことがあるからやっていけたりもする。
けれど、自身のこととなれば話は別だ。
一日中自分自身と付き合っているのに、知らないことがあるなんてどう考えたっておかしい。酔って記憶が飛んだなんていうレベルじゃない。長期の休暇を本当にとっているのだとしたら、その記憶が一日たりともないなんておかしすぎる。
鈍く鳴らしていたヒールの速度が、少しずつ速まる。何に急かされているのか。わけのわからない何かから逃げるようにして、足早に駅を目指した。
煌々と明かりの灯る駅前は、電車に乗る人の数も減っていて賑わいは薄い。改札機に向かって、乱暴に定期を当てて潜り抜けた。まるで八つ当たりだ。
ホームに出れば、それほど待つことなく電車が来た。平日真っ只中のこの時間では利用者も少なく、乗ってすぐの場所に座ることができた。
バッグを抱え、車内の暖かさに身体の力が少しずつ抜けていく。
暖かさに気持ちがほっとし始めると、鈴木君が話してくれたことと、自らの記憶を照らし合わせずにはいられなかった。
夏に奏太が旅立ち、落ち込んでいた記憶はある。洸太が元気付けてくれていたのも憶えている。私達は、三人でいることで整っていた形が崩れることが怖くて、二人では形作れないライン上でしばらく怯えるように寂しさに圧迫され続けていた。
けれど、それじゃいけないと。いつ奏太が戻って来てもいいように、「自分たちが変わらずいることが大事なんだ」って、洸太は何度も話してくれていた。
その言葉に支えられるように、奏太がいなくなった後も変わらない日常を過ごそうとしてきたんだ。
そうして少し時間はかかったけれど、私たちはいつもの日常を取り戻した。ほんの少し以前よりも笑えなくなっているのはわかっているけれど、それでも今の今まで変わらず、ずっとそうしてきたはずだったのに、なぜ?
鈴木君は、冬季休暇が開けた頃、私が酷く消耗していたと言う。駆け寄ってしまいそうなほど、沈んでいたなんて話す。まるで私が病気にでもなって、長期休暇を取ったかのような言い方だった。
気がつけば最寄駅のアナウンスが流れて、ドアが開いた。慌ててホームに降り立つと、また寒さが身を包み、ギュと身体に力が入った。
身を縮めて改札を出れば、シンとした夜空には雲が一つもなくて、凛とした月が私を見下ろしていた。
その姿から視線を逸らし、ずっと切っていたスマホの電源を入れれば、洸太からたくさんのメッセージや留守電が入っていた。
かなりご立腹みたいだ。当然か。
自身の知らない自身のことで不安と混乱に心がかき乱されていたのに、スマホに残されていた洸太からのメッセージは、怒り具合がいつもと何一つ変わらなくて安堵した。心を揺るがすようものなど何ひとつない、とばかりに残されている数々のメッセージはいつも通りだった。
「もしもし、洸太」
終電もしばらくすればなくなるような時間に折り返すと、まず呆れたため息をつかれた。
「ドタキャン女。こんな時間までスマホの電源まで切って、何してたんだよ」
子供みたいに不貞腐れた声が可笑しくて、なんだか笑えてくる。
「笑ってるし」
「洸太だなって、思って」
言いながらまた笑いを漏らすと、「意味わかんねーし」と更に呆れられてしまう。
「あのね、洸太」
名前を呼んで間を置くと勘がよすぎるのか、いつもと違う雰囲気をすぐさま察知したかのように洸太が先に言葉紡いだ。
「明日も仕事だぞ、さっさと寝やがれ、このドタキャン女」
わざとふざけ捻くれて、声高に捲したてる言い方は、こちらの訊ねるチャンスを削る。
洸太はきっと、私が抱える不安の答えを知っている。私の中にない記憶を、洸太は知っている。
不意に、そんな気がした。
笑いながら「また明日な」と通話が切れてしまえば、その何かを訊ねるチャンスは切断されてしまい。今日は、何も考えずに寝るべきなのだろうと自分に言い聞かせた。
