人が、消えた。それだけじゃない。静かというより、無音の世界が広がっている。
 おまけにひらけた周囲は夕陽を直接塗り付けたかのように、すべてが橙がかっていて――。

「なに、これ……」

 まさか、これが隠世――?

「ここは"狭間(はざま)"。現世と隠世の間に存在する、空間のようなモノだな」

「! 壱袈……!」

 見れば先ほどまで隣で並び歩いていた壱袈が、本堂へと通ずる石畳の道中にある、常香炉(じょうこうろ)の前に立っている。

(いつの間に……)

 けれどもひとりではない安堵に「あ、なんだ。隠世じゃないんだ」と肩の緊張を解くと、

「隠世が所望だったか? なら、俺が連れて行ってやろう」

「ごめん、大丈夫。興味はあるけど、遠慮しておく」

 隠世にヒトは長くいられない。雅弥にも郭くんにも、あれだけ"気をつけろ"と注意されている。
 首を振った私に壱袈は「そうか」と残念そうにしょぼくれた顔をするも、「まあ、それはいずれな」と宙を見上げ、

「見えるか?」

 端的な問いに、視線の先を辿る。と、それは徐々に、けれども一度"気づいて"からは如実に、その姿を現した。
 濃さを変え、形を変え。大小と揺らめきながら、無数に漂う黒い(もや)
 特に、みくじと書かれた木札の前やお水舎といった、人が集まる場に多く集まっている。

「……っ! なんで"念"がこんなに……!」

「ほう、やはり見えるのか」

 壱袈は驚いたというより、確信を得たと言わんばかりに笑むと、

「気分はどうだ?」

「そりゃあ、"念"には一度苦労させられたし、良くはないけど……」

「体の不調や、息苦しさは」

「ん? そういうのは特に感じないかな」

 高倉さんの時のような悪寒もない。
 たぶん、ここに漂うどの"念"も、私に関係したモノじゃないからだろうな……などと考えてると、

「……なるほどなるほど」

 興味深げに頷いた壱袈は、

「この世界は陰陽の双方で成り立っている。あやかしは陰、神は陽。ヒトはその両方を。"念"というのは、いわば人の陰の気だ。こうした欲望と願望の集う場では、特に溜まりがちになるものでな」

 言いながら壱袈が、左の袖を軽く引き上げた。
 途端、その手首に現れたのは、深緑色の球体が連なるブレスレット。

「寄り集まり、濃く重なった陰の気は"(よど)み"となる。ヒトを狂わすのはもちろん、あやかしをも惑わし、時には良からぬ"怪奇"を生みだす」