それは、まさに水色の風だ。
走れば走るほど、顔をなでる風が心地よかった。大好きな(ほう)ロックの歌詞、「ミズイロ炭酸水」のフレーズみたいで、まさに彼は詞の住人そのものだった。
そんな千紘(ちひろ)先輩の走りに(あこが)れて、つられるようにして同じ部活に入った。
先輩と同じトラックを走るのは最高に楽しい。つらいことはあるけど、それ以上に楽しくて、毎日がきらめいていた。

でも、どうしたって彼と同じ歳にはなれない。別れは否応(いやおう)なしにやって来る。
先輩が陸上部を引退する時、あたしは部室のロッカーの中でこっそり泣いた。なんでロッカーに入ったのかは思い出せないけど、誰にも見られたくないというあたしなりの乙女心なんだと思う。
ほんの一年前なのに当時を事細(ことこま)かに思い出すのは無理な話。受験勉強でそれどころじゃなかったしね。
部活ばかりで勉強がおろそかだったから、志望校を決めたときには先生や親には反対されるし、すったもんだ()めた。でも、(あきら)めるわけにはいかなかった。
その理由はやっぱり先輩だ。これだけは鮮明に思い出せる。


(すず)やかな顔で校庭に佇む彼は、卒業生の中でも一際(ひときわ)異彩(いさい)を放っていた――ように見えたのは、感動が足りないせいだろう。織田(おだ)千紘先輩は校庭でのんびりと大きく伸びをした。

「あーあ、これで俺も卒業かー。こういう時こそ、思いっきり走りたいね」
「ですねぇ。風が冷たくて気持ちいいだろうなぁ……ところで、先輩。高校でも部活やるんですか?」

訊くと彼は「ううん」とあっさり否定した。
その答えが意外で、あたしは「うぇぇっ?」と変な声を上げてしまう。

「なんで! もったいない! 先輩の走り、すっごく好きだったのに」
「え? そうだったの?」

先輩も意外そうな表情をした。目を開かせて驚いている。
いやいやいや、だって、大会では上位候補常連だったし、うちの部のエースだし、部長としてなんだかんだ引っ張ってきてくれたし、てっきり走るのが好きなんだとばかり思っていた。
それなのに、あたしの期待を裏切るように千紘先輩はきっぱりさっぱり「辞めるよ」と言った。

「不満そうだな。なんだよ、そんなに続けてほしいの?」
「そりゃあもう。先輩の走り、好きだから」

ごにょごにょと言ってみる。
そのとき、なんだかあたしは先輩の顔が見られなかった。先輩が背高くて良かったなーと思いながら、咳払いしてもう一度きちんと言ってみる。

「好きでしたよ、水色の風って感じで」
「水色の風かぁ。詩的な感想だなぁ……なんだっけ、BreeZeの曲?」

「BreeZe」はあたしが好きなスリーピースロックバンド。最近、メジャーデビューをして人気急上昇中の若手ロックバンドだ。かっこいいギターとドラム、ベースのサウンドに青春が詰まった歌詞がいい。
トレーニング用のBGMを動画サイトであさっているときに偶然見つけたのをきっかけに、彼らの曲を聴くようになったものの、周囲での認知度は高くない。
密かな推しバンドだったので、まさか先輩も知っているとは思わなかった。今度はあたしが目を丸くした。

「そう! 水色の風がなびくーって曲! 一年の春、先輩の走りを見て、それで陸上部に入って……」

おっと。テンションにまかせて口が勝手に滑っていく。なんという不純な動機(どうき)だろう。
だけど、先輩は笑っていた。いつも寝ぼけた顔のくせに、笑えばふわんと柔らかくなる。

高嶺(たかみね)にそう言われると嬉しいなぁ」
「本当にそう思ってます?」
「本当だよ。なんで疑うの?」

疑うのは恥ずかしいからですよ。気づけ。
まったく、無防備(むぼうび)に笑いながら「嬉しい」なんて言えちゃうの、どうにかしてほしい。調子に乗っていろいろあれこれ(しゃべ)っちゃいそう。
あたしは意味もなく空を見上げ、話題を変えた。