昨夜、早く寝よう。そう思うも、不安に意識は冴え渡り。冷蔵庫に蓄えていた缶ビールを何本も消費した。いつ眠りについたのか、記憶はない。テーブルの上に転がるたくさんの空き缶と、その割にはしっかりとベッドの中にいた自分に苦笑いが漏れた。
我ながら体中からアルコールが強く臭うなと、しっかり歯磨きをしてマスクを装着した。そうやってから、いつもは作るお弁当もサボり家を出た。
外は、アルコールに浸された体内には少し厳しいくらいの眩しい青で。冬の澄んだ空気は気持ちいいけれど、寒さもひとしおだった。
寒さから逃げるように電車に乗り込めば、いつもの日常がやってくる。バッグの他に持つものがない手持ち無沙汰に、やっぱりお弁当は作ってくるべきだったと思ってから、「あっ」と小さく声が漏れた。
鈴木君にお弁当を作ると約束していたのを、すっかり忘れていた。自分のだけならまだしも、作ってくるなどと宣言してしまったのだから、僅かながらでも鈴木君は期待はしているだろう。
出社したらすぐに謝ろう。
流れる景色をぼんやりと見つめながら、久しぶりに外で何を食べようかとそんなことも思っていた。
フロアに入ってすぐ、バッグを机に放置して鈴木君の姿を探したけれど見当たらない。鈴木君の自席にビジネスバッグが置かれているのを見れば、出社してはいるみたいだ。
休憩室だろうか。コーヒーでも淹れているのかも知れない。
そう思ってフロアを出たところで洸太に出くわした。
「なんだよ、マスクなんて。風邪か?」
本気でそう思ってはいないような皮肉を蓄えた口ぶりは、私のことをよくわかっている顔だ。
「ブレスキャンディ要るか?」
さっと胸ポケットから取り出し、シャカシャカと小さなケースを振る。用意周到。
「ありがと」
掌を出すと、黄色いキャンディがコロリと一粒出てきた。
マスクを引っ張って口に放り込むと、洸太が片方の口角を上げている。かなり臭っているのかも知れない。
肩を竦めてから、休憩室へ向かおうとすると、引き止めるように手を取られた。
「昨日――――」
洸太がなにかを言おうとしたところで、フロアの奥から部長の声がした。出社早々、洸太に何か話しがあるようだ。できる男は忙しい。
首を向けた洸太はひとまず嫌な顔はしないまでも、「タイミングわる」とボソリと小さくこぼすから笑ってしまう。
「みんなの前でいい子ちゃんは大変だね」
皮肉ると肩を竦め、また後でなと肩に手をポンと置くと、部長の方へ行ってしまった。
洸太とわかれ鈴木君の姿を探し、今度こそ休憩室へと向かった。
読み通り、鈴木君はまだ覚め切らぬぼんやりとした動きと表情で、カップに落ちてくる黒い液体を眺めていた。
「おはよう」
驚かせるつもりは微塵もなかったのだけれど、掛けた声に鈴木君は肩をビクリとさせてから振り返る。
「おはよう……望月さん」
突然掛けた声のせいなのか、昨日の話のせいなのか。鈴木君の態度はどこか戸惑い気味だ。
「あのね――――」
お弁当を作ってくる約束を守れなかった。と告げようとしたら、言葉尻にかぶせるように鈴木君が話し出した。
「昨日は、なんかごめんっ。僕、なんだか余計なことを言ってしまったみたいで。今更何を言ってもしかたないだろうけど……えっと……」
おどおどというように、自分のおかしたことがとてもひどい失態だったと反省したかのように、言葉を上手く繋げないでいる。
確かに自分の知らない自分の話には衝撃を受けたけれど、鈴木君が申し訳なく思うことはない。こんな事、昨日聞かなかったとしてもいずれどこかで誰かに聞かされていたかもしれないし。第一、私から知りたいと申し出たのだから、鈴木君が辛そうにする必要はない。
「気にしないで。それより、私の方が謝らないと」
何を謝ることなどあるのか、というように鈴木君はキョトンとした顔をするから、やっぱりアニメみたいな顔つきだと笑ってしまった。
眼鏡の奥の驚く瞳にクスリと笑うと、どうして笑われているのかわからないながらも目が少し垂れた。
それでいいよ。君が私のことで、つらそうな顔をすることなどないのだから。
