どこに向かっているのかなんて、知らない。
 私の体力が尽きていることも、どうでもいい。

 とにかく走らなければと思った。

『白雪は卒業式の三日後に、亡くなった』

 先生のあの顔は、苦しい表情だったらしい。

 それを言ったときの声は、もう覚えていない。いろいろ説明してくれていたような気もするが、聞こえていなかった。

 ただ最初の内容を理解しようとすることで、精一杯だった。

 咲乃が。
 死んだ。

 ゆっくりと言葉を噛み砕くと、唐突に逃げ出したくなった。
 その現実が、嘘であってほしいと願い、駆け出した。

 目的地がわからないと言ったのは、訂正しておくべきだろう。
 私は、咲乃の家に向かっていた。

「そんな嘘、誰が言ったの?」
 そう言って、咲乃に笑い飛ばしてほしかった。

「私はちゃんと生きてるよ」
 その言葉で、安心させてほしかった。

 だが、それは妄想にすぎないのだと、すぐに思い知らされた。

「玲ちゃん……聞いたのね」

 出迎えてくれたのは、見るからに弱っている咲乃の母親、瑞歩さんだった。

 聞いたのね、とはどういうことなのか。
 それを質問することもできないくらい、私は息を乱していた。

 家に招き入れられ、瑞歩さんについて進む。
 咲乃の家に来るのは久しぶりだと喜んでいられるような雰囲気ではなかった。

 リビングに行くと、仏壇があり、そこに私が大好きな笑顔を浮かべる咲乃の遺影があった。

 私は動けなくなった。

 咲乃の両親は、こんな趣味の悪いことを冗談でやるような人たちではない。
 咲乃の両親でなくとも、これを冗談とする人はいないだろうが。

 瑞歩さんと宏太朗さんの弱り具合を見ても、それが現実なのだと思い知らされる。

 やっと、感情が追いついたのかもしれない。
 私はその場で、馬鹿みたいに声を上げて泣いた。

 自分の泣き叫ぶ声に耳を塞いでしまいたくなるくらい、酷い声だった。
 涙が溢れて、二人の反応を見ることはできない。気にする余裕もなかった。

 次第に立っていられなくなって、座り込む。

 幼子のように座り、両手で涙を拭う様は、きっと見ていられなかっただろう。

 それなのに、瑞歩さんの優しい手が背中に触れ、その瞬間、瑞歩さんに甘えるように胸を借りた。

 瑞歩さんは迷惑そうにするどころか、さらに頭まで撫でてくれていた。

 気が済むまで泣いていいよ。咲乃のために泣いてくれてありがとう。

 そう言ってくれているように思えた。



「事故だったの」

 私が落ち着くと、お茶を出してくれた。

 静かに、咲乃の話がされていく。
 私は耳を塞ぎたくなるような思いでいっぱいだったが、そうして逃げ続けるのは、咲乃から逃げているような気がして、できなかった。

「夜、歩道橋の階段から転がり落ちたらしくて」

 夜と歩道橋が繋がらなくて、そこで話を止めたくなったが、今の私ではまともに話せそうもなく、やめておいた。

「あのガキのせいだ」

 温厚な宏太朗さんにしては珍しく、口調が荒かった。

 あのガキ。
 きっと、新城隼人のことだろう。

「咲乃はあのガキと関わっていたから、巻き込まれたんだ。事故なんて、信じない。咲乃は殺されたんだ」

 声を上げる姿も、見たことがなかった。

 しかし、こうなるのも無理ないだろう。
 ただの友人にすぎない私が、あれだけ泣いたのだ。両親である二人の悲しみなど、想像できたものではない。

「いつまでもそんなこと言って……咲乃は足がもつれて階段から落ちたって言っていたでしょう?」

 瑞歩さんが宏太朗さんを宥めているが、それよりも引っかかることがあった。

「あの……」

 泣いた影響で、話し方はぎこちなかった。
 だが、そんなことはどうでもよくなるくらい、聞いておきたかった。

「咲乃は、階段から、落ちてすぐ、死んだわけでは、ないのか?」

 思っていた以上に、流暢に話せなかった。
 しゃくり上げながら、懸命に伝える。

「階段から落ちたのは、玲ちゃんの卒業式の二日後で、次の日に一度目を覚ましたの。そして、このことは玲ちゃんには言わないでほしいって。合格発表が終わるまで、秘密にしておいてって」

 そういえば、卒業してから咲乃には一度も会っていない。

 用もないのに中学校に行く気にはなれなくて、寒さ勝負に挑む気もなくなり、布団に籠っている日がほとんどだった。

 咲乃は学校があるから忙しいだろうと、会いに行こうとしていなかった。

 もちろんつまらない毎日だったが、この先も咲乃に会えない日が続くのだ、これはそれに慣れるための練習だ。春休みになってから、たくさん遊べばいい。

 そんな意味のわからないことを自分に言い聞かせていた。

 それは、間違っていたのだ。

 あれだけ咲乃を第一にしていたくせに、肝心なときに自分の欲を優先した。咲乃が苦しんでいるとき、そばにいてやれなかった。
 ずっと大切にしてきたのに、最期まで大切にできなかった。

 無意識に、拳を握る力が強くなる。手のひらに爪が突き刺さっているのもお構いなしに、握り締めた。

「だから、玲ちゃんがわざわざ会いに来てくれたのに、言えなくて、嘘をついてごめんなさい」

 瑞歩さんは深く頭を下げた。
 私は謝られることをされた覚えがなく、反応に戸惑った。

 そもそも、会いに来た記憶がない。

「覚えてない? 咲乃はいるかって、三日前に訪ねてきたのよ?」

 なんとなく覚えてはいる。たしか、委員会で遅くなっていると言われたのだった。

 それはもっと前の話だと思っていたが、冷静に考えてみると、毎日学校で会っているのに、そんな追い返し方をされるのが、卒業前なわけがない。

 咲乃と過ごしていない日々が退屈すぎて、時間感覚が狂っていたのかもしれない。