今日も滞りなく定時に上がれそうだ。窓の外はすっかり暗くなっていて、陽の長くなる季節を待ちわびた。午後に資料室から引っ張り出して来たファイルを五冊持って廊下を行くと、丁度フロアへ戻ろうとしていた洸太が数名の来客と横を通り過ぎていった。何か商談をしていたのだろう。廊下の突当たり手前にあるエレベーターまで送りに行く途中のようだ。
小さく会釈をして通り過ぎ、資料室のある一つ下の階へ階段で向かう。非常用の重いドアを開ければ、廊下とは言え社内とは雲泥の差のひんやりとした空気に身震いした。五冊のファイルを暖房器具さながらに抱えて体をぎゅっと縮める。カンカンとヒールを鳴らして階段を降りて行くと、スーツのポケットに収まっていたスマホが震えた。下りる足を止めて画面を見ると、さっきすれ違った洸太からの電話だった。
「もしもし」
通話に出ると「なんだよ、さっきの」と訳のわからないケンカを突然ふっかけられた。
「何怒ってんの?」
意味もわからない不機嫌につきあっていられないと、通話中のまま階段を下りて行けば冷えた空気の中で再びヒールの音が響いた。
「待ってろ」
「は?」
それだけ言うと、通話が切れた。
不機嫌だったかと思えば待ってろなんて、訳がわからないと首を傾げてからファイルを抱えなおした。洸太の言葉を無視して階段を下りて行き、再び重い非常ドアの前にたどり着いて開けると、目の前に洸太が居て驚きに息を飲み、抱えていたファイルが重ねた間から一冊抜け落ちた。
バサリと音を立てたファイルに「もうっ。驚かさないでよ」と眉間にしわを寄せしゃがんで拾おうとすると、横から攫うように洸太が拾い渡された。
「ほら」
「ありがと」
拾ってくれた洸太の顔は、電話口で聞いた声と比例して不機嫌そうだ。
「何怒ってんの」
同じセリフで問い返す。意味のわからないイラつきをぶつけられて、こっちの方がイラついてきた。洸太の横をすっと通り過ぎ、先にある資料室のドアの鍵穴にキーを差し込み開けた。
普段から常時人がいないここも、さっきの非常階段と同じようにひんやりとしている上に薄暗い。灯のスイッチに手をかけ点けると、カチカチと瞬いたあとに眩しく室内を照らした。少しばかり埃っぽい。年末に掃除をしなかったのだろうか。
目的の棚がある奥の方へ進むと、洸太もあとをついてきた。
「さっきの、あれ。なんだよ」
まただ。意味のわからない怒りをぶつけられて、こっちも睨みつけるように振り返る。
「さっきから、なんのこと言ってんの?」
不機嫌に返すと「鈴木のことだよ」とふてくされた声が返ってきた。
鈴木君がなんだと言うのか。もしかして、実は洸太も。ハッとして見ると、洸太は相変わらず不機嫌な顔つきのままだ。この洸太が男好きなんてあり得ないか。
鈴木君のように、ツーカーで突っ込みを返してもらえないことにも不満を覚える。
洸太は面白みに欠けるところがある。真面目で仕事ができて、同期や後輩にはそれなりに笑って会話をしているようだけれど、どこかつまらないのだ。何がどうっていうわけじゃないけれどつまらない。
奏太みたいに、いつも声を上げて笑っていないからだろうか。人の上げ足を取るみたいな突っ込みばかりで笑えない冗談が多い。奏太がいたころには、もう少し面白味のある男だった気がする。私たちは奏太がすべての中心で、彼がいない今の状況に足元ばかりを見ているのかもしれない。
今洸太をつまらないと感じているように、洸太もずっと私のことをつまらないと思い続けていたのだろうか。それが鈴木君というキャラの登場で、私だけが足元を見ることを少しずつやめていき、地面よりも上の世界に忘れていた笑顔を見つけ始めたのかもしれない。
「鈴木君がなんなの。ちゃんと説明してよ」
言葉の足りない洸太をムッとしたまま促すと、息を吐いたあとに口を開いた。
「なんで一緒に飯なんて食ってんだよ。あんなこと、今まで一度もなかっただろ」
呆れた。そんなことで怒ってるわけ?
