その日から、藍佳の日常は一変した。

 確実な時代考証が可能だから時代劇を描く。そんなふざけた動機から作られたネーム(のようなもの)は全部捨てた。そして自分の中に潜り込む。
 特に今回の一見で味わった色んな感情。それをゆっくりとかき混ぜていく。北斎が言う通り、何度も、何度も……。

 会社から帰宅するとまっすぐデスクに向かう。そして日付が変わるまでノートに鉛筆を走らせ、何が描けるか、何を描きたいか。模索し続ける。
 目隠しされて、細い迷路をくぐり抜けるような作業。分岐点があれば、片方を進み、駄目だったら分岐点へ戻る。行き止まりだったらまた最初から。
 書いては消し、描いては消しを日付が変わるまで繰り返す。そして、4時間寝たら早朝にもう3時間、デスクに向かった。

 昼休みの時間は睡眠に回した、好きじゃない話題をじっとやり過ごすよりも遥かに有意義な時間の使い方だ。最初はソレで仕事がやり辛くなる事を覚悟した。が、思っていたほどの影響はなかった。
 考えてみれば社内の人間関係で最も濃密な関わり合いは、ランチタイムそのものだった。だからその場に参加しなければ、嫌味を言われるような場もないのだ。最初こそ戸惑いの眼で見られたけど、3日もすれば「そういう人だから」と周囲の認識が変わるだけだった。

 それより閉口したのは、聖矢からの怒涛のメッセージ攻勢だ。あの日の一件は、自分も状況証拠だけで判断したような所があった。それに考えてみれば、藍佳だっていえ年上の異性との同居を隠している。事情があるとはいえ、彼氏に対して誠実な態度とは言えない。だからメッセージの内容次第では。もう一度話し合ってもいいかなと思っていた。

 しかし、メッセージの内容は言い訳になってない言い訳と、すぐにわかる嘘のみ。殊勝な気持ちもすっかり消え失せて、藍佳は躊躇なくブロックのボタンを押した。
 そしてあの日撮った写真と、そのメッセージのスクショを、個人特定がされないように加工して裏アカウントで公開した。裏垢は見事に炎上。印刷所の悪徳営業が女性作家を食っているという噂はまたたく間に広まった。

 「被害者を増やさないために」という大義名分で、本名や印刷所のさらしを迫るゲスな声もあったけど、全部無視した。こういう手口があるんだと、同性の作家に注意喚起ができればそれで良い。それに一応はお世話になってきた印刷所に、迷惑を掛けるのも本意ではない。
 ただ特定しようとする動きはどうしたって出てくる。それを止めようとも思わなかった。顧客情報を悪用してのセクハラなんて言語道断だし、解雇でも何でもされればいい。
 何にしても藍佳は、この問題にこれ以上関わるつもりはなかった。貴重な人生。これ以上、あんな奴ごときに浪費するのはまっぴら御免だ。