翌朝、藤枝さんにクッキーのお礼を言うために、早めに家を出た。

 昇降口で待つこと十五分。

「柿原君?」

 予想よりも早く、藤枝さんが来た。

 藤枝さんは靴も履き替えずにいた俺を見つけ、不思議そうな表情を浮かべている。

「おはよう、藤枝さん」

 コミュニケーション能力を失ったのかというレベルで、ぎこちない言い方だった。

 藤枝さんはそんな俺を笑う。だけど、バカにした笑いには見えない。普通に俺の話し方がおかしいだけだろう。

 俺は普通に、恥ずかしい。

「おはよう、柿原君」

 挨拶を返してもらった。たった、それだけ。それだけのことなのに。

 俺はこんな小さなことに幸せを感じている。

「柿原君は、ここで誰か待ってるの?」
「藤枝さんを待っていたんだ」
「私?」

 藤枝さんはさらに首を傾げる。

「昨日のクッキーのお礼が言いたくて」

 納得したように頷いたけど、驚いているようにも見える。

「そのためだけに、こんな朝早くから待っててくれたの?」
「まあ……そうなる、かな」

 偶然プレゼントしたものに対してお礼を言うために待ち伏せされるのは、困るだろう。冷静に考えればわかるようなことなのに、俺は今まで気付かなかった。

 藤枝さんと出会って、自分らしくないことばかりしているような気がする。

「柿原君って律儀なんだね。気にしなくてもいいのに」

 そして途切れる会話。

 緊張しているのか、言葉のキャッチボールができない。

 少し前まで、まるで詐欺師のように言葉を並べて遊んでいたのが嘘のようだ。

「柿原君の口にあったかな?」

 俺がなにも言わないでいたら、藤枝さんが問いかけてくれた。

「めちゃくちゃうまかったよ」

 小学生のような感想に、笑えてくる。

「よかった。柿原君の好みも聞かないで押し付けるように渡しちゃったから、ちょっと気になってたの」

 藤枝さんは安心した笑顔を見せる。

 それを見ただけで、俺は今日来てよかったと思えた。

「柿原君は、私を待っていたんだよね?」
「うん」

 本当にコミュニケーションが下手になっている。ここまで下手になるとは、自分でも驚く。

「よかったら、一緒に教室行かない?」

 これ以上一緒にいたら、俺がどんどんかっこ悪くなる。

「いいの?」

 そんなところは見せたくないのに、思っていることと出てきた言葉が真逆だ。

 もう、自分がわからない。

「私が聞いたんだよ?」
「そうだったね」

 そして俺たちは並んで教室に向かった。
 あの遊びをしなくなってからというもの、昼休みが暇で仕方ない。

 蒼生とも話す機会が減って、一人時間が増えてしまった。

「夏輝」

 無意味に数学のノートを眺めていたら、名前を呼ばれた。

 顔を上げると、蒼生が悪い笑顔をして立っている。

「あんなこと言ってたくせに、あの子といい雰囲気になってるみたいじゃん」

 からかうように言ってくる。

 だけど、俺はその気がないから、蒼生との温度差がひどい。

 俺は反応しないで、ノートに視線を戻す。

「遊びで近付いてるわけじゃないから」
「まだそんなこと言ってるの? 夏輝が始めた遊びなのに」

 蒼生は不服そうに言う。


 俺が女子に告白させるという遊びを始めたのは、些細なことがきっかけだった。

 高校生になって、俺は数人に告白をされた。でも恋愛に興味がなかったし、特に気になる子もいなかったから、すべて断った。

 それはなかなかに苦痛で、どうにか楽しいことにできないかと考えた。

 そして思いついたのが、告白してくるように仕向けて、断るゲーム。さらに、それを賭けにする。

 それは想像以上に楽しかった。

 それから、『告白させることができるか』がいつの間にか、『どれだけの期間で告白させることができるか』になった。ターゲットのほぼ全員に告白され、できるできないでは賭けにならなくなったからだった。

