家のドアの前で母が待っていた。ヒマリに気がつくと、ぱっと顔を上げて駆け寄って来た。ヒリヒリする目元を隠したくて、ヒマリは下を向いた。母のサンダルがさっと視界に入ってくる。ふっと上からため息がかかった。
「フミカちゃんとケンカしたの?」
どうして知っているんだろう。そう思いながらも、ヒマリは首を横に振る。
「なんでもない。」
母の横をすり抜けて家へ入る。靴を脱いで、洗面所で手を洗っていると、廊下からぴょこっと小さな頭がのぞいていることに気がついた。妹が入り口のふちにしがみつくようにして立っていた。ハンドタオルで手を拭うヒマリを見上げて呼ぶ。
「ねーね?」
大きなくりくりした目がじっと見つめてくる。ヒマリは何も言わずその横を抜ける。階段へ向かうヒマリの後ろを、のてのてっと湿った足音がついてくる。
「ねーね。」
立ち止まったヒマリのスカートを、小さな手がつかもうとする。ヒマリはそれを払った。
「ついて来ないで。」
自分でも冷たい声が出たと思う。小さい子相手にあんまりだとも思った。しかし、今はこのよく分からない生き物を構っていられるような心の余裕がない。
ふいっと背中を向けて、階段を上がる。
「ちー……。」
妹が悲しそうにつぶやいたのが聞こえた。
自室に入ってすぐ、ヒマリは机の足下へランドセルを放った。母に知られたら、乱暴だと怒られるだろう。
机の上に置いたままになっていたペンケースを、寸の間にらむ。靴下をぽいぽいと脱ぎ捨て、ベッドの上、整えられていた掛け布団の上に乗り上げる。朝に別れた時のまま、枕元で良い子に待っていたイルカのぬいぐるみを引き寄せた。
水色のタオル地のそれは、物心ついた時からずっとヒマリと一緒にいる。
抱き締めてねっころがると、最近洗ってもらったからだろう、石けんの香りがした。
***
ヒマリは今よりずっと小さい、それこそ今の妹くらいしかない小さな手を、母とつないでいた。
母は反対の手に、薄くてツヤツヤした布で出来た買い物袋を提げている。袋の口から大根の緑色の頭がのぞいていた。ヒマリは反対の手に、黄色い花を握っていた。
玄関をくぐると、ヒマリは吹っ飛ばすように靴を脱いで、廊下を駆けた。手を洗いなさい、と母の声が追いかけてくるが、それさえも振り切る。
リビングに駆け込むと、ソレはいた。
優しくほほ笑んでくれた顔も、名前を呼んでくれた声も、もう思い出せない。
薄紅色が、いつものように窓際に座って、ヒマリを迎えてくれた。
「ちいっ!」
花を差し出すヒマリの小さな手を、白い手がそっと包んだ。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
何か、暖かいものが頭に触れた気がして、ヒマリはパチリと目を開いた。
カーテンを開けたままの部屋に、夕日のオレンジが差し込んできている。体を起こすと、肩から膝へとタオルケットが滑り落ちた。
眠ったおかげだろうか、胸にたまっていたドロドロしたものが抜けていた。
ヒマリはイルカをベッドの端に戻して、タオルケットをマントのように肩にかけ直した。交差させた両手で押さえて、後ろに引きずりながら部屋を出る。
階段を下って、リビングに入ると、テレビの前に父親がいた。お仕事のスーツを脱いで、Tシャツとゆるゆるのズボンに着替えている。
座卓に頰づえをついてぼーっと子供番組を見ている。膝の上で妹がすぴすぴと寝ていた。
「……おかえりなさい。」
「おー。ただいま、ヒマリ。」
父はヒマリに気がつくと、ひらりと片手を振った。それからその手で招く。ヒマリは素直に近づいて行くと、隣に座った。父の目がテレビへと戻る。
「友達とケンカしたんだって?」
ヒマリは応えない。うつむいてじっと自分の膝をにらむ。大きな手が伸びてきて、ぽんぽんと頭をなでられた。
「大丈夫だよ。明日には絶対仲直り出来る。」
軽い口調で言い切る父が恨めしくて、ヒマリはさらに頭を沈ませる。
「どうして?」
「そういうもんなんだよ。俺もそうだった。ケンカすると、次の日には問題が解決したり、謝るきっかけが出来たりするんだ。」
「ふーん。」
そんなうまくいくだろうか。どこに行ったか分からない消しゴムが、いきなりポッと出てきたりするだろうか。
ヒマリは自身のスカートの裾を、手でグシグシとすり合わせる。
「きっと、誰かが見守ってくれてるんだ。」
ぴたり。ヒマリの手が止まる。しばらく待っても父が続けないので、口を開く。
「それって、ヒナタと話してる人?」
「お前も話してたよ。」
「覚えてないよ、そんなの。」
「二人もそう言ってたなー。」
ヒマリのすねてそっけなくなった声に父が笑って応じた。
「小さい頃はお前も話してたんだぞって言われても、みんなそんなわけないって言うらしい。父さん、お前のおじいちゃんもそうだったってさ。」
「お父さんは、なかったんでしょ。」
「俺も全く覚えてないから、ホントはどうだったのか全然分かんないけどな。」
ケラケラ笑って、父がこちらを振り返る。
「でも、みんなと同じように、不思議なことはちゃんと起こったよ。」
頰づえにしていた手を入れ替えて、ヒマリの顔をのぞきこむ。妹はまだ眠っている。