「あのね。私だってたまには誰かとご飯くらい食べるけど。それに、そんなこといちいち洸太に断り入れなくちゃいけないの?」
ファイルを棚に戻し、右手を腰に当てて顎を突き出すように文句を返すと、洸太は未だ鋭い視線で不機嫌をあらわにしている。
「スミレには、俺……奏太がいるだろ」
どうしてここで奏太のことを持ち出すのか。今そばにいない、ましていつ戻ってくるかもわからない相手の名前を出されて私の不機嫌さが上回る。
「私だって、出来ることなら奏太と居たいよ。でも、それは叶わないでしょ。それとも、奏太を待っている間、私は他の誰かと話すのも、ランチをするのも駄目なの?」
勢いよく言い返すと、洸太がぐっと言葉を飲み込んだ。
「洸太は、奏太がいつ帰ってくるのか知ってるの? 知らないでしょ? 誰も奏太がいつ戻ってくるのか知らないし、こんなに長い間待ってても奏太は何も連絡してきてくれないんだよ。そんな中で、気を紛らわせるような何かに頼ることを、私はしちゃいけないの?」
静かな資料室で、言葉は止まらなかった。早く帰ってきてよ、と文句の一つもぶつけたい相手にはいまだに何も言えないままで、ずっと心の中に澱でもたまっていくように苦しいや辛いを蓄積してきた。今までそれを口にすることは憚られて、いつしかとても黒い不満の塊になっていた。それが今、勢いをつけて吐き出されていく。
就職できたと安心していたのに、突然旅に出ると言い張り日本を出てしまった奏太の行動には、おじさんとおばさんもとても傷ついていた。何も相談してくれなかったとに洸太も傷ついた。そんな人たちを前に、身内でもない私が何か言えるはずもないと、ずっと堪えていた感情が今爆発してしまった。
「洸太が気を遣ってくれることにはいつも感謝してるけど、このままじゃいけない気もするんだよ。奏太を黙ってただ待ち続けていたら、私の時間が止まったままになっちゃう。きっと奏太は広い世界を見て成長した姿で帰ってくる。そんな時に私が昔のままだと、がっかりさせちゃうでしょ。洸太だってそうだよ。帰ってきた奏太に負けないよう、あの頃にしがみつくのはそろそろやめた方がいいと思う。私にばかり構ってないで、自分のために動いたほうがいい。それに、鈴木君とのことは洸太には関係ないことでしょ」
勢いをつけて言い返すと、洸太は悲しげな瞳をした。
「急に……、そんなこと言いだすなよ……」
洸太にしては珍しいくらい、力のない言葉がこぼれだした。涙は流れていないけれど、表情はまるで泣いているみたいだ。
言い過ぎた……。
鈴木君と話すようになって、洸太の抱える気持ちを慮ることができていなかった。洸太を置き去りにして、自分だけそこから抜け出そうとしてしまった。奏太の名前を出されて、つい心が乱れてしまった。
洸太を切り捨てるようにぶつけた言葉に後悔する。
奏太がいなくなってから心配してそばにいてくれたのは洸太だ。そんな風にそばにいてくれた相手に対して、こんな言い方はないよね。
今度は私が黙り込むと、小さく息を吐き出した洸太が迷うことのない目で訴えるようにしてきた。
「関係あるかないかは、俺が決める」
静かだけれど揺らぐことなどないというような物言いは、仕事なら相手を黙らせるには充分な威圧感があった。けれど、相手は私で仕事じゃない。
「何よ、その言い方」
冷たすぎたと後悔したのも束の間、洸太の発言に再び苛立ちが芽生えた。
「スミレには、奏太じゃなきゃダメなんだよ。鈴木みたいにヘナった男なんか、そばに近寄らせんなよ。あんな奴の何がいいんだよ。際立って何かできるわけでもないし、人ごみに居たら紛れて探せなくなる程度の男だろ。そんな奴とスミレは、釣り合わねぇよ。それに……。奏太が居なくなった今、スミレのそばには俺がいるだろ」
