咲乃の声だけが、暗闇の中で響く。
「ごめんね、玲ちゃん……ごめんなさい」
咲乃は、私に謝っていた。
なぜ咲乃が謝る。謝るべきは、私だろう。お前がつらい思いをしているときに、そばにいてやれなかった。
私に黙っていてほしいとわがままを言ったことを謝っているのか?
だがそれは、咲乃の優しさだ。やはり、謝るようなことではない。
お願いだ、咲乃。私の大好きな笑顔を見せてくれ。それだけで、この暗くてどうしようもない世界が輝いて見えるから。
これも、言えなかった。なによりも伝えたいことだというのに、言えないとは。
悔しくて俯くと、視界の端にいたはずの光が消えた。
顔を上げると、咲乃の姿がどこにもない。
「咲乃、どこにいる」
皮肉なことに、咲乃がいなくなってから声が出た。
どこを見ても暗闇で、なにも見えない。どれだけ咲乃を呼んでも、私の声が反響するだけだった。
諦めたくなくても、頭をよぎって仕方ない。
咲乃は、もうどこにもいないのだと。
◆
飛び起きた。
息が乱れている。
首元を強く掴み、どうにか落ち着かせる。
咲乃に会いたい。
咲乃の笑顔が見たい。
夢のせいで、そんなことを思った。
そして、咲乃がこの世にいないことを思い出す。
呼吸は一向に整わない。
そのうち、涙が頬を伝った。思いっきり泣いてやりたかったが、夜中なので、声を殺して涙を落とし続けた。
「咲乃……」
ベッドの上で足を抱えて座り、会いたくて仕方ない彼女の名を口にした。
◇
その夢は、何度も見た。
いつも暗闇の中で咲乃が泣いていて、そのうち消えていなくなり、闇に包まれてから、夢から覚める。
咲乃がいないという現実を嫌というほど知らされているような気分だった。
そして、現実の私の世界から色がなくなってしまったような気がした。
同時に、なにもしたくなくて、部屋から出ることも少なかった。
だが、悲しいことに腹は減った。
ただご飯を食べるためだけに、部屋を出る。母さんと鉢合わせになることが数回ほどあったが、なにも言われなかった。
挨拶程度はされていたと思うが、返す余裕がなく、会話をしていなかった。
今日も喉が乾いて、キッチンに向かう。
食器棚からコップを取り出し、水を注ぐ。無音のリビングに、その音がよく響く。
その状況が、夢を思い出させた。
咲乃の泣き声。咲乃が謝る声。私が咲乃を探す声。
忘れようとしたが、ふと気になった。
咲乃は、夢の中で何度も、私に謝っていた。
何度も、何度も、何度も。
なにをそんなに謝っているのだろう。
咲乃はこの世を去る前に、私に謝らなければならないようなことをしたのだろうか。
私には思い当たる節がない。
咲乃のことなのに、わからない。
ずっと不思議だったが、気に停めていなかった。それよりも、咲乃がいないことを受け止めるので精一杯だった。
しかし急に、咲乃のことで知らないことがあるのが、嫌になった。
なんとしてでも、咲乃が謝る理由を知りたい。
そう思ったとき、母さんが帰ってきた。
「おかえり」
母さんはカバンをその場に落とし、私に抱きついてきた。
展開に追い付けず、母さんを呼ぶしかできない。
だが、母さんはひたすら力を込めてきた。
「母さん、痛い。離してくれ」
離れてくれた母さんは、泣いていた。
私はますます混乱した。母さん相手だからか、どうすればいいのかわからない。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。玲が会話してくれたことが嬉しくて」
私が声をかけるだけでここまで喜んでくれるとは思っていなかった。
咲乃がどうしようもなく大切で、咲乃がいない世界なんてどうでもいいと思っていたが、私の世界にいたのは、咲乃だけではないのだ。
母さんだって、大切にしたい一人だ。悲しませてどうする。
「……ごめん」
「なんで玲が謝るの。気持ちを整理するための時間だったんだから、気にしないの」
母さんは軽く私の肩を叩いた。それからカバンを拾ってソファに置くと、コートを脱ぐ。
「玲、今日のご飯どうする? なにか食べたいもの、ある? 今日はなんでも作れそうな気がする」
本当に嬉しいらしく、妙にテンションが高い。
だが私は、またこの笑顔を奪ってしまう。
「咲乃が死んだ日のことが知りたい」
母さんの質問には答えなかった。今決めたことを、決意表明として言った。
予想通り、母さんの表情が固まった。
話の流れを無視したことに驚いたわけではないだろう。それはわかっている。
「どうして?」
さっきとは打って変わって、抑揚のない言い方だった。
母さんなりに理解しようとしているのかもしれない。
「少しずつ咲乃がいない現実を受け止められるようになってきた。でも、母さんを責めるわけではないが、咲乃にちゃんとお別れを言っていないから、心のどこかですべて嘘だったのではないかと思っている。だから私は、咲乃の最期を知らなければ、先に進める気がしない」
複雑そうだ。
だが、母さんは笑った。
「玲が思うようにやればいいよ」
自分から言っておきながら、本当にいいのか、と言いたくなった。
しかしやめておこうと首を横に振り、ありがとうとだけ伝えた。
「でも玲、どうやって知るの? 歩道橋の階段から落ちたってだけじゃダメなの?」
私がそれなりに回復したからだろうが、母さんは遠慮なく、その話題に触れてきた。
いくら受け入れられたと言っても、完全に前を向いたわけではないのだ。もう少しだけ気を使った言い方をしてほしかった。
しかし、どうやってと言われると、難しい。
「もしかして無計画?」
警察ではないのだ。なにかしら思いついているほうがおかしいだろう。
「瑞歩ちゃんたちに聞くわけにもいかないだろうし……」
「ごめんね、玲ちゃん……ごめんなさい」
咲乃は、私に謝っていた。
なぜ咲乃が謝る。謝るべきは、私だろう。お前がつらい思いをしているときに、そばにいてやれなかった。
私に黙っていてほしいとわがままを言ったことを謝っているのか?
