「花枝もそんな冗談言うんだな」
「え? いや、冗談ってわけではないんですけど」
「花枝は人の名前覚えるの得意だって自己紹介のときに言ってたじゃないか」
「……私、言ってました?」
「うん、言ってた。だから花枝が俺の名前忘れるはずないと思ってたんだけどな」
そっかー、それはちょっと残念だなぁ、と顎を触りながら、悲しむ素振りを見せる先生。
全然悲しんでる様子なんか見えないけど。
自己紹介のとき私、そんなこと言ったんだっけ? 全然覚えてないや。……でも、自分でも覚えていない記憶を誰かに覚えてもらえるってなんか嬉しいかも。
胸の奥がきゅっとなった。
「まあーでも、自己紹介からもう一年すぎてるもんな。覚えてないよな」
「…先生は覚えてるんですね」
「そりゃあ俺の生徒のことは、俺が一番覚えてるつもりだからな」
鼻高々に言った先生は、かっこよく見えて、ああ、こういうことで恋に落ちるんだな、と恋する乙女の気持ちが少しだけ分かる気がした。
顔なんて分からないから、どこにいて何をしてる人なのか全然検討もつかない。
会ってみたい気もするし、怖い気もする。
けれど、会ったら何かが変わるかもしれない、そんな気がした。
「あの、先生…」
「ん? どした?」
“先生があお先輩なんですか?”
のどまで言葉が出かかった。
けれど、それを聞いてもし違うと言われたら、そこで何かが途絶えるような気がした。
「…いえ、やっぱり何でもないです」
勇気のない私は、そう言葉を濁したのだ。
そうか? と不審がった先生だったけれど、それ以上何も聞いてはこなかった。
「……えと、じゃあ私、帰ります!」
言いながらかばんを取りに机に戻ると、おお気をつけてな、と声が背中にかかる。
振り向いて小さく頭を下げると、軽く手を振った先生。
あお先輩なのか分からないまま、ちょっとしたもやもやを残して帰路についた。