鈴木君のことを貶す洸太が、とてもかわいそうに感じるのはどうしてだろう。そんな言葉を発しなくても、洸太は充分いい男だとわかっている。だって、小さい頃からずっとそばで見てきたのだから。洸太がその辺の男の人たちとは違うからこそ、人を貶すようなことなど言って欲しくなかったのに。幻滅しちゃうじゃん……。
深く息が漏れた。仕事のできる洸太は、私や奏太の憧れでもあった。昔からスポーツも勉強もよくできて、何かっていうと先頭を切り、人を纏める力を持っていた。学級委員長や生徒会長なんて言えば、洸太しかいないと周囲に思わせる存在だ。なのに、そんな発言は残念でならない。
奏太を大事に思う気持ちはよくわかる。大切な兄弟だと可愛がる姿をそばで見てきたのだから、誰よりもそれは理解しているつもり。奏太がそばにいなくなった私を心配してくれる気持ちもわかる。だけど……。
「奏太と洸太は、違うでしょ。確かに奏太はいつ戻ってくるのかも判らないけれど。だからって、その間私の面倒を見る必要なんて洸太にはないんだよ。私なんかに構って時間を無駄にしちゃダメだよ」
一気に捲し立てると、洸太が唇を噛むように苦い表情をした。
「スミレ……。違うんだよ。……違うだろ?」
さっきまで意地になる程強気で発言していたのに、突然力を失ったように洸太が悲しく切ない顔をした。今にも泣き出すんじゃないかって言うくらい悲しげな瞳は、私の目の奥を懸命に見て何かを言いたそうに揺れていた。
「スミレ……、奏太は――――」
「奏太が何?」
訊ね返すと、悲しげな瞳が見返す。
なんでそんな目をするの。洸太らしくないよ。強気な顔が崩れてしまうのを見ていたら、こちらまで勢いを削がれてしまうし。何より、言葉にできないような不安に襲われる。
「洸太……、どうしたの? なんか変だよ」
悲しげな表情を見ているうちに、何処からともなく現れた不安の塊が心を落ち着かなく煽り始めた。グラグラと心が揺れて、自分の知らない何かが胃の中を蠢いて、不安の塊がムクムクと育ち出す。
いや。――――いや……。
何が嫌なのか。何が不安なのか。判らないのに逃げ出したくなる。どこから逃げ出したくて、どこへ行きたいのか少しもわからないことが益々不安を掻き立てた。どうしようもなく苦しくて、目の前にいる洸太へ縋りつきたくなってしまう。
「洸太……」
不安をかき消すことができるものがなんなのか判らないのに、洸太ならそれを和らげてくれる気がして、例えようのない何かに怯えながら名前を呼び、ゆっくりと両手を伸ばした。
奏太がいなくなってから、私も洸太も不安に煽られる時があった。いってきますと。笑顔で遠くへ行ってしまった奏太からは、たった一枚の絵葉書が届いただけで、その後は何の連絡もない。今どこにいるのか、帰って来る気はあるのか。何一つわからないという事が、寂しくて不安でたまらないんだ。
一言でいい、声を聞かせて欲しいだけなのに奏太はそれさえしてくれない。どこにいるのかわかるなら、今すぐにでも追いかけていきたいくらいだ。それができないもどかしさは、日を追うごとに膨らんで不安という大きく黒い塊を作り上げた。
気を抜けばその塊に飲み込まれそうになって、涙の海におぼれて這い上がれないかもしれないと思う時だってある。
立っていられない程に足元がグラついた時、いつだって洸太はそばにいてくれた。この不安を分かってくれるのは、奏太をよく知る洸太だけだっていうことを私は理解している。けれど、支えてくれる存在は私を甘やかす。強くありたいと思う反面、甘え縋りつきたいという感情を理解し、座り込んで這い上がれなくなった私の手を洸太はいつだって力強く握って同じ視線でいてくれる。……今だって。