「お弁当。作るって約束してたのに、忘れちゃったんだ。ごめん。あ、でも、自分の分も作ってなくて、だからわざと鈴木君の分だけ作らなかったわけじゃないからね」
早口で告げると、今度は鈴木君が可笑しそうに笑い出した。
「わざとだったら凹みまくりだと思う」
そう言ってまた笑った。
「あんなにたいそうな口をきいたのに、サボっちゃって。明日こそ作るから」
「そんな、無理にいいよ」
苦笑いで遠慮するから、ますます意地になった。
「絶対作るよ。ガサツそうに見えるかもしれないけど、意外とお弁当は得意なんだから」
「ガサツって」
クスリと笑ってから表情を改めた。
「お弁当が得意って、初めて聞いたかも。普通、“料理が得意”なんじゃない?」
笑いながら指摘されてしまえば、それもそうかとこっちまで笑えた。
「とにかく。たまには、誰かが作った物のありがたみや、美味しさを知った方がいいって」
私にしては珍しくお節介なことを言ってしまってから、不意に俊君の顔が浮かんだ。
「でも、手作りを食べてないわけじゃないか」
「え?」
「だってほら、俊君」
名前を出すと、「ああ、確かに」と鈴木君は僅かに納得した顔をする。
「けど、あそこは金をとるから。善意じゃない」
笑いながら言う鈴木君を見て、「確かに」と私も笑った。
昨夜聞いた事など、こうして笑っていれば大したことではないように思えた。彼の三日月を見てさえいれば、感じた不安も、意味のわからない涙も、大したことではないと思えたんだ。
身を縮めポケットに手をねじ込み、肩からかけたバッグを腕で抱えるようにしてうつむき歩く。コツコツとヒールがコンクリートにぶつかる音は歪で、軽快さはかけらもない。
店を出た後、少し歩きたいからと背を向ける私を、鈴木君はやたらと心配して一緒に行くと言っていたけれど断った。今は、一人になりたい。
分からないことが不安だった。こんなに不安になるのは、“自分のことなのに”という前置きがあるからだろう。
他人のことを知らないのは当然のことで、いくら洸太が幼馴染だからといって、何もかもを知っているわけではないし。血の繋がった両親のことだって然りだ。知らないことがあるからやっていけたりもする。
けれど、自身のこととなれば話は別だ。
一日中自分自身と付き合っているのに、知らないことがあるなんてどう考えたっておかしい。酔って記憶が飛んだなんていうレベルじゃない。長期の休暇を本当にとっているのだとしたら、その記憶が一日たりともないなんておかしすぎる。
鈍く鳴らしていたヒールの速度が、少しずつ速まる。何に急かされているのか。わけのわからない何かから逃げるようにして、足早に駅を目指した。
煌々と明かりの灯る駅前は、電車に乗る人の数も減っていて賑わいは薄い。改札機に向かって、乱暴に定期を当てて潜り抜けた。まるで八つ当たりだ。
ホームに出れば、それほど待つことなく電車が来た。平日真っ只中のこの時間では利用者も少なく、乗ってすぐの場所に座ることができた。
バッグを抱え、車内の暖かさに身体の力が少しずつ抜けていく。
暖かさに気持ちがほっとし始めると、鈴木君が話してくれたことと、自らの記憶を照らし合わせずにはいられなかった。
夏に奏太が旅立ち、落ち込んでいた記憶はある。洸太が元気付けてくれていたのも憶えている。私達は、三人でいることで整っていた形が崩れることが怖くて、二人では形作れないライン上でしばらく怯えるように寂しさに圧迫され続けていた。
けれど、それじゃいけないと。いつ奏太が戻って来てもいいように、「自分たちが変わらずいることが大事なんだ」って、洸太は何度も話してくれていた。
その言葉に支えられるように、奏太がいなくなった後も変わらない日常を過ごそうとしてきたんだ。
そうして少し時間はかかったけれど、私たちはいつもの日常を取り戻した。ほんの少し以前よりも笑えなくなっているのはわかっているけれど、それでも今の今まで変わらず、ずっとそうしてきたはずだったのに、なぜ?