 本当に、最高で最低な暇つぶしだった。


 でも、もうやりたくない。

「もしかしてさ、夏輝、あの子のこと本気で好きになってない?」

 蒼生に言われて、俺は顔を上げた。

 なるほど。

 藤枝さんの笑顔に癒されていたのも、うまく会話ができなかったのも、恋愛を遊びでできなくなったのも、俺が藤枝さんを好きになったからか。

 俺は一人で納得した。

 しかし、この気持ちを藤枝さんに伝える勇気はない。もし伝えたとして、断られたら死ぬほどつらいだろう。

 それに、告白して断られるとどうなるか、嫌というほど知っている。

 関わらない。知り合う間に戻ってしまう。

 それだけは、嫌だ。

 人を好きになって、俺はやっと自分がやっていたことがどれだけ最低だったかがわかる。

「ちょっと、聞いてる?」

 蒼生は見るからに不機嫌だ。

「聞いてるよ。俺はもうあのゲームはしない。藤枝さん……彼女といるのは、ゲームとか関係ないから」

 それをわかっておきながら、火に油を注ぐような言い方をしてしまった。

 せっかく戻りかけた関係を、俺はまた切ろうとしている。

 蒼生は面白くなさそうな顔をすると、そのまま俺の席を離れていった。
 本格的に一人で過ごす時間が増えてきた。しかしその時間は、藤枝さんを探す時間と言っても過言ではない。

