「春が待ち遠しいのは、どうしてだろうね」

 はしゃいだ笑顔で訊ねる会社の同僚に、作り笑いを返した。

「やっぱり。あったかくなるのがいいのかな。洋服の色も明るくなるしね」

 声を弾ませたまま、話し続ける彼女の隣を歩きながら思う。
 春が待ち遠しいのは、きっと奏太(そうた)が生まれた季節だからだと。大好きな奏太の、春のような優しい笑顔が、今も忘れられないからだろうと――――。

 友達は多いほうじゃない。たくさんで騒ぐことがまるっきり嫌いではないけれど、その中にいる自分は別人のようで、ふと取り残されている感覚に陥ることがあった。
 お酒を飲んで笑っている自分を俯瞰するように、どうしてここにいるのだろうと別の私が問いかける。自分のことを話すことが、苦手だからだろうか。小さなころは、そんなこともなかったのだけれど……。

望月(もちづき)さん。――――望月菫(もちづきすみれ)さん」

 ぼんやりとしていた世界に声が聞こえてきた。焦点が合うように、目の前に現実の風景が現れる。

「飲んでる?」

 訊ねられて、周囲の賑やかな音が耳に飛び込んできた。
 そうだった。忘年会の最中だった。
 騒がしいチェーン店の居酒屋。奥の座敷を貸し切り、会社の忘年会が開かれていた。グラスには既に氷で薄まってしまったジントニックが、初めに注文した時のまま汗でコースターを濡らしていた。左手首にハマる華奢な腕時計の針に視線をやれば、会が始まってから小一時間ほども経っていた。
 時々、こういう場にいると、ぼんやりしてしまうことがあった。賑やかな周囲の笑い声や話し声が、まるでライブハウスのスピーカーから聴こえる大音量のように耳と脳内を刺激し、トランス状態を起こしてしまう。そうして、いつだって思考は奏太のことばかりを考えてしまう。
 さっき声をかけてきた隣に座る人物へ、ゆっくりと視線をやる。人がよさそうに口角を上げた彼は、同じ部署の鈴木君だ。あまりに無難な名前すぎるから憶えてしまったけれど、下の名前はなんだったろう……。伊達眼鏡のような黒ぶちフレームの奥で、彼の瞳はいつも三日月を維持し笑っている。
 さらりとした黒髪は、特に何かつけている風もなく、かけている眼鏡と同じくらいに素朴だった。

「うん」

 かろうじて貼り付けた笑顔で応えると、「よかった」と言ってまた口角を上げた。
 今の笑い顔って、どこかで見た覚えがある。どこだっけ?
 ジントニックのグラスに手を伸ばし持ち上げながら、少しの間思考を巡らせた。
 ああ、深夜にやっていたアニメの男の子みたいだ。
 昨夜、点けっぱなしにしていたテレビからたまたま流れていたアニメを、観るともなしに眺めていた。アニメの中の彼は、よく笑っていた。気の強い女の子に何を言われても、笑っていれば何とかなるだろうというくらいに笑顔ばかりを浮かべていた。相手の女の子にしてみれば、少しくらいの理不尽なら大概は笑って許してくれる心の広い男の子となるだろう。そんな昨夜の彼に、鈴木君は似ている。
 実際には、あんな男の子なんて存在などしないだろう。なんでも許すなんて、何も考えていないか相当なお人好しだ。簡単に詐欺に引っかかりそう。
 黒ぶち眼鏡の奥で三日月を維持している彼の目を見続けながら、アニメの男の子を重ね合わせていたら、不意に鈴木君が慌てたように視線を逸らした。

 何?

 突然目を逸らされるような何かをした覚えもなく疑問に小首を傾げると、彼は目の前にある焼き鳥や揚げ物やサラダの皿を、不器用なほど落ち着きなくこちらへと引き寄せた。

「せ、せっかくだから食べないと」

 さっきまであんなに笑顔だったのに、今は視線も合わせずあたふたと小皿と箸を寄越す。
 差し出された箸を「ありがとう」と受け取り、一番手近にあったエビのフリッターを小皿に置いた。すっかり冷めきっていて、美味しそうには見えないけれど、鈴木君の厚意を無碍にもできない。
 忘年会は盛り上がりをみせていて、あちこちで上がる話し声は入り混じり、みんながなんの話をしているのかさっぱりわからないけれど、楽しげに話す表情を見ているとなんとなく心は落ち着いた。
 座敷の三和土に近い場所に座っていた私の後ろを、トイレに立つ人がひっきりなしに「ごめんね」と声をかけながら通っていく。盛り上がるこの場だから、余計にアルコールも進むし仕方ない。

「この場所、落ち着かないよね。あっちの奥が空いたから、移動する?」

 場が進むにつれて、みんな初めに座っていた席には留まらず、話したい人たち同士で自由に隣り合っていた。
 お皿に乗ったままのフリッターへ一度だけ視線をやった鈴木君は、通る人たちに落ち着かないのか、一緒に場所を移動しようと提案してきた。けれど、落ち着かない場所にいること自体今まで気がつかなかったくらいだから断った。

「鈴木君は、移動したら?」
「あ、いや。僕もいいや」

 そう。

 残っていた薄いジントニックをようやく飲み終えて、小皿にとった冷たいフリッターを食べ終えた頃、「二次会に行くぞー」と幹事をしている男性社員が声を上げた。
 その声に参加していたほぼ全員が乗り気で、二次会に向けてヌーの大移動のようにノソノソと動き出す。生き残るためのヌーたちとは違い、彼らの求めているのは馬鹿騒ぎのできる別の場所だ。普段仕事で抑えつけられている鬱憤を、ここぞとばかりに爆発させるための気合は充分だ。
 バッグと上着を手にし、二十人ほどもいる社員に紛れて外に出れば、次はカラオケだとあげる声が聞こえてきた。