「高校、都心なんですよね。遠いなぁ」
「うん。でも、俺は(りょう)に入るから別に困らないんだ」

そうじゃなくて。あたしが会いたい時に会えないじゃんって言いたいの。言わないけどさ。

「あぁ、そうだ。高嶺も来たらいいよ、来年」
「え、えぇ?」

まさか先輩からそう言われるとは思わず、あたしは変な声を上げた。
期待に胸が高鳴るも、すぐに風船みたいにしぼんで気持ちが沈む。

「でもぉ、桐朋館(とうほうかん)高校ってぇ、偏差値(へんさち)高くないですかぁー?」
「なんでそんな嫌そうな言い方を……確かに高いけどさ。頑張れば行けなくもないし」

そう言いながら千紘先輩は卒業証書が入った筒を肩に乗せて笑った。

先輩は走る以外じゃパッとしないし、短い髪には寝癖がついてるし、寝ぼけてるし、ニキビもちょこちょこあって、かっこいいとは言えない。イケメンじゃない。後輩男子には慕われるけど、女子からの人気はあんまりない。先輩自身、女の子と話すのは苦手らしいし。でも、あたしとは普通に気軽な感じで喋ってくれるんだよね。
と言っても、お互いに走ることしか興味がなく、話題も部活中心だった。それで充分だった。彼の走る姿に目を奪われて以来、あたしはいつも彼を追いかけている。

「うーん……」

先輩を追いかけるのがあたしの目標だ。先輩がそう言うなら、そうしましょう。
確かに、先輩と同じ学校に通いたい気持ちはある。部活だって先輩に憧れて入ったくらい、あたしの思考は簡単で単純だ。
だから、血反吐(ちへど)を垂れ流して猛勉強した。いやぁ、頑張ったよ。ほんと、よくやった。冬休みは自分でも引くくらいピリピリしてたし、でも、この努力はなんとか(むく)われた。

三月十五日。つぼみがついた桜の真下(ました)、合格発表のボード前であたしは「やったぁぁ!」と歓喜の声を上げた。

 ***

「制服よし! 髪型よし! カバンよし!」

小さな駅舎にある鏡に制服姿を映して気合(きあい)を入れる。
部活を引退してから伸びっぱなしの髪の毛を昨日、美容院で整えてもらった。サラッとしたセミロングに、前髪は軽くバングを入れて。ちょっと重たいかなぁ? と、鏡をもう一度見てみる。
白地のセーラーが桐朋館の制服。(えり)は深い紺。スカートのふちには白いライン。カバンのストラップには部活時代のミサンガとBreeZeのロゴキーホルダーをくっつけた。よし、完璧。

華弥(かや)ちゃーん、早くしないと電車乗り遅れちゃうよ」

駅員さんから声をかけられるまで時間に気が付かなかった。慌てて改札を抜けると「うん、かわいいかわいい」と駅員さんが適当に言ってきたけどそれどころじゃない。
電車に飛び乗って、いざ出陣(しゅつじん)。いよいよ、薔薇色(ばらいろ)の高校生活が始まる。ワクワクしないわけがない。
電車に揺られながら、あたしはスマートフォンを取り出してトークアプリを開いた。

「今から登校します、っと」

千紘先輩に連絡を入れる。とは言え、現在七時。先輩、まだ寝てそうだなぁとぼんやり考えていた。
都心に近くなればなるほど人がどんどん乗り込んでくる。ちらほらと同じ制服の子がいたり。桐朋館高校は偏差値が異常に高い最難関(さいなんかん)高校だけれど、そのぶん自由な校風のようで、校則がゆるい。中学校とは別世界なんだと、千紘先輩から教えてもらった。
一年間、彼とは一度も会っていない。トークか電話だけ。電車で一時間の場所までそう毎日行けないしお金もないから本当に久しぶりだった。
どうしよう。いつでも会えるんだと思うと緊張しちゃう。体の中がざわつく。

「次は、桐朋館高校前ー」

アナウンスを聴けば、心臓が大きく跳ね上がった。

 ***

教室に入ると、廊下側の女子たちが密やかに話をしていた。入学してまだ二日目。心が(おど)ってそわそわしてしまうのは、あたしだけじゃないらしい。

「見た? 門の前で先輩たちがいちゃついてるの」

校門前で……あぁ、なんか仲良さそうに腕組んでた人たちがいたような。さすが高校生。堂々とそんなことをやってのけるなんて。あたしも先輩と付き合えたらそんな風に出来るのかなぁ、なんて。おっと、妄想(もうそう)のせいでにやけてしまう。
時間を見ようとスマホを出す。

