ある朝、教室でランドセルを開けて、ヒマリは大きく目を見開いた。
ない。ペンケースがない。
昨日の内に時間割をそろえるのを忘れてしまって、今日の朝、慌てて中身を入れ替えたのだ。その時にペンケースを横に退けて、出したままにしてしまったのかもしれない。
どうしよう。
ヒマリが自分の座席で固まっていると、前の方からフミカとハヅキが近づいて来た。
「ヒマリちゃん?」
「どーしたよ、ヒマリ。」
「えっと、あの……。」
ヒマリが青白くなった顔を上げる。フミカが大丈夫? と心配してくれる。ハヅキは、空っぽのランドセルと机の上に投げ出されている教科書類を見て、ん? と首をかしげた。
「ヒマリ、ふでばこは?」
「……わすれてきちゃった。」
「え。」
「まじか。」
二人は驚いた顔をしたが、すぐに表情を緩めた。
「かしてやるから、んな顔すんなよ。」
「そうそう。すっごいしんこくな顔してたから、なにごとかと思ったじゃない。」
「あ。でも、ケシゴム一つしかねぇや。」
「なら、わたしがかすわ。もって来るわね。」
二人がそれぞれの席へと戻っていく。再び集まってきて、鉛筆と消しゴムを渡してくれた。
「うわーっ。二人ともありがとうっ。」
「まあ、エンピツはいっぱいあるからな。」
ふざけて、ははーっと二つをささげ持つ。ふわりと甘い匂いがして気がついた。
きれいな桃色の、花の形の消しゴム。フミカが普段から使っている赤いものと色違いのものである。
「え。これ、お姉ちゃんにもらったって、だいじにしてるやつでしょ。つかっていいの?」
「いいわよ。ヒマリちゃんはトクベツ。」
ふふっとフミカが笑う。
大事に使わなきゃ。今日はいつものように書き間違いを乱発することは許されない。
そう自分自身に誓ったはずなのに、今日はいつも以上にダメダメだった。花びらの端がちょっと削れてしまった。消しゴムなのだから仕方ないことだけれど、罪悪感に胸が痛む。
でも、もう五時間目も終わった。まだ帰りの会があるが、連絡帳なんて意味が分かれば良いんだから、多少書き間違えたって大丈夫だ。
動き始めたクラスメイト達にならって、後ろのロッカーからランドセルを持って来たヒマリは、自身の席について、ほっと息をついた。まず、さっきまで使っていた教科書とノートをしまおうと手に取る。
ヒマリの左横を、男子が通った。通路を挟んで隣の席は、その男子と仲の良い男子だ。席についていた彼が、にやりと笑って、通ろうとした彼の脇腹をくすぐった。不意打ちで攻撃を受けた彼は驚いてバランスを崩した。
彼がぶつかって、ヒマリの机が大きく揺れた。上に乗っていたランドセルがずれて、鉛筆と消しゴムが転がり落ちる。
「ったぁー! なにすんだバカ!」
「えー? お前がかってにぶつかったんだろー?」
腰と肘を打ち付けた男子は、痛みに涙目になりながら友人をなじる。くすぐった方の男子はケラケラ笑って謝りもしない。涙目の男子は怒って彼のイスの脚を数回蹴った。二人とも、自分達が起こした事故には気がついていない。
両手が塞がっていたヒマリは、反応が遅れた。
六面の鉛筆は、カラカラと音をたてて転がり、右隣の机の脚に当たって止まった。消しゴムは、ぽーんっと軽やかに跳ね上がって、視界から消えてしまう。
教科書とノートを机に放って立ち上がったが、もう消しゴムがどの方向に跳んでいったのか分からなかった。立ち尽くすヒマリへ、右隣の席の男子が鉛筆を拾って渡してくれる。
「あ、ありがと……。」
震える声で礼を言って、ヒマリはキョロキョロと床に視線をさ迷わせる。
黒板の前から先生が手をたたく。
「ほらー、帰りの会を始めますよー。席についてー。」
ガタガタとイスを鳴らして、みんなが席につく。ヒマリも仕方なく座った。みるみる顔を青くさせ、胸元に引き寄せた鉛筆をきつくきつく握りしめていた。
帰りの挨拶が終わると、ヒマリはすぐに床へ視線を走らせた。去っていくクラスメイトの上履きで見通しが悪い。
「ヒマリー。今日は公園行こうぜー。」