「次のカラオケ、行く?」

 気がつけばさっきの鈴木君がそばにいて、寒そうにダッフルの襟元を引き寄せていた。
 あと数日で年も明けようというこの時季だ。そんなに寒いなら、マフラーくらい巻けばいいのに。
 鳥肌でも立っているんじゃないかと、鈴木君の首元を何となくのぞき見たけれど、この暗さではよくわからなかった。
 鈴木君の首筋から視線を地面にやり、首をコートの襟元へ埋めるように体を縮こまらせる。襟足で切りそろえたボブは、スタンドカラーの襟をもってしても首筋に冷気が絡みつく。鈴木君に、マフラーくらい巻けばいいなんて思っていたけれど。私自身も、首元はスカスカだった。十一月も終わりの頃に、去年使っていたマフラーを探してみたけれど見当たらず。寒さが厳しくなってからずっと、襟の立っているコートばかりを着て凌いでいた。

「やめとく」

 ノリのいいみんなを眺めながら、二次会の返事に応えて鈴木君の寒そうな顔に向かい首を横に振った。

「僕も苦手なんだ。歌」

 そうなんだ。
 私は苦手じゃないけど、この後も続くだろうあのパワー漲る塊の中にいる元気はない。私がもしヌーなら、いの一番に命を落とすだろうな。
 ほろ酔いで気分のよさそうな上司に「お疲れ様でした」と先に帰る旨を伝えて頭を下げると、突然斜め後ろから肩を強引に抱かれた。驚いて振り返ると、会社では先輩にあたる芹沢(せりざわ)洸太(こうた)だった。社内でも信頼を寄せられている彼は、リーダーシップがよく似合う。彼が右と言えば、右。左と言えば左だと、誰もが疑うことなく信じている。大袈裟だけれど、そのくらい統率力があり、仕事のできる男だ。洸太は、私の彼、奏太の四つ上の兄で幼馴染だ。

「まーた、そうやって。こっそり帰るなんて、なしだろ」

 洸太は、自信に満ち溢れた性格をしている。自分が放つ言葉には影響力があって、それに付き従う人が少なくないことを自覚している。多少強引なことをしても、許される人生を歩んできた。
 奏太とは、別の意味で自由な人だ。
 親しげに肩を抱く姿を見た他の社員たちは、また始まった。という嫉妬のような視線と、囃し立て盛り上げようとする思いを併せ持った感情で、私と洸太に黄色い声をあげた。
 幼馴染としてしか洸太みていない私にしてみれば迷惑な話だけれど、ここで断るのも感じが悪いだろうと、やんわりその手を肩から離した。
 私の態度に僅かばかり不満そうな顔を見せた後、洸太が耳元へと顔を寄せた。

「そばにいない奏太を気にしても、仕方ないだろ」

 私にだけ聞こえるように、洸太が囁いた。言いたいことは、解る。けど、どうにもできないのが心というものでしょう。近くにいないからと、やりたい放題振舞えるほどいい加減にできてはいない。
 普段はイタズラにこんなことを言ったりしない洸太だから、アルコールとこの雰囲気にやられているのだろう。
 一言言ってやりたい衝動に駆られた時、すぐそばでやり取りを見ていた視線に気がついた。鈴木君だ。眼鏡の奥の瞳を困惑気に歪ませている。お人好し丸出しで、絡んでいる洸太を私からなんとか遠ざけようと思ってくれているみたいだ。けれど、社内のできる先輩相手に、どんな対応をすればいいのかわからないようで、ただ立ち尽くしあと一歩を踏み出せないというような態度だった。
 帰る素振りを見せても構うことなく、今度は当たり前のように右手を握られ、洸太がカラオケ店へ向けて歩き出そうとした。居酒屋から出て、冷え始めた手と手が強引に繋がる。
 その時だった。さっきまで、どうしたらいいかと心許ない表情をしていた鈴木君が、突如口を開いた。

「あ、あのっ、芹沢さん。望月さんは、あまり体調が良くないみたいですよ」

 鈴木君の、意を決したような言葉が洸太の動きを止めた。
 相手が相手だから、少し遠慮がちな声音で鈴木君が“嘘”をついた。

「なんだ。体調が良くないならそう言えよ」

 助け舟を出してくれた鈴木君に合わせて頷きを返すと、洸太は仕方ないな、というように溜息をこぼした。

「俺のミスチル、聴かせたかったのにな」

 冗談なのか本気なのか、洸太は諦めたように軽く笑っている。

「芹沢さん、行きますよー」

 人気者の彼を呼ぶ、女性社員の甘ったるい声が聞こえてきた。彼女の媚びるような姿を一瞥して、洸太と繋がる手から逃れると、彼の表情が一瞬だけ曇った。
 洸太の性格上、私が行かないからといって二次会を蹴ることはないだろう。案の定、「おうっ」と、さっきまで繋がっていた手を高く上げて応えている。

「あったかくして寝ろよ」

 冷たくなってしまった私の頬にそっと手を添えてから、洸太はヌーの大群へと合流していった。彼ならきっと、最後まで生き残りそうだ。

「ありがとね」

 洸太の背中を見送ってから、未だ隣に立ったままの鈴木君を見れば笑みを浮べていた。
 眼鏡の奥の三日月を確認してから、じゃあ、また明日――――。そう言って歩き出そうとしてから思い出した。
 明日から冬季休暇だった。年末の挨拶を上司やみんなにしなかったなと思い、せめてというわけじゃないけれど、鈴木君にはしておこうと彼に向き合った。

「鈴木君、今年もお世話に――――」
「飲みに行きませんか?」

 年末の挨拶にかぶせて、鈴木君が私を誘った。