不安を受け止めるように伸ばした手を取り、応えるようにして洸太が私を引き寄せた。
カタカタと体が震える。説明のできない不安に駆られ、どうしてか涙までがこぼれだした。
「奏太は、どうして帰ってこないの? 奏太はどうして何も連絡してきてくれないの? 私たちのことなんて。私のことなんて、もうどうでもよくなっちゃったのかな……」
言葉にしてしまうと、こんなに悲しいことはなかった。
奏太がいない現実を突きつけられるから、今まではなるべく避けてきた。でも、この不安で逃げ出したい気持ちの根底にある奏太という一人の愛しい存在に、もう黙っていることが出来ない。
こぼれ出た弱音を拾い上げるみたいに、洸太の大きな手が私の頭を優しく引き寄せる。「大丈夫」と繰り返す洸太の声が震えていた。
洸太も悲しいんだ。連絡もない、何処にいるのかもわからない大切な弟を思って、洸太も悲しいんだ。
しがみつく洸太の胸は、奏太とはちがう匂いがした。なのに落ち着くのは、兄弟だからなのかな。膨れ上がる不安に押しつぶされそうで、逃げ出したくなる気持ちをぶつけるように洸太の背中に手を伸ばした。ぎゅっと握りしめればスーツの背中がシワになってしまうと別の何処かで冷静に思っていても、今あるこの不安が握る手を緩めさせてはくれなかった。
「奏太……、そうた」
涙を流し漏れ出た名前は、洸太じゃない。それでも洸太は、不安がる私をしっかりと抱きしめて「大丈夫」を繰り返した。
「大丈夫だ。スミレ、大丈夫だから。俺が居るから」
その言葉が欲しいと望んでいたのか分からないのに、大丈夫と言う洸太に何度も頷きしがみついていた。
まるでその言葉が薬のように、洸太の「大丈夫」がないと、私は立っていることができなくなっていた。
小さく会釈をして通り過ぎ、資料室のある一つ下の階へ階段で向かう。非常用の重いドアを開ければ、廊下とは言え社内とは雲泥の差のひんやりとした空気に身震いした。五冊のファイルを暖房器具さながらに抱えて体をぎゅっと縮める。カンカンとヒールを鳴らして階段を降りて行くと、スーツのポケットに収まっていたスマホが震えた。下りる足を止めて画面を見ると、さっきすれ違った洸太からの電話だった。
「もしもし」
通話に出ると「なんだよ、さっきの」と訳のわからないケンカを突然ふっかけられた。
「何怒ってんの?」
意味もわからない不機嫌につきあっていられないと、通話中のまま階段を下りて行けば冷えた空気の中で再びヒールの音が響いた。
「待ってろ」
「は?」
それだけ言うと、通話が切れた。
不機嫌だったかと思えば待ってろなんて、訳がわからないと首を傾げてからファイルを抱えなおした。洸太の言葉を無視して階段を下りて行き、再び重い非常ドアの前にたどり着いて開けると、目の前に洸太が居て驚きに息を飲み、抱えていたファイルが重ねた間から一冊抜け落ちた。
バサリと音を立てたファイルに「もうっ。驚かさないでよ」と眉間にしわを寄せしゃがんで拾おうとすると、横から攫うように洸太が拾い渡された。
「ほら」
「ありがと」
拾ってくれた洸太の顔は、電話口で聞いた声と比例して不機嫌そうだ。
「何怒ってんの」
同じセリフで問い返す。意味のわからないイラつきをぶつけられて、こっちの方がイラついてきた。洸太の横をすっと通り過ぎ、先にある資料室のドアの鍵穴にキーを差し込み開けた。
普段から常時人がいないここも、さっきの非常階段と同じようにひんやりとしている上に薄暗い。灯のスイッチに手をかけ点けると、カチカチと瞬いたあとに眩しく室内を照らした。少しばかり埃っぽい。年末に掃除をしなかったのだろうか。