「父さんに怒られた後、自分の部屋で泣いてたら、廊下から花びらが吹き込んできたりとか。すっごい失敗しちゃって、めちゃくちゃへこんでたのに、ちょっと寝ただけでスッキリしててさ、もっと良いチャンスが巡って来たりとか。」
また大きな手が伸びてきて、ヒマリの頭を乱暴にガシガシとなでた。
「ヒマリが願うなら、物事はきっともっと良い方へ巡っていくよ。目の前に来たチャンスを、ヒマリがつかもうと手を伸ばしさえすれば。ヒマリが幸せでありますようにって、お父さんもそう祈ってるんだから。」
頭を揺らされながら、ヒマリは考える。父の話はよく分からない。でも、ヒマリは口の中で、チャンス、とつぶやいた。
***
朝、学校に着くと、げた箱に面した廊下にフミカがいた。
背負ったランドセルを壁に押し付けるようにして立っている。ぎゅっと唇を引き結んで、じぃっとヒマリを見つめている。
おそらく、話をしようとヒマリを待ってくれていた。
でも、まだ許せないのかもしれない。彼女の口はへの字にゆがんでいて、目はうるんでいる。目元が赤く腫れているのは、きっとお互い様だろう。
何を言おう。
チャンスが来れば今度こそ謝るつもりだった。でも、心の準備が整う前に来てしまって、何から言えばいいのか分からない。
二人は廊下の端で向かい合ったまま、じっと黙っていた。
「フミカっ、ヒマリっ。」
向こうからハヅキが駆けて来た。後ろに同じクラスの女の子を一人連れている。いつも自分の席に一人でいる子で、ヒマリは話したことがない。
「なんだよお前ら、まってたのにっ。ぜんぜん来ねーから、二人とも休んじまったのかと思ったじゃんっ。」
すぐ近くまで来たハヅキへ、フミカの視線がじろっと移る。
「……めずらしいわね。あんたがこんな早くから来てるなんて。」
「んー、まあ、ちょっとな。それより、ケシゴム見つかったぞ。」
「えっ?」
朗報に、ヒマリとフミカが同時に声をあげる。瞬間、ハヅキの後ろに控えていた女の子ががばりと頭を下げた。髪がぱさりと彼女の顔を覆ってしまう。
「ごめんなさいっ! きのう、わたしがひろったの! 本当にごめんなさいっ!」
彼女はぱっと顔を上げると、握っていた手を解いてフミカへと差し出した。重ねた両手に、桃色の消しゴムが乗っていた。震えるその手から、フミカは奪うように消しゴムを取って、胸元へ引き寄せた。ぎゅうぎゅう握りしめる。
「よかったっ。よかったぁ……っ。」
涙をこぼしながら繰り返すフミカを見て、ハヅキがほっと息をついた。一度フミカへ視線を向けてから、ヒマリは女の子へ向き直る。女の子は我慢しているようだが、もう半泣きだ。
「あの、どこにおちてたの?」
「その、ろうかにおちてたの。ごめんなさい、すぐ教室にもどればよかったのに。わたし、お家のようじでいそいでたの。明日、先生にわたせばいいやって思っちゃって……っ」
言葉の途中で、ついに彼女の目が決壊する。ぶわっと涙があふれた。
「そのっせいで、こんなこと、に、なってるなんてっ知らなくて……っ。本当にごめんなさい……っ!」
わんわんと泣く二人を、げた箱から教室へと向かう児童達が不思議そうに見やる。
「ろうかまでころがってたんだ……。」
「だれかが、けっとばしたのかもな。」
ヒマリがつぶやくと、ハヅキがうなずいた。
ヒマリは一度息を吐くと、ぐっと胸の前で手を握りしめた。
「フミちゃんっ。」
フミカのぱっちりとした目がヒマリへ向く。ヒマリは彼女へ向き直って深く頭を下げた。
「ケシゴムおとして、ごめんなさい!」
あと何か、何か謝るべきことはないか。何て続ければ仲直り出来るんだ。
えっと、と次の言葉を悩むヒマリへとフミカが飛びついてきた。驚いて顔を上げたヒマリの首に抱きつく。
「わたしもごめんなさい! ヒマリちゃんっわざとじゃないって、どろぼうなんてしないって、ちゃんと分かってたのにっ! ごめんなさい! ゼッコウなんてヤダよぉっ。」
ヒマリに抱きついたまま、ひっくひっくとしゃくりあげる。昨日は驚く余裕なんてなかったが、いつもしっかりしているフミカのこんな様子は珍しくて、ヒマリは戸惑ってしまう。
でも、きっと、これで仲直り出来たのだ。
ヒマリはフミカの腕の中でみじろぐと、女の子、ミホを振り返った。ビクッと震えたミホに、違う違うと首を横に振る。
「ひろってくれてありがとう、ミホちゃん。」
「ホントたすかったよな。きのう、ろうかまではさがさなかったもんな、そういや。」
涙を手の甲で拭いながら、フミカもヒマリから離れてミホに向き直る。
「ひろってもらえなかったら、もっととおくに、けられちゃってたかもしれないものね。」
フミカがミホの手を無理やり引いて、上下に振る。
「お姉ちゃんにもらったケシゴムなの。本当にありがとう。」
「あの、でも、わたし……っ」
戸惑うミホの背をハヅキがぽんぽんとたたく。
「もうぜんぶカイケツってことで、教室行こーぜ。ずっとここにいるとさすがにジャマだろーし。」
三人でミホを押しながら、廊下を進む。
隣に並ぶフミカを振り返って、ヒマリは笑った。
***
「やっぱり、わたしの家、なにかいるみたいなの。」
校庭のチェーンジャングルジムに少女が四人集まっている。
おしゃべりの合間に一人がそう切り出すと、二人が、またその話か、と笑った。
残った一人が、え? と声をあげて目を丸くした。
END