だがそれは、咲乃の優しさだ。やはり、謝るようなことではない。
お願いだ、咲乃。私の大好きな笑顔を見せてくれ。それだけで、この暗くてどうしようもない世界が輝いて見えるから。
これも、言えなかった。なによりも伝えたいことだというのに、言えないとは。
悔しくて俯くと、視界の端にいたはずの光が消えた。
顔を上げると、咲乃の姿がどこにもない。
「咲乃、どこにいる」
皮肉なことに、咲乃がいなくなってから声が出た。
どこを見ても暗闇で、なにも見えない。どれだけ咲乃を呼んでも、私の声が反響するだけだった。
諦めたくなくても、頭をよぎって仕方ない。
咲乃は、もうどこにもいないのだと。
◆
飛び起きた。
息が乱れている。
首元を強く掴み、どうにか落ち着かせる。
咲乃に会いたい。
咲乃の笑顔が見たい。
夢のせいで、そんなことを思った。
そして、咲乃がこの世にいないことを思い出す。
呼吸は一向に整わない。
そのうち、涙が頬を伝った。思いっきり泣いてやりたかったが、夜中なので、声を殺して涙を落とし続けた。
「咲乃……」
ベッドの上で足を抱えて座り、会いたくて仕方ない彼女の名を口にした。
◇
その夢は、何度も見た。
いつも暗闇の中で咲乃が泣いていて、そのうち消えていなくなり、闇に包まれてから、夢から覚める。
咲乃がいないという現実を嫌というほど知らされているような気分だった。
そして、現実の私の世界から色がなくなってしまったような気がした。
同時に、なにもしたくなくて、部屋から出ることも少なかった。
だが、悲しいことに腹は減った。
ただご飯を食べるためだけに、部屋を出る。母さんと鉢合わせになることが数回ほどあったが、なにも言われなかった。
挨拶程度はされていたと思うが、返す余裕がなく、会話をしていなかった。
今日も喉が乾いて、キッチンに向かう。
食器棚からコップを取り出し、水を注ぐ。無音のリビングに、その音がよく響く。
その状況が、夢を思い出させた。
咲乃の泣き声。咲乃が謝る声。私が咲乃を探す声。
忘れようとしたが、ふと気になった。
咲乃は、夢の中で何度も、私に謝っていた。
何度も、何度も、何度も。
なにをそんなに謝っているのだろう。
咲乃はこの世を去る前に、私に謝らなければならないようなことをしたのだろうか。
私には思い当たる節がない。
咲乃のことなのに、わからない。
ずっと不思議だったが、気に停めていなかった。それよりも、咲乃がいないことを受け止めるので精一杯だった。
しかし急に、咲乃のことで知らないことがあるのが、嫌になった。
なんとしてでも、咲乃が謝る理由を知りたい。
そう思ったとき、母さんが帰ってきた。
「おかえり」
母さんはカバンをその場に落とし、私に抱きついてきた。
展開に追い付けず、母さんを呼ぶしかできない。
だが、母さんはひたすら力を込めてきた。
「母さん、痛い。離してくれ」
離れてくれた母さんは、泣いていた。
私はますます混乱した。母さん相手だからか、どうすればいいのかわからない。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。玲が会話してくれたことが嬉しくて」
私が声をかけるだけでここまで喜んでくれるとは思っていなかった。
咲乃がどうしようもなく大切で、咲乃がいない世界なんてどうでもいいと思っていたが、私の世界にいたのは、咲乃だけではないのだ。
母さんだって、大切にしたい一人だ。悲しませてどうする。
「……ごめん」
「なんで玲が謝るの。気持ちを整理するための時間だったんだから、気にしないの」
母さんは軽く私の肩を叩いた。それからカバンを拾ってソファに置くと、コートを脱ぐ。
「玲、今日のご飯どうする? なにか食べたいもの、ある? 今日はなんでも作れそうな気がする」
本当に嬉しいらしく、妙にテンションが高い。
だが私は、またこの笑顔を奪ってしまう。
「咲乃が死んだ日のことが知りたい」
母さんの質問には答えなかった。今決めたことを、決意表明として言った。
予想通り、母さんの表情が固まった。
話の流れを無視したことに驚いたわけではないだろう。それはわかっている。
「どうして?」
さっきとは打って変わって、抑揚のない言い方だった。
母さんなりに理解しようとしているのかもしれない。
「少しずつ咲乃がいない現実を受け止められるようになってきた。でも、母さんを責めるわけではないが、咲乃にちゃんとお別れを言っていないから、心のどこかですべて嘘だったのではないかと思っている。だから私は、咲乃の最期を知らなければ、先に進める気がしない」
複雑そうだ。
だが、母さんは笑った。
「玲が思うようにやればいいよ」
自分から言っておきながら、本当にいいのか、と言いたくなった。
しかしやめておこうと首を横に振り、ありがとうとだけ伝えた。
「でも玲、どうやって知るの? 歩道橋の階段から落ちたってだけじゃダメなの?」
私がそれなりに回復したからだろうが、母さんは遠慮なく、その話題に触れてきた。
いくら受け入れられたと言っても、完全に前を向いたわけではないのだ。もう少しだけ気を使った言い方をしてほしかった。
しかし、どうやってと言われると、難しい。
「もしかして無計画?」
警察ではないのだ。なにかしら思いついているほうがおかしいだろう。
「瑞歩ちゃんたちに聞くわけにもいかないだろうし……」