目的の棚がある奥の方へ進むと、洸太もあとをついてきた。
「さっきの、あれ。なんだよ」
まただ。意味のわからない怒りをぶつけられて、こっちも睨みつけるように振り返る。
「さっきから、なんのこと言ってんの?」
不機嫌に返すと「鈴木のことだよ」とふてくされた声が返ってきた。
鈴木君がなんだと言うのか。もしかして、実は洸太も。ハッとして見ると、洸太は相変わらず不機嫌な顔つきのままだ。この洸太が男好きなんてあり得ないか。
鈴木君のように、ツーカーで突っ込みを返してもらえないことにも不満を覚える。
洸太は面白みに欠けるところがある。真面目で仕事ができて、同期や後輩にはそれなりに笑って会話をしているようだけれど、どこかつまらないのだ。何がどうっていうわけじゃないけれどつまらない。
奏太みたいに、いつも声を上げて笑っていないからだろうか。人の上げ足を取るみたいな突っ込みばかりで笑えない冗談が多い。奏太がいたころには、もう少し面白味のある男だった気がする。私たちは奏太がすべての中心で、彼がいない今の状況に足元ばかりを見ているのかもしれない。
今洸太をつまらないと感じているように、洸太もずっと私のことをつまらないと思い続けていたのだろうか。それが鈴木君というキャラの登場で、私だけが足元を見ることを少しずつやめていき、地面よりも上の世界に忘れていた笑顔を見つけ始めたのかもしれない。
「鈴木君がなんなの。ちゃんと説明してよ」
言葉の足りない洸太をムッとしたまま促すと、息を吐いたあとに口を開いた。
「なんで一緒に飯なんて食ってんだよ。あんなこと、今まで一度もなかっただろ」
呆れた。そんなことで怒ってるわけ?
「あのね。私だってたまには誰かとご飯くらい食べるけど。それに、そんなこといちいち洸太に断り入れなくちゃいけないの?」
ファイルを棚に戻し、右手を腰に当てて顎を突き出すように文句を返すと、洸太は未だ鋭い視線で不機嫌をあらわにしている。
「スミレには、俺……奏太がいるだろ」
どうしてここで奏太のことを持ち出すのか。今そばにいない、ましていつ戻ってくるかもわからない相手の名前を出されて私の不機嫌さが上回る。
「私だって、出来ることなら奏太と居たいよ。でも、それは叶わないでしょ。それとも、奏太を待っている間、私は他の誰かと話すのも、ランチをするのも駄目なの?」
勢いよく言い返すと、洸太がぐっと言葉を飲み込んだ。
「洸太は、奏太がいつ帰ってくるのか知ってるの? 知らないでしょ? 誰も奏太がいつ戻ってくるのか知らないし、こんなに長い間待ってても奏太は何も連絡してきてくれないんだよ。そんな中で、気を紛らわせるような何かに頼ることを、私はしちゃいけないの?」
静かな資料室で、言葉は止まらなかった。早く帰ってきてよ、と文句の一つもぶつけたい相手にはいまだに何も言えないままで、ずっと心の中に澱でもたまっていくように苦しいや辛いを蓄積してきた。今までそれを口にすることは憚られて、いつしかとても黒い不満の塊になっていた。それが今、勢いをつけて吐き出されていく。
就職できたと安心していたのに、突然旅に出ると言い張り日本を出てしまった奏太の行動には、おじさんとおばさんもとても傷ついていた。何も相談してくれなかったとに洸太も傷ついた。そんな人たちを前に、身内でもない私が何か言えるはずもないと、ずっと堪えていた感情が今爆発してしまった。
