江戸東京博物館。北斎通りの突き当りにある、台形に4本の足を生やしたような巨大建造物。ここには、江戸東京の文化・歴史にまつわる資料が展示されている。東京の下町観光の定番スポットだ。
 北斎通りにはもう一つ、定番の美術館がある。そこに北斎を連れて行くと、どんな反応があるか興味あるけど、それはまたの機会にしよう。

「こりゃ……たまげたな」

 北斎は慣れないマスクをモゴモゴさせながらつぶやいた。彼が目を奪われたのは、エントランスにある日本橋の模型を渡った先のジオラマだ。江戸時代の日本橋付近の賑わいが何十分の1かの模型で再現されている。

「細かいところには違いがあるが、俺の知ってる日本橋の景色じゃねえか。するとこっちがお武家さんのお屋敷かい?」

 北斎は子供のように、隣りのジオラマ展示に駆けていく。

「ははぁ、何度か中に()ぇったことはあるが、こんなまざまざと見たことねえ」
「ホクサン、あっちには江戸城もあるよ」
「なんだって!」

 今度は反対側だ。祝日とはいえ、折からの外出自粛ムードが幸いした。館内に客はまばらにしかいないため、北斎の奇行に迷惑するような人がいない。

「っかぁ~! これよこれ! これが見たかったんだよ俺は……!」

 北斎はガラスの仕切りから上半身を乗り出すようにして江戸城のジオラマを眺める。今にも頭から転がりそうな態勢なので、藍佳は慌てて北斎の身体を引きずり下ろした。

「トンビの眼が欲しくて火の見櫓に昇ったりもしたが、それだけじゃたりなかった。こうやって、真上から千代田の御城を眺めたかったんだ!」

 江戸城は日本橋や武家屋敷よりもさらに小さな縮尺だ。無数に並ぶ本丸御殿の屋根を眺めていると、なるほど確かに空を飛んでいるように感じる。

「しかし姉サン。この御城ちょっと違《ちげ》ぇな、オレが生きてた時分より百年以上昔のもんだ」
「えっそんなことわかるの?」
「たりめぇよ。江戸っ子ならわからない奴ぁいないと思うぜ」

 そう言いながら北斎は、本丸の隅にある天守閣を指差す。

「千代田の御城の天守は、明暦の頃に焼け落ちてる。文化文政の頃にあんなもんはねえさ。そういやさっきの殿様屋敷もオレらの時分のものじゃねえな」
「なるほど……」

 江戸の大火の話は授業で習った。けど、藍佳の頭の中では江戸の街といえば、大きな通りの奥に立派な天守閣が鎮座しているイメージが出来上がっていた。

 そっか、ホクサンは実際に目で見て知ってるんだ。江戸時代を。

 ふと気づく。『フォーティチュード・ジーニアス』のカツシカホクサイが顕著な例だけど、藍佳は和テイストのキャラクターが好きだ。いつかそんなキャラが出てくる作品を書きたいとも思っている。
 けど、どうしてもそこに踏み込めない。自分の知識と取材能力に自身が持てないからだ。○○警察と呼ばれる人たちの厳しい目を恐れると、自然とジャンルは現代ファンタジーに絞られてしまう。
 でも今目の前には、最強の時代考証・監修役がいるじゃないか。北斎に見てもらえば、自分でも説得力のある時代劇が描けないだろうか?

「よし!『君メト』路線は中止! 新刊は時代物で行こう!」