近づいて来るハヅキの声に思わず振り返る。ヒマリの表情を見て、ハヅキもフミカもぎょっと目を丸くした。
「はっ? どうしたっ? 朝より顔ひでーぞっ?」
「ケシゴム……。」
かすかに動いた唇からもれた声は今にも消え入りそうだった。ヒマリ自身にも、ちゃんと外へ発せられているのか自信がない。
「フミちゃんがかしてくれたケシゴム、どっか行っちゃった……。」
「え?」
「え……。」
こてりと首をかしげたのはハヅキ、ほうけて声をもらしたのはフミカだった。つい聞き返すしぐさをしたものの、すぐに言われたことを理解したハヅキが、きょろっと辺りを見る。
「なに、今おとしたのか?」
ヒマリは力なく首を横に振る。
「帰りの会の前……。」
「ケシゴムって、思ったより遠くまで行っちゃうんだよなー。」
人気の少なくなった教室をキョロキョロと見渡しながら、ハヅキが机の間を進んで行く。
ヒマリとフミカはそれぞれショックを受けていて、頭が正常に働いていなかった。同じ場所に立ち尽くしたまま、首と目だけを動かしてピンクの固まりを探す。
「高木さん? 三人ともどうしたの?」
他の女子と話していた先生が、話を切り上げて近づいてきた。呼ばれたフミカがはじかれたように顔を上げる。
「ケシゴム、なくしちゃって……。」
「あら。どんなの?」
「ピンクの、花の形のやつです。」
「誰か、見た人いない?」
教室を見渡して、先生が残っていた数人の児童に聞いた。みんな一様に首を横に振る。
「この教室で落としたの?」
こくこくとヒマリがうなずく。泣きそうになっている女子二人を見て、何人かが辺りを探してくれる。しかし、目立つピンク色はどこにも見当たらない。
いよいよ、ヒマリの視界が涙でにじんできた。
「あの、フミちゃん、」
謝らなくちゃ。せっかく貸してくれた消しゴムを、なくしてしまったんだ。謝らなくちゃ。
ヒマリは勇気を振り絞るため、大きく息を吸った。
「本当におとしたの?」
鋭い声に遮られる。ぱっちりとした目いっぱいに涙をためて、フミカがこちらをにらんでいた。
「もしかして、とったんじゃないの?」
「フミカっ。ヒマリがそんなことするわけねーだろっ!」
フミカの言葉を、間髪入れずにハヅキが否定してくれる。フミカからぶつけられた視線と言葉がショックで、ヒマリはもげるのでないかというほど首を激しく振った。
「そんなことしないよっ!?」
「じゃあ、なんでないのっ。教室でおとしたんなら、どこに行ったのっ?」
「そんなの、分かんないよぉっ。」
「二人とも、落ち着いてっ。」
少女特有の高い声が、混乱と怒りで調整を失い教室に響く。先生が慌てて間に入ったが、二人、特にフミカは治まらない。ひぐっとしゃくりあげた。
「お姉ちゃんが……っ」
くれたのに。
うまく息が出来なかったのか、言葉はかすれてかき消えた。
「ヒマリちゃんだからかしたのにっ。こんなのってひどい! もう、ヒマリちゃんとはゼッコウだから!」
ぼろぼろと涙をこぼしながらヒマリをにらみつけて、そうたたきつけると、フミカは走り出した。
「おいっフミカ!」
自分の横を通りすぎるフミカを捕まえようとしたハヅキが、キッとにらまれてたじろぐ。フミカはそのまま教室を飛び出して行ってしまった。
廊下を駆ける足音が、パタパタと遠ざかって消えた。
シャツの裾を握りしめたまま、ヒマリは教室にぽつんと一人残っていた。
先生やハヅキと何か話したような気がするが、内容は何も覚えていなかった。「まだ探す」と、そう、口走った気がする。
「ケシゴム……。フミちゃんのケシゴム、どこかな。」
静かな声がぽつりと落とされる。ヒマリはもう一度教室内を見て回ると、廊下に出た。
とぼとぼと、遠い方の校舎端まで行き、窓の外を見ながら十秒数える。そして、できるだけゆっくりと教室に戻った。
教卓の上に消しゴムがある、なんてことはない。
ヒマリの机にも、フミカの机にもない。どこにもない。
ここはお家じゃないから、おまじないは効かない。
ぎゅうっとシャツをつかむ。息を吸うと、ひっと喉が引きつった。
***