ぽんぽんとたたくように頭をなでる。落ち着くと泣いたことが恥ずかしくなったのか、少女は顔を赤くしたままうつむいていた。しばらく待つと、身振り手振り訳を話してくれた。
驚いたことに、少女も”まーちゃん”というらしい。自動販売機で売っているジュースを求めて、お家を出てきてしまったそうだ。お母さんがお昼寝をしている間に。
「ママね、きょう、げんきないの。おねつあるんだって。ちょっとね。パパがごはんかってくるって。だから、まーちゃんジュースかうの。」
何がどうつながって「だから」なのだろう。
あちこちの自動販売機を見て回り、この駅でようやく目的のものを発見。無事購入し、さあ帰ろうと思ったら、自分がどちらから来たのかも分からなくなってしまっていたという。知っている道や建物を求めて周りをうろうろしてみたが、全然分からないし、足はじんじんと痛くなってくるし、もう二度とお家には帰れないんだ、と絶望していたらしい。
話し終わった少女の顔は悲壮なものだったが、真冬が自分も”まーちゃん”なのだと教えると、少しだけ笑顔を見せてくれた。
さて、ここがどこなのかも分からない真冬には、少女の家がどこなのかなんてもちろん分からない。それでも、おそらく就学前だろう小さな子を放り出すことなんて出来なかった。
駅員が休憩している可能性にすがって公衆トイレに近づいてみたが、中に人がいる気配はなかった。諦めて少女の手を握る。
「お巡りさんなら、まーちゃんの家が分かるかもしれないよ。」
「おまわりさん!」
「交番を探してみよう。」
「ワンちゃんいる? ワンちゃんのおまわりさん!」
「……どうかなぁ。」
それは童謡のお巡りさんのことなのか、それとも警察犬のことなのか。どちらにしろ普通の交番にはいないわけだが、仔猫の夢を砕くのが忍びなく、真冬は曖昧に笑った。
***
線路に沿うように進むと大きな通りに出た。右手に踏切がある。真冬は少女の顔を上からのぞいた。
「ねえ、まーちゃん。踏切は渡った? あっちとこっち、どっちから来たかも分かんないかな?」
線路の向こうとこちら側、右と左を指し示す真冬の指を大きな目が追う。不思議そうに小首をかしげて、しゅんっと眉を八の字にした。
「……わかんない。」
「そっか。」
余程ジュース探しに夢中だったのだろうか。信号とかはちゃんと見たのだろうか。事故とかに遭わなくて良かった。本当に。
右は道の両側に畑が続いていた。左は背の高いアパートや一軒家が並んでいる。真冬は取りあえず左に進むことにした。大きな通りなら、きっとどこかに交番があるはずだ。
今立っている歩道は幅も狭く、少し行くと生け垣がピョコピョコと道に枝を伸ばしていた。向かいの方が車道より一段高くなっているし、ガードレールがある。小さい子がいるのだから、安心して歩けるあちらの方が良いだろう。
真冬は少女の手を引くと目の前の横断歩道を渡った。少女はてんってんっと、しま模様の白い部分を飛び石のようにして跳ねた。
***
何棟も並んだアパートの間に公園のような広場があった。少女は植え込みに咲いた花を突いて遊んでいるが、建物には興味を示さなかった。
「まーちゃんのお家って、どんな感じ?」
「ふつう!」
「普通、普通かぁ。んー、何階建て?」
「にかい! でも、まーちゃんちはいっかいだよ!」
二階建てのアパートの一階に住んでいるということで良いのだろうか。
真冬は前方に気をつけながら左右を見た。アパートは部屋数を数えるのもうんざりするくらい大きなものばかりだ。見てすぐ分かる範囲に少女の家はなさそうだ。
少女は上機嫌でつないでいる手を振っている。人懐っこい子だ。
「ねえ、ジュースって何買ったの?」
「ん? あのねー、これ!」
一旦解いた手を、少女はひまわりポシェットに突っ込んだ。すぐに、小さな手には余るペットボトルが真冬へ突きつけられた。ちゃぷんっと不透明な薄橙色の液体が揺れる。
