廊下の向こうから、玄関の引き戸の開く音が響く。誰か帰ってきたのだ。ばたばたと騒がしい足音はヒナコのものだろう。もうすぐ中学生だというのに、落ち着きのかけらもない彼女に椎は自然と笑みをこぼす。丁度押し入れから出ていた椎は、壁際に座ったまま彼女を待った。
廊下に続くふすまが開く。
「ヒナ……」
ヒナコはじっと部屋を眺めると、つかつかと奥に進んだ。いつもなら真っすぐ自分に飛びついてくるのに、常とは違う彼女の行動に、椎は口にしかけた彼女の名を思わず飲み込む。彼女は押し入れのふすまを開けると、のぞき込んで首をかしげた。
「椎?」
「ヒナコ?」
そちらも呼んだくせに、椎の呼びかけには答えずにヒナコはうろうろと部屋を出て行く。なぜか向けられてしまったその背を追うように椎は立ち上がる。
「ヒナコ、どうしたの?」
「椎? 椎、どこー?」
迷子になった猫を探すように、きょろきょろとあちこちの部屋をのぞき込むヒナコの姿に、椎の素足が冷たい廊下で立ち止まる。動かなくなったのは足だけではなくて、凍りついてしまったように椎は全身をこわばらせた。大きく目を見開く。
その目に映るのは、自分を探して遠ざかって行く彼女の背中。
……今朝は見えていたのに? 聞こえていたのに?
「ヒナコ……っ。」
「椎っ? 椎ったらどこにいるの?」
奥の部屋まで見終わったのだろう、行きと同じく、いや行きよりも注意深く部屋をのぞき込みながらヒナコが戻ってくる。
「椎? めずらしいね、椎からかくれんぼしかけてくるなんて。でもね、こういうのはちゃーんと、鬼決めてからやらないと公平じゃないよ。」
幼い頃から今まで、自分は好き勝手に人を鬼にしたり鬼になったりと気まぐれに過ごしているというのに、今更お前が公平さを人に説くのか。
本当にワガママな子だと、いつもなら苦笑するのに。椎の顔は目はヒナコを見つめたまま動かない。
「仕切り直しよっ椎っ。じゃんけんから始めるの。」
何かを押さえるように、ヒナコはやけに早口で文句を紡ぎ続けた。始めの部屋に戻る。
カラフルなおもちゃや、人形の家、紙の工作があふれる押し入れは開け放たれたままで、そこには誰も居ない。だって、押し入れの住人は今、廊下に立ち尽くしているのだ。
「……っ私の、」
ヒナコは大きく息を吸って言葉を吐き出そうとした。彼女の肩が胸が膨らんだ。彼女以外誰もいない部屋に息を吸う音が大きく響く。それは子供が泣き出す準備によく似ていた。
「私の、負けで良いから出てきてよっ! そんでリベンジ! 二回戦!」
木霊するほど大きく大きく声が響く。軽く息を吐きながらヒナコはそこにじっと立っていたが、返ってこない声にしびれを切らしたのか、部屋を飛び出して家中をかけずり回った。
「椎……っ椎ったら……っねえっ」
もう自分をごまかせなくて、ぽろりと涙がほほを伝った。
「私、言ったよ。いなくなっちゃヤダって言った……っ。」
「ヒナコ、私ここにいるよ。」
「置いてったら許さないって……っ私言ったよ……っ!」
「置いてってないよ。いるよ。私、ここにいるよ。」
「言ったよ、ヤダって、私、言った……っ言ったよ椎っ!」
人より長かっただけなのだ。
人より「不思議」が見える期間が長かっただけなのだ。
ただ、それだけだったのだ。
探し疲れて、泣き疲れて、部屋の隅でうずくまるヒナコを椎はそっと抱き締めた。呼んでも、触れても、抱き締めても、もうヒナコは椎が分からなかった。もう、椎を見なかった。
誰かと話せないことがこんなに寂しいなんて知らなかった。
隣から声が返ってこないことがこんなに悲しいなんて知らなかった。
***
次の春、ヒナコは中学生になった。あの日からしばらく、どんよりと落ち込んで周りに心配をかけたが、今はもう、本来の明るい彼女に戻っていた。
セーラー襟の制服を着て、元気に家を飛び出して行く姿を見て、椎はほっと胸をなで下ろした。ヒナコが元気でいてくれれば、それだけで良かった。
14歳。ヒナコが友達とケンカをした。いつかのように、どんよりと雨雲を背負って椅子の上で丸まっている。自分自身をあやすように、時折体を揺すっている。その背を、椎はとんとんとたたいた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