【クラスどこ?】

千紘先輩から通知が着ていた。まったくもう。先輩も浮足立(うきあしだ)ってるのかな。気が早い。
【C組ですよ】と返事しておく。ふぅ。ひとまずは落ち着こう。
周囲を見回し、知らない子ばかりの中でぽつんといる。一人の子が多いから浮いてないので一安心。
ふぅ……二度目の息をついたその時だった。

「あ、高嶺ー」

教室のドアから柔らかに落ち着いた男子の声が聴こえた。高身長の男子が手を振っている。周囲には友人と思しき数人の男女が。上履きが一年上のカラーで青色だ。
廊下側の子が口をぽっかり開けている。他の子たちも目をぱちくりさせている。かく言うあたしもそうだった。
ウェーブのかかった髪に、小麦色よりちょっと(うす)い肌、目元は少し眠たそうで柔らかい。多分、カッコイイ部類。
えっと、あたしが呼ばれたのか……なんで?

「千紘ー、クラス間違えたんじゃねぇの?」

背後の友人男子が言う。

「いや、だってそこにいるし」

そう言って、彼はあたしを指差した。(あわ)てて席を立ち、廊下に出る。先輩男子は小首を傾げてあたしを見下ろした。

「久しぶり、高嶺」
「ま、まさか、千紘先輩……?」

言ってみると、彼は眠たそうな目をぱちぱち(しばたた)かせた。

「俺の顔、忘れたのかよー、酷いなぁ」

のんびりと柔らかな口調……千紘先輩だ。
いや、でも待った。あの眠そうで寝癖ついたままで、走る以外じゃパッとしない先輩はどこにいったの。
あたしは思わず後ずさった。

「ほ、ほんとに、千紘先輩……?」
「うん……なんでそんなに疑ってんの」

それは、だって、疑わしく思えるほど、あたしの好きな人は一八〇度変貌(へんぼう)していたのだから。
どういうこと? いや、どうもこうも一年経てば人は変わるものなのかな。彼が本当に織田千紘であるのか疑わしい。対して先輩は……のほほんとしている。
うーん。こののんびりマイペース感。
やっぱり、千紘先輩だ。この雰囲気は確実に先輩。走る以外の場ではゆるーい空気を(ただよ)わせている。

「やっぱり急に突撃したらビビるだろ」

周りにいた友人たちが千紘先輩を冷やかす。すると、彼は不満げに(くちびる)をとがらせた。

「だって、俺の後輩だよ? 頑張って入学したんだもんね、高嶺」
「う……は、はい……えぇ、まぁギリギリ……」

待って、無理。声が小さくなっていく。口からエクトプラズムでも出てるんじゃないかな。とにかく恥ずかしさで顔が熱い。
あたしは顔を俯けてしまった。だって、先輩の周りには友達がたくさんいて、楽しそうでキラキラで眩しい。中学の時もなんだかんだ好かれていたけど、こんな風に「青春」をひた走ってるタイプじゃなかった。ぼやんとしてたくせに!
でも落胆(らくたん)はない。むしろ、前よりドキドキする。まともに顔が見られないくらいに。

「高嶺ちゃん? 可愛いねぇ。恥ずかしがっちゃって」

千紘先輩の横にいた女子があたしの顔を覗き込んできた。いいにおいがして、あたしはますます後ずさった。

「コラ、あんまり近づいたら(おび)えるだろ」
「だって織田の後輩見たかったもん。初々(ういうい)しいわぁ。若いっていいよねぇ」

(おだ)やかな会話が繰り広げられている。なんだろう……なんでこんな状況になっているの。どこにも逃げ場がない。
別にあたしは人見知りではない。でも、慣れない環境でいきなりこんな洗礼(せんれい)を受けるとは思わないじゃない。大人数は卑怯(ひきょう)だ。
固まっていると、頭上でチャイムが鳴った。「あっ」と先輩たちが声を上げる。千紘先輩は苦笑しながら言った。

「それじゃね、高嶺。また気軽に連絡してきていいから」
「えっ、あ、はい……それじゃあ、また……」

ぎこちなく片手を挙げると、先輩たちはバタバタと自分たちの教室へ帰って行った。嵐が去った……と思いきや、あたしをじっと見つめてくる同級生たちがいた。

「ねぇ、今のって知ってる先輩?」

興味津々のご様子。素朴(そぼく)なのとちょっと派手めな女子。相対的な二人が身を乗り出して()いてきた。これはきちんと説明しなくては。
まぁ、会話のきっかけが出来たことはありがたい。とりあえずは千紘先輩に感謝しておこう。