真冬はその色にも赤いラベルにも見覚えがあった。ヨーグルトっぽいような、牛乳っぽいような、甘酸っぱいジュース。
「私も好きだよ、それ。」
もう随分と飲んでいないけれど。小さい頃も、甘すぎて虫歯になるからと、ちょっとずつしかもらえなかったけれど。今にして思えば、あればあるだけ真冬が飲んでしまうことが原因だったのかもしれない。
少女がきらきらと目を輝かせる。
「ほんとっ? まーちゃんもすき! でも、ママがだいすきなんだよ! だから、ママにあげるの! ママげんきなるよ!」
この子の母親は具合が悪いのだったか。今頃、我が子がいないことに気がついてひっくり返っていなきゃ良いが。
「そうなんだ。じゃあ、大事にしまっておこうね。」
「うん!」
ボトルがひまわりポシェットにいそいそとしまわれる。
そういえば、母は真冬に飲ませるのに気を遣っていたが、父はよく買ってきた。遊びに行った帰りに、ママへのお土産だと二人で買って帰ったこともある。
母の好物だったからだ。
***
交差点に差し掛かる。正面の信号がチカチカと点滅したので、無理せず止まる。この後直進しても良いものかどうか、真冬は左右に伸びる道を確認する。渡った先の右の道に大きなスーパーマーケットが見えた。
「さざんか!」
跳ね上がった声に思考を遮られる。
「え?」
視線を下ろす。真冬の手を両手で胸元に抱き込んで、少女が体をかしげていた。ぶら下がるように負荷が掛かってちょっぴり重い。真冬を挟んで反対側、真冬が肩に掛けているカバンをのぞき込んでいる。
カバンのベルト状の持ち手にくくった、フェルト製の桃色の花を見つめてもう一度口を開いた。
「さざんか!」
真冬はぱちぱちと目を瞬かせる。
「……よく分かったね。」
大きな花びらと、丸い葉、真ん中の黄色いアクセントから、クラスメイトもイトコもこれをツバキだと呼んだ。最初、真冬もそうだと思っていた。
ふふんっと鼻を鳴らして少女が反り返る。
「ママのすきなハナ!」
「そうなんだ。」
この花は、元々真冬のポシェットに付いていた。祖父が真冬とイトコに同じポシェットを買い与えたので、区別が付くようにと母が作ってくれたマスコットだった。
――お。良かったなぁ、真冬。サザンカか。ママの好きな花だなぁ。
ポシェットを提げた真冬を見て父が笑った。真冬が生まれた頃咲いていた花だと聞いて、以来真冬もこの花が好きになったのだ。
「おねーちゃん? あおだよー?」
ぐいぐい手を引っ張られて真冬は我に返った。少女がてけてけと走り出すので慌てて追いかけた。
***
くんっと手を引かれて真冬は立ち止まった。少女がぴょんぴょん跳ねる。大きな目は道の脇に向けられていた。
「ここ! プリンのおみせ!」
「プリン?」
見上げる先は一般的な一階建てのスーパーマーケットだった。入り口には花と果物が並んでいる。看板のロゴにも、ガラス窓に貼られた広告にもプリンの要素はない。
「パパとおかいものするの。プリンいつもかってくれるよ。」
「ああ。なるほど。」
真冬は苦笑した。父親は随分この子を甘やかしているようだ。
――真冬。今日は暑いから、アイスにしようか。
――んー? とけちゃうよー。
――走って帰れば大丈夫だって。ほら、ママのも真冬が選んで。
頭をなでる父の手、それを振り払うように真冬は首を横に振った。思考に割って入った幻を散らす。
真冬は努めて口角を上げた。少女の顔をのぞき込む。
「このお店、よく来るの?」
「うん!」
「車?」
「ううんっ。ママはじてんしゃ! パパはて、つなぐよ。」
ということは、ここはばっちりこの子の生活圏内ということだ。真冬はきょろきょろと辺りを見た。道路を渡った先にコンビニがある以外、住宅ばかりだ。
「いつもどっちから来てるの?」
「うーんと、あっちにかえる!」
少女はコンビニの脇の道を指し示した。
選ぶ道が悪いのか、ここまで交番を見つけることは出来なかった。もうこのまま少女の家まで行ってしまおう。
***