 だけど恋を自覚して、藤枝さんに話しかけることすら、緊張してできなくなった。

 藤枝さんのクラスの前を通るとき、教室にいないか探したり。廊下を歩いていて、藤枝さんが向こうから歩いてこないか、変に期待したり。

 そうやってこそこそしていたのに、藤枝さんは俺を見つけると、俺のところに駆け寄ってくる。

 俺の気も知らないで、藤枝さんは無邪気に笑う。

「なんだか久しぶりだね」
「そうだね」

 俺が話すことを避けていたからね。

「知り合ったばっかりなのに、数日会えなかっただけで寂しかったな」

 反応に困る。いや、内心かなり喜んでいるけども。それを素直に言うのは恥ずかしい。

 というか、この言葉でちょっと期待している自分がいる。

 藤枝さんも、俺と同じように思ってくれているような。

 ……なんて、俺の勘違いだろうけど。でも、そうであってくれたら死ぬほど嬉しいわけで。

「……藤枝さんって、好きな人とかいる?」

 話の流れを無視した質問に、藤枝さんの表情が戸惑いを見せる。

「どうして?」

 戸惑っている藤枝さんを見ていたら、答えは気になるけど、聞きたくないという気持ちが勝ってきた。

「夏輝が藤枝さんのことが好きで、藤枝さんに好きな人がいないか気になってるからだよ」

 その質問をなかったことにしようとしたのに、俺の台詞に被せるように、誰かが言った。

 藤枝さんの後ろに、蒼生が立っている。

「柿原君が、私を……?」

 藤枝さんが蒼生を見ているから、今どんな表情をしているのかわからない。

 だが、取り返しがつかなくなってきたことだけはわかる。こんなことになるなら、はやく自分の言葉で言っておけばよかった。

「……蒼生、邪魔するなよ」

 俺はそれしか言えなかった。

「そうだよ。あと少しで、柿原君をふることができたのに」

 耳を疑った。

 だが、俺の言葉に続くように言われたそれは、たしかに藤枝さんの声だ。

「もしかして、わざと夏輝に近付いたの?」

 俺が混乱している間に、蒼生が聞いた。知りたいけど、知りたくない。

「近付いてきたのは、柿原君だよ? 私はなにもしてない」

 そうだ。俺があの日、藤枝さんに目をつけたのは、偶然だ。藤枝さんはただ俺とすれ違っただけ。

 俺がターゲットを決めるのは基本的に気分だし、藤枝さんがなにか仕掛けていたとは思えない。

「でも、あとは演技かな」

 その一言は、俺を絶望の沼に突き落とした。

 だけど、これが俺たちがしてきたことだ。藤枝さんに文句を言うことはできない。

「どうして、そんなこと……」

 ただ、どうしても理由がわからなかった。

 俺が聞くと、藤枝さんは振り向いた。今まで隠されていた敵意が、剥き出しになっている。

「柿原君たちは、綾乃を……私の友達を傷つけた。人が一生懸命勇気を振り絞って告白したのを、ゲームにして。お金を賭けて。人の気持ちで遊んでいたことが許せなかったから」

