いや、そんなことはどうでもいいのだ。

 三日前に私が会いに来たときには、咲乃はいなかった。それなのに、私は違和感に気付けなかった。

 別の悔しさが込み上げてくるばかりで、不思議と、嘘をついて隠していた瑞歩さんに苛立つことはなかった。

「咲乃、玲ちゃんに会いたいって言ってたよ。自分で知らせないでって言ったのに」

 瑞歩さんは弱々しく笑う。

 その笑顔が咲乃と似ていたのと、咲乃の願いが嬉しくて、複雑な感情のまま、涙を落とした。
 涙が枯れるまで泣いたつもりだったが、まだ残っていたらしい。

「本当は、すぐにでも回復して、何もなかったように玲ちゃんと過ごそうとしていたの。でも急に体調を崩して、そのまま」

 その先は言わなかった。私としては、またそのワードを聞きたくなかったから助かったが、瑞歩さんは口にしたくなかったのだろう。

「咲乃の最後のわがままが『合格発表の日まで玲ちゃんに言わないで』だったから、玲ちゃんに言えなかったの。ごめんなさい」

 深く頭を下げてくる瑞歩さんに対して、私はただ首を横に振ることしかできなかった。



「その様子だと、咲乃ちゃんの家に行って来たね」

 一応、おかえりと出迎えてくれた母さんだったが、私の腫れ上がった目を見て、抱きしめてきた。

「母さんは知っていたのか?」

 普通なら、今日が合格発表だったから、不合格だったのではないかと思うだろう。

 それなのに、母さんは咲乃のことを言ってきた。それは、咲乃のことを知らなければ出てこないはずだ。

「黙っててごめん」

 母さんの力は少しだけ強くなった。
 普段は頼りなくてどうしようもない人だけど、久しぶりに、この人は私の親なのだと思った。

「瑞歩ちゃんに、咲乃ちゃんの最後のわがままを聞いてあげたいって言われて、言えなかった」

 私だって、同じ立場になれば、言えなかっただろう。母さんが気にすることではない。

 そう思ったのは確かだが、知っていたのであれば、言ってほしかった。

 瑞歩さんたちの気持ちはわからなくもないが、それでも、咲乃にお別れを言うくらいはしたかった。

 咲乃の家では言えなかった、私のわがまま。感じなかった怒り。

 母さんにぶつけたとしても、八つ当たりでしかないことは理解している。
 それでも、言わずにはいられなかった。

 私は母さんを突き放す。

「母さんたちが黙っていたから、私は咲乃に会えなかった。お別れが言えなかった。もう、一生会えないのに。卒業式の日が、最後だった。最後だとは思っていなかったから、なにを言って別れたのかなんて、覚えていない。最後の会話が、私の記憶にはないのだ。このつらさがわかるか? どうしてもっと、私の気持ちを考えてくれなかった? 私のことは、どうでもよかったのか?」

 当然、この程度では気が済まず、思いつく言葉をそのまま言っていった。その中にはきっと、母さんを傷つける言葉もあっただろう。

 だが、母さんはひたすら、黙って受け止めてくれていた。

 そのうち泣いて話せなくなり、また母さんの温もりに包まれた。
 瑞歩さんとは違う、感情を溢れさせる懐かしさのようなものがあった。

「ごめんね、玲。ごめん」

 母さんはただ謝るだけだった。説明も言い訳もせず、謝っていた。

 そんなふうにされると、なにも言えなくなってしまう。
 私の怒りは、涙として溢れ出た。

 どれだけ泣いたかわからない。ただ、咲乃の家では泣き疲れても落ち着いただけだったのに、ここでは眠ってしまったらしい。

 目が覚めると夕方になっていて、自分の部屋のベッドの上にいた。

 母さんがベッドに背中を預けて眠っていたのには、もっと驚いた。
 母さんの肩を叩くと、母さんはすぐに起きた。

「おはよう、玲。お腹空いてない? 玲が好きな卵スープ、作ってるよ」

 食べると言うと、母さんは嬉しそうに、安心したように笑った。
 それほど心配させてしまうくらい、私は泣いていたのだろうか。少し気になったが、聞けなかった。

 母さんが部屋を出るのについて行く。

「そうだ、玲。学校から受け取るはずの資料、もらってこなかったでしょ」

 母さんがスープを温め直している間に皿を出していたら、そんなことを言われた。

「ああ、忘れていた」

 自分でも驚くくらい、声が出なかった。
 どうやら、泣き叫びすぎたようだ。

 しかしながら、それどころではなかったのだ。
 本来なら許されざることだが、今回ばかりは許してほしい。

「中村先生が届けてくれたよ。明日には持ってきてほしいって。それから、取り乱すようなことを言ってごめんなさいって」

 先生が謝る必要はない。むしろ、あのタイミングで教えてもらえてよかった。

 もし先生に聞いていなければ、私が知ったのは、もっと後になっていたかもしれない。だから、私は先生に感謝すべきなのだ。

「よし、できた」

 母さんが皿に注いでくれたのを受け取ると、食卓に着く。

 久しぶりに飲む卵スープに、喜びを感じる。

 どれだけ料理ができるようになっても、母さんの卵スープだけは作れなかった。
 気に入っているから自分で作りたいと思うのだが、唯一私よりも上手に作れるものだから、と教えてくれない。

 舌が火傷しないように、息を吹きかけて冷まし、一口飲む。
 これだ、と思った。いつも変わらない、私の好きな味。体に染み渡り、心が落ち着いていく気がした。



 そこは闇の世界だった。
 どこを見ても何も見えなくて、次第に自分がどこを向いているのかわからなくなる。

 その中で、光を見つけた。
 私の人生における光。それは咲乃だった。

 光がある場所に咲乃がいると思い、私はそこに向かって走った。

 予想通り咲乃が光の中心いたのだが、不思議なことに、一定の距離から近付くことができなくなった。

 さらに、咲乃は顔を覆って泣いている。

 どうした? と声をかけたいのに、思うように声が出せない。