「洸太が気を遣ってくれることにはいつも感謝してるけど、このままじゃいけない気もするんだよ。奏太を黙ってただ待ち続けていたら、私の時間が止まったままになっちゃう。きっと奏太は広い世界を見て成長した姿で帰ってくる。そんな時に私が昔のままだと、がっかりさせちゃうでしょ。洸太だってそうだよ。帰ってきた奏太に負けないよう、あの頃にしがみつくのはそろそろやめた方がいいと思う。私にばかり構ってないで、自分のために動いたほうがいい。それに、鈴木君とのことは洸太には関係ないことでしょ」
勢いをつけて言い返すと、洸太は悲しげな瞳をした。
「急に……、そんなこと言いだすなよ……」
洸太にしては珍しいくらい、力のない言葉がこぼれだした。涙は流れていないけれど、表情はまるで泣いているみたいだ。
言い過ぎた……。
鈴木君と話すようになって、洸太の抱える気持ちを慮ることができていなかった。洸太を置き去りにして、自分だけそこから抜け出そうとしてしまった。奏太の名前を出されて、つい心が乱れてしまった。
洸太を切り捨てるようにぶつけた言葉に後悔する。
奏太がいなくなってから心配してそばにいてくれたのは洸太だ。そんな風にそばにいてくれた相手に対して、こんな言い方はないよね。
今度は私が黙り込むと、小さく息を吐き出した洸太が迷うことのない目で訴えるようにしてきた。
「関係あるかないかは、俺が決める」
静かだけれど揺らぐことなどないというような物言いは、仕事なら相手を黙らせるには充分な威圧感があった。けれど、相手は私で仕事じゃない。
「何よ、その言い方」
冷たすぎたと後悔したのも束の間、洸太の発言に再び苛立ちが芽生えた。
「スミレには、奏太じゃなきゃダメなんだよ。鈴木みたいにヘナった男なんか、そばに近寄らせんなよ。あんな奴の何がいいんだよ。際立って何かできるわけでもないし、人ごみに居たら紛れて探せなくなる程度の男だろ。そんな奴とスミレは、釣り合わねぇよ。それに……。奏太が居なくなった今、スミレのそばには俺がいるだろ」
鈴木君のことを貶す洸太が、とてもかわいそうに感じるのはどうしてだろう。そんな言葉を発しなくても、洸太は充分いい男だとわかっている。だって、小さい頃からずっとそばで見てきたのだから。洸太がその辺の男の人たちとは違うからこそ、人を貶すようなことなど言って欲しくなかったのに。幻滅しちゃうじゃん……。
深く息が漏れた。仕事のできる洸太は、私や奏太の憧れでもあった。昔からスポーツも勉強もよくできて、何かっていうと先頭を切り、人を纏める力を持っていた。学級委員長や生徒会長なんて言えば、洸太しかいないと周囲に思わせる存在だ。なのに、そんな発言は残念でならない。
奏太を大事に思う気持ちはよくわかる。大切な兄弟だと可愛がる姿をそばで見てきたのだから、誰よりもそれは理解しているつもり。奏太がそばにいなくなった私を心配してくれる気持ちもわかる。だけど……。
「奏太と洸太は、違うでしょ。確かに奏太はいつ戻ってくるのかも判らないけれど。だからって、その間私の面倒を見る必要なんて洸太にはないんだよ。私なんかに構って時間を無駄にしちゃダメだよ」
一気に捲し立てると、洸太が唇を噛むように苦い表情をした。
「スミレ……。違うんだよ。……違うだろ?」
さっきまで意地になる程強気で発言していたのに、突然力を失ったように洸太が悲しく切ない顔をした。今にも泣き出すんじゃないかって言うくらい悲しげな瞳は、私の目の奥を懸命に見て何かを言いたそうに揺れていた。
「スミレ……、奏太は――――」
「奏太が何?」
訊ね返すと、悲しげな瞳が見返す。
なんでそんな目をするの。洸太らしくないよ。強気な顔が崩れてしまうのを見ていたら、こちらまで勢いを削がれてしまうし。何より、言葉にできないような不安に襲われる。
