伊織さんに想いを伝え、そして伊織さんの想いを受け止めてからも私たちの生活は特にそこまで大きな変化はなかった。朝、私が作ったご飯を二人で食べ、伊織さんを見送り、掃除や家事をする。お昼ご飯と夜ご飯を二人で食べて、そして――二人で並んで眠った。
 布団は別だったけれど、伊織さんの隣で眠るのは最初は緊張してなかなか寝付けない夜もあった。でも、そんな私に