 藤枝さんがゲームのことを知っていたことにも、ショックを受けた。

「なんだ、柿原が奏羽に近付いてたわけじゃないんだ」
 すると、俺たちの間に流れている重い空気を読まずに、女子が会話に入ってきた。

 二人いるが、片方は藤枝さんがクッキーをくれたときにいた。もう一人は数日前、藤枝さんに声をかける直前に告白してきた女子だ。

 彼女が、藤枝さんの友人だったのか。

「綾乃……美波?」

 藤枝さんは状況を飲み込めていないように見える。しかし俺も彼女のセリフに違和感があった。

「美波が奏羽と柿原が仲良くなってるって言っててね。奏羽が柿原につきまとわれてるなら、助けなきゃと思って来たんだけど」
「ま、待って……どういうこと……?」

 藤枝さんが代表して質問する。俺も蒼生も、彼女たちの返答を待つ。

「柿原夏輝と真城蒼生が女子で遊んでいるってのは、女子全員が知ってるってこと」

 簡潔な答えだった。だが、それは俺を思考の迷路に誘う。

 俺だけではない。蒼生もまた、理解しきれていないらしい。

 俺たちは、二人そろってなにも言えなかった。

 女子は優しくされたくらいで告白するほど単純な生き物だと思っていた。だが、実際は女子のほうが何枚も上手だったらしい。

「女子のグループで、柿原たちのことが回ってきたんだよ。女子に告白させようと近付いてくるから、さっさと解放されたかったら、嘘でも告白したほうがいいって」

 美波と呼ばれていた女子が、そう言いながら藤枝さんにスマホを見せている。

 絶対に告白されたのも、期間が短くなっていたのも、そういうことだったのか。自分の力だと思っていたから、恥ずかしくてしかたない。

「奏羽はスマホ持ってないから、柿原たちのこと知らなくて困ってるんじゃないかと思ってたけど……」

 綾乃は俺を最大限にバカにして鼻で笑う。

「あんたが騙されてたんだ?」

 今すぐ逃げ出したかった。

 でも、足は動いてくれない。

「……俺に告白してくるとき、手を震わせてたくせに」

 少しでも反撃したかった。だから、あのときの記憶を呼び起こした。

 それなのに、綾乃はますます俺を嘲笑う。

「あれは、嘘がバレたらどうしようって不安になってただけ。あんたのことなんて、一ミリも好きじゃないから」

 一切関係ない美波が舌を出して、挑発してくる。

「柿原君に告白した次の日休んでたのは、断られてショックだったから、じゃないの……?」

 そういえば、俺がもらったクッキー。あれは、綾乃が休んだから、俺の手元にやってきたものだ。

「違う違う。夜遅くまで漫画読んでて、寝坊しただけ」

 藤枝さんは拍子抜けした顔をする。

「じゃあ、私だけなにも知らなかったんだね……余計なこと、しちゃった」

 藤枝さんは申しわけなさそうに笑う。それを見て、胸を締め付けられる。

「なに言ってんの。奏羽のおかげでめちゃくちゃすっきりしたよ。ありがとう」

 綾乃の言葉で、藤枝さんの表情に一気に安堵の色が見える。そんな藤枝さんの頭を、美波が優しくなでる。

 俺たちは、その様子を黙って見ておくことしかできない。

「ところで、なんで奏羽は柿原たちのこと知ってたの?」

 美波に聞かれ、藤枝さんは目線を落とす。

「綾乃が告白してくるって言ったあと……気になって、こっそり見てた……ので……その……盗み聞きして、ごめんなさい……」

 ただでさえ小柄だった藤枝さんが、さらに小さくなる。

 そうか。俺たちのあの最低な会話を聞いていて、そのときあれのことを知ったのか。

 俺はそれも知らずに、藤枝さんに声をかけた。だから藤枝さんは、あのとき俺を睨んだのだ。

 友人の気持ちで遊んでいた相手に声をかけられて、いい気はしないだろう。むしろ、怒って当然だ。

 というか、謝るのは藤枝さんではない。

 俺たちのほうだ。

「……あの」

 そう思って声を出すと、綾乃が鋭い視線で俺を見た。

「もしかして謝ろうとしてる?」

 綾乃に言われ、謝罪の言葉は喉につっかえて出てこなくなった。

「人の気持ちをゲームにして、謝って済ませようなんて、随分と愚かな思考回路。まあ、そうじゃないと、あんな最低なことはしないだろうけと」

 綾乃は言うと、藤枝さんを連れて行ってしまった。

 俺と蒼生だけが残されたが、お互いなにも言えなかった。
「騙すようなことして、本当にごめんなさい」

 放課後、藤枝さんは俺のクラスにやってきて、頭を深く下げて俺に謝った。

 その結果、俺たちは教室内にいる人ほぼ全員の視線を集めた。

 まさか彼女に謝られると思っていなくて、俺は戸惑いを隠せない。

「……場所、変えよう」

 俺は動揺したまま、藤枝さんを廊下に連れ出す。藤枝さんは申し訳なさそうな顔をやめてくれない。

「謝らなくていいよ」

 優しく声をかけると、藤枝さんとやっと目が合った。

「怒ってないの?」
「俺が怒るなんて、できると思う?」

 意地の悪いことを言ってしまった。首を横に振ってくれてもいいのに、藤枝さんは困ったように俯いた。

 きっと、藤枝さんは本当に優しい人だ。俺みたいな、最低な人間が関わっていい人じゃない。

「藤枝さんに言っても仕方ないってわかってるけど、もう女子には近付けないだろうから、言っておくね」

 藤枝さんは不思議そうな目をして俺を見る。

 もう、可愛いとか、好きだとか、思うべきじゃない。

「今後一切、人の気持ちで遊ぶようなことはしないし、女子にも近付かない。迷惑かけてごめんって、言っておいてくれるかな」

 自分の口で伝えるべきだとはわかっている。

 だけど、綾乃にああ言われてしまった以上、こうする以外、謝罪の方法がなかった。

「それと……嫌な思いをさせて、ごめんね」

 俺は藤枝さんになにかを言われる前に、その場を離れる。

「柿原君!」

 まさか呼び止められると思っていなくて、俺は大げさに振り向いてしまった。

「……全部が嘘だったわけじゃ、ないからね」

 それがどれだけ俺を慰めてくれているか、藤枝さんは知らない。でも、教えるつもりもない。

 藤枝さんの優しさに付け込んで、俺たちがしてきたことをなかったことにするわけにはいかない。

「……そっか」

 女子の嘘告白に気付けなかった俺が、藤枝さんの嘘を見抜けるはずがない。どれが嘘で、どれが本当の藤枝さんだったのか聞きたくてもできず、それしか言えなかった。

 俺は藤枝さんに背を向けて歩き始める。それと同時に、頬に一筋の涙が伝った。


 嘘だった。なにもかも。

 でも、藤枝さんのことは本当に好きだった。

 だとしても、俺が藤枝さんの隣に立つ資格はない。

 これは、純粋で幸せな気持ちを偽らせた報いだ。


 さよなら、好きな人。どうか、君が幸せになれますように。


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