「洸太……、どうしたの? なんか変だよ」
悲しげな表情を見ているうちに、何処からともなく現れた不安の塊が心を落ち着かなく煽り始めた。グラグラと心が揺れて、自分の知らない何かが胃の中を蠢いて、不安の塊がムクムクと育ち出す。
いや。――――いや……。
何が嫌なのか。何が不安なのか。判らないのに逃げ出したくなる。どこから逃げ出したくて、どこへ行きたいのか少しもわからないことが益々不安を掻き立てた。どうしようもなく苦しくて、目の前にいる洸太へ縋りつきたくなってしまう。
「洸太……」
不安をかき消すことができるものがなんなのか判らないのに、洸太ならそれを和らげてくれる気がして、例えようのない何かに怯えながら名前を呼び、ゆっくりと両手を伸ばした。
奏太がいなくなってから、私も洸太も不安に煽られる時があった。いってきますと。笑顔で遠くへ行ってしまった奏太からは、たった一枚の絵葉書が届いただけで、その後は何の連絡もない。今どこにいるのか、帰って来る気はあるのか。何一つわからないという事が、寂しくて不安でたまらないんだ。
一言でいい、声を聞かせて欲しいだけなのに奏太はそれさえしてくれない。どこにいるのかわかるなら、今すぐにでも追いかけていきたいくらいだ。それができないもどかしさは、日を追うごとに膨らんで不安という大きく黒い塊を作り上げた。
気を抜けばその塊に飲み込まれそうになって、涙の海におぼれて這い上がれないかもしれないと思う時だってある。
立っていられない程に足元がグラついた時、いつだって洸太はそばにいてくれた。この不安を分かってくれるのは、奏太をよく知る洸太だけだっていうことを私は理解している。けれど、支えてくれる存在は私を甘やかす。強くありたいと思う反面、甘え縋りつきたいという感情を理解し、座り込んで這い上がれなくなった私の手を洸太はいつだって力強く握って同じ視線でいてくれる。……今だって。
不安を受け止めるように伸ばした手を取り、応えるようにして洸太が私を引き寄せた。
カタカタと体が震える。説明のできない不安に駆られ、どうしてか涙までがこぼれだした。
「奏太は、どうして帰ってこないの? 奏太はどうして何も連絡してきてくれないの? 私たちのことなんて。私のことなんて、もうどうでもよくなっちゃったのかな……」
言葉にしてしまうと、こんなに悲しいことはなかった。
奏太がいない現実を突きつけられるから、今まではなるべく避けてきた。でも、この不安で逃げ出したい気持ちの根底にある奏太という一人の愛しい存在に、もう黙っていることが出来ない。
こぼれ出た弱音を拾い上げるみたいに、洸太の大きな手が私の頭を優しく引き寄せる。「大丈夫」と繰り返す洸太の声が震えていた。
洸太も悲しいんだ。連絡もない、何処にいるのかもわからない大切な弟を思って、洸太も悲しいんだ。
しがみつく洸太の胸は、奏太とはちがう匂いがした。なのに落ち着くのは、兄弟だからなのかな。膨れ上がる不安に押しつぶされそうで、逃げ出したくなる気持ちをぶつけるように洸太の背中に手を伸ばした。ぎゅっと握りしめればスーツの背中がシワになってしまうと別の何処かで冷静に思っていても、今あるこの不安が握る手を緩めさせてはくれなかった。
「奏太……、そうた」
涙を流し漏れ出た名前は、洸太じゃない。それでも洸太は、不安がる私をしっかりと抱きしめて「大丈夫」を繰り返した。
「大丈夫だ。スミレ、大丈夫だから。俺が居るから」
その言葉が欲しいと望んでいたのか分からないのに、大丈夫と言う洸太に何度も頷きしがみついていた。
まるでその言葉が薬のように、洸太の「大丈夫」がないと、私は立っていることができなくなっていた。