振り返れば羽倉課長が立っている。
担当は営業二課――要するに拓斗の上司だった。

五十過ぎの白髪交じりの人物で比較的温厚なのだが、いまは笑顔のふりをして頬やこめかみがひくついている。
すぐ後ろに坂井が立っていた。さっき坂井が電話していた相手は羽倉課長だったのか。

「えーっと。課長、何か――?」

「ふふふ。奥崎くんこそ、私に何か話があるのではないのかね?」

羽倉課長の笑顔が怖いのか、心陽が拓斗の背後に隠れた。

小さく拓斗のスーツの裾を掴んでいる心陽の手がとても小さい。

「えっと、特別、これと言ったことは」

「いやいやいや。ゆっくり話を聞くよ? 扶養家族が増えたときの手続きとか大事でしょ?」

妙に踏み込んでくる羽倉課長が、ちょっと煙たい。

「いえ……その……」

「受付は会社の顔だからね。あんまりこんなところで騒いじゃいけないじゃない?」

羽倉課長がひくつく笑顔のまま拓斗の肩を抱いてエレベーターに向かった。

小さな心陽はびっくりした顔で固まっていたが、我に返ってリュックサックを背負い直す。

「パパ、まって」

「パパじゃねえ!」

閉まりかけのエレベーターに心陽も飛び込んだ。


営業二課のフロアの奥の会議室で、拓斗は羽倉課長からあれこれと詰問されたが、拓斗自身、何が起こっているか分からない。

「その子は、奥崎くんのお子さん、でいいのかい?」

「いいえ、違いますよ」と拓斗。

「パパ!」と心陽が拓斗を睨む。

一事が万事この調子だった。

おかげで羽倉課長は「奥崎くん、やはりきみは……」と疑ってくる始末。
拓斗としては泣きたいのはこっちだと叫びたかったが、幼稚園児くらいの女の子が相手では分が悪い。

頭を何度もかきながら、拓斗は心陽の目を見て言った。

「じゃあ、心陽。ちょっと教えてくれ。おまえのママの名前は何て言うんだ?」

起死回生の質問のつもりだった。

現に心陽はふっと目を逸らす。

ほら見ろ、何かしら裏があるんだ、と追求しようとしたが、できなかった。
羽倉課長が立ち上がると、拓斗を引っ張って応接室の外へ連れて行ったからだ。

「奥崎くん。きみは何て残酷な質問をするんだ」

「残酷って。当然じゃないすか。俺はあの子を知らない。あの子は俺をパパだとか言ってる。じゃあ、ママは誰よって話でしょ?」

「見なかったのか、あの子の悲しげな目を。今日のところはおまえの子供ということにしておいたらどうだ。落ち着けばいろいろ話してくれるかもしれない」

拓斗はうんざりする思いで心陽を見る。

大人用の椅子に座った心陽が足をぷらぷらさせていた。

「……俺にはかわいげのない目に見えますけどね」

「何か言ったか?」

「いいえ。今日のところは連れて帰ります。ということで、今日はもう上がっていいですよね?」

この場を切り上げたい一心で適当に話を振ってみたのだが、意外なことに羽倉課長は認めてくれた。

「仕方ないだろう」

「明日のコンビニ惣菜部のプレゼン資料、課長にお願いしていいっすか」

と、ダメ元で図に乗ってみる。

「……やむを得ないな。今回だけだぞ」

「あざーっす」

ちょっとだけ心陽に感謝した。