16歳。ヒナコが失恋した。せっかく何日も何日も告白の言葉を練っていたのに、あっけなく玉砕した。机に突っ伏して、ぐずっと鼻を鳴らしている。その頭を、椎はよしよしとなでた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
17歳。ヒナコは大学に進学を決めた。毎晩毎晩、遅くまで勉強しているから、無理をしているのではないかと心配だ。今も机で背を丸めて寝ている。その背に、椎は引きずって来た毛布をかけた。
「大丈夫。君は幸せになるよ。」
18歳。ヒナコが遠くの大学に受かった。発表日は、小さな頃のように家中をぴょこひょこ跳ね回っていた。もうそばで見守れないことは寂しかったが、彼女の頑張りが報われたのだと、うれしかった。寝ているヒナコの顔を、椎はそっとのぞき込んだ。
「君は幸せになるよ。」
ずっと祈ってるよ。遠く離れてしまっても、変わらずに。
ヒナコがいない春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、春が来て、季節がぐるっと巡った。ヒナコの兄が女の人を一人連れてきた。その人はこの家の新しい住人になった。
また景色がぐるっと巡って、次の年の夏、新しい住人が生まれた。小さな小さな住人。その子は父親より、母親より、祖母に似ていた。……叔母に似ていた。
赤子の頭をなでると、彼がにぱぁーっと笑った。笑い方は同じ頃の父親と同じだった。
その子が歩き回るようになると、椎はその子に会わなくなった。
姿を見られるのが恐かった。声を聞かれるのが恐かった。存在を知られるのが恐かった。一方的で構わないのだ、自分の想いは。もう、自分のせいで大切な人が泣くのは嫌だった。
幸せになって欲しいのだ。
***
春が来た。お隣の庭の木がひらひらと薄紅色の花びらをこぼしている。それが地面を覆っていくのを、椎は窓からぼんやりと眺めた。
今日はあの子の入園式だ。泣いていないだろうか。友達はできるだろうか。両手を重ねてぎゅっとにぎる。目をつむる。
ガラッと引き戸が音をたてた。はて、と首をかしげる。今日は住人全員が、あの子の入園式に出向いているはずだ。耳を済ませていると、パタパタと二人分の足音が響いてきた。
「なあ、誰もいないんだけど。」
「あれー? おかしいなぁ。……あ! ヒロくんの入園式って今日か!」
「お前……っ。そういうのは事前にちゃんと確認しとけよ!」
「んー、ちゃんと聞いたんだよ? ちゃんと聞いたんだけど、忘れたの。」
「お前なぁっ。」
あっけらかんと笑う女性に、隣の男性がこめかみを押さえた。どこかで聞いたようなやり取りだ。十数年間見守ってきたやり取りと、よく似ていた。隣で応える人は変わったけれど。
「ヒナコ……?」
聞こえないのは分かっていた。それでも名前を呼ばずにはいられなかった。
髪が肩を越える長さまで伸ばされていて、最後に見た時よりずっと大人びて見えた。けれど、声と笑顔は少しも変わっていなかった。あの頃のままのヒナコだった。
隣に立つ男性が恋人なのか友人なのか、椎には分からなかったが、ただただ、うれしかった。ほっとした。涙があふれた。
遠く離れた場所、自分には分からない場所でもヒナコはちゃんと元気だった。隣にいてくれる人を見つけていた。笑い合える人がいた。
ちゃんと幸せだった。
「おかえりなさい、ヒナコ。」
***
窓際に座って、外を仰ぎ見る。網戸の向こうで、青い青い空にもこもこと膨らんだ雲が浮かんでいる。扇風機の風切り音を、染みてくるセミの鳴き声がかき消していた。雲の縁を目線でなぞっていると、ぽすり、と何かが腰にぶつかってきた。
「あー。」
四つんばいの赤ん坊が頭から突っ込んできたらしい。ぷくぷくの手が帯をつかんだ。それは気にした様子もなく、赤ん坊の後方へと目を向けた。
5歳の少女がお気に入りのイルカのぬいぐるみを抱き締めて、くーくーと寝息をたてている。妹が横からはい出したからだろう、タオルケットが乱れて布団の上からはみ出していた。
「ちぃー。」
赤ん坊が無理やり膝に乗り上げて来る。それはため息をつくと、赤ん坊の腰を抱えた。体を反転させてやって、相手の背と自分の腹がつくようにする。赤ん坊はうごうごと身じろぎして、収まりが良くなると、うれしそうにそれを見上げた。
「ちぃー。」
きゃっきゃっとはしゃぐ彼女の頭を、それはなでる。
「君は幸せになるよ。」
私がいっぱいいっぱい祈るよ。
END