鈴木君は、冬季休暇が開けた頃、私が酷く消耗していたと言う。駆け寄ってしまいそうなほど、沈んでいたなんて話す。まるで私が病気にでもなって、長期休暇を取ったかのような言い方だった。
気がつけば最寄駅のアナウンスが流れて、ドアが開いた。慌ててホームに降り立つと、また寒さが身を包み、ギュと身体に力が入った。
身を縮めて改札を出れば、シンとした夜空には雲が一つもなくて、凛とした月が私を見下ろしていた。
その姿から視線を逸らし、ずっと切っていたスマホの電源を入れれば、洸太からたくさんのメッセージや留守電が入っていた。
かなりご立腹みたいだ。当然か。
自身の知らない自身のことで不安と混乱に心がかき乱されていたのに、スマホに残されていた洸太からのメッセージは、怒り具合がいつもと何一つ変わらなくて安堵した。心を揺るがすようものなど何ひとつない、とばかりに残されている数々のメッセージはいつも通りだった。
「もしもし、洸太」
終電もしばらくすればなくなるような時間に折り返すと、まず呆れたため息をつかれた。
「ドタキャン女。こんな時間までスマホの電源まで切って、何してたんだよ」
子供みたいに不貞腐れた声が可笑しくて、なんだか笑えてくる。
「笑ってるし」
「洸太だなって、思って」
言いながらまた笑いを漏らすと、「意味わかんねーし」と更に呆れられてしまう。
「あのね、洸太」
名前を呼んで間を置くと勘がよすぎるのか、いつもと違う雰囲気をすぐさま察知したかのように洸太が先に言葉紡いだ。
「明日も仕事だぞ、さっさと寝やがれ、このドタキャン女」
わざとふざけ捻くれて、声高に捲したてる言い方は、こちらの訊ねるチャンスを削る。
洸太はきっと、私が抱える不安の答えを知っている。私の中にない記憶を、洸太は知っている。
不意に、そんな気がした。
笑いながら「また明日な」と通話が切れてしまえば、その何かを訊ねるチャンスは切断されてしまい。今日は、何も考えずに寝るべきなのだろうと自分に言い聞かせた。
昨夜、早く寝よう。そう思うも、不安に意識は冴え渡り。冷蔵庫に蓄えていた缶ビールを何本も消費した。いつ眠りについたのか、記憶はない。テーブルの上に転がるたくさんの空き缶と、その割にはしっかりとベッドの中にいた自分に苦笑いが漏れた。
我ながら体中からアルコールが強く臭うなと、しっかり歯磨きをしてマスクを装着した。そうやってから、いつもは作るお弁当もサボり家を出た。
外は、アルコールに浸された体内には少し厳しいくらいの眩しい青で。冬の澄んだ空気は気持ちいいけれど、寒さもひとしおだった。
寒さから逃げるように電車に乗り込めば、いつもの日常がやってくる。バッグの他に持つものがない手持ち無沙汰に、やっぱりお弁当は作ってくるべきだったと思ってから、「あっ」と小さく声が漏れた。
鈴木君にお弁当を作ると約束していたのを、すっかり忘れていた。自分のだけならまだしも、作ってくるなどと宣言してしまったのだから、僅かながらでも鈴木君は期待はしているだろう。
出社したらすぐに謝ろう。
流れる景色をぼんやりと見つめながら、久しぶりに外で何を食べようかとそんなことも思っていた。
フロアに入ってすぐ、バッグを机に放置して鈴木君の姿を探したけれど見当たらない。鈴木君の自席にビジネスバッグが置かれているのを見れば、出社してはいるみたいだ。
休憩室だろうか。コーヒーでも淹れているのかも知れない。
そう思ってフロアを出たところで洸太に出くわした。
「なんだよ、マスクなんて。風邪か?」
本気でそう思ってはいないような皮肉を蓄えた口ぶりは、私のことをよくわかっている顔だ。
「ブレスキャンディ要るか?」
さっと胸ポケットから取り出し、シャカシャカと小さなケースを振る。用意周到。
「ありがと」
掌を出すと、黄色いキャンディがコロリと一粒出てきた。
マスクを引っ張って口に放り込むと、洸太が片方の口角を上げている。かなり臭っているのかも知れない。
肩を竦めてから、休憩室へ向かおうとすると、引き止めるように手を取られた。
「昨日――――」
洸太がなにかを言おうとしたところで、フロアの奥から部長の声がした。出社早々、洸太に何か話しがあるようだ。できる男は忙しい。
首を向けた洸太はひとまず嫌な顔はしないまでも、「タイミングわる」とボソリと小さくこぼすから笑ってしまう。
「みんなの前でいい子ちゃんは大変だね」
皮肉ると肩を竦め、また後でなと肩に手をポンと置くと、部長の方へ行ってしまった。
洸太とわかれ鈴木君の姿を探し、今度こそ休憩室へと向かった。
読み通り、鈴木君はまだ覚め切らぬぼんやりとした動きと表情で、カップに落ちてくる黒い液体を眺めていた。
「おはよう」
驚かせるつもりは微塵もなかったのだけれど、掛けた声に鈴木君は肩をビクリとさせてから振り返る。
「おはよう……望月さん」
突然掛けた声のせいなのか、昨日の話のせいなのか。鈴木君の態度はどこか戸惑い気味だ。
「あのね――――」
お弁当を作ってくる約束を守れなかった。と告げようとしたら、言葉尻にかぶせるように鈴木君が話し出した。
「昨日は、なんかごめんっ。僕、なんだか余計なことを言ってしまったみたいで。今更何を言ってもしかたないだろうけど……えっと……」
おどおどというように、自分のおかしたことがとてもひどい失態だったと反省したかのように、言葉を上手く繋げないでいる。
確かに自分の知らない自分の話には衝撃を受けたけれど、鈴木君が申し訳なく思うことはない。こんな事、昨日聞かなかったとしてもいずれどこかで誰かに聞かされていたかもしれないし。第一、私から知りたいと申し出たのだから、鈴木君が辛そうにする必要はない。
「気にしないで。それより、私の方が謝らないと」
何を謝ることなどあるのか、というように鈴木君はキョトンとした顔をするから、やっぱりアニメみたいな顔つきだと笑ってしまった。
眼鏡の奥の驚く瞳にクスリと笑うと、どうして笑われているのかわからないながらも目が少し垂れた。
それでいいよ。君が私のことで、つらそうな顔をすることなどないのだから。
「お弁当。作るって約束してたのに、忘れちゃったんだ。ごめん。あ、でも、自分の分も作ってなくて、だからわざと鈴木君の分だけ作らなかったわけじゃないからね」
早口で告げると、今度は鈴木君が可笑しそうに笑い出した。
「わざとだったら凹みまくりだと思う」
そう言ってまた笑った。
「あんなにたいそうな口をきいたのに、サボっちゃって。明日こそ作るから」
「そんな、無理にいいよ」
苦笑いで遠慮するから、ますます意地になった。
「絶対作るよ。ガサツそうに見えるかもしれないけど、意外とお弁当は得意なんだから」
「ガサツって」
クスリと笑ってから表情を改めた。
「お弁当が得意って、初めて聞いたかも。普通、“料理が得意”なんじゃない?」
笑いながら指摘されてしまえば、それもそうかとこっちまで笑えた。
「とにかく。たまには、誰かが作った物のありがたみや、美味しさを知った方がいいって」
私にしては珍しくお節介なことを言ってしまってから、不意に俊君の顔が浮かんだ。
「でも、手作りを食べてないわけじゃないか」
「え?」
「だってほら、俊君」
名前を出すと、「ああ、確かに」と鈴木君は僅かに納得した顔をする。
「けど、あそこは金をとるから。善意じゃない」
笑いながら言う鈴木君を見て、「確かに」と私も笑った。
昨夜聞いた事など、こうして笑っていれば大したことではないように思えた。彼の三日月を見てさえいれば、感じた不安も、意味のわからない涙も、大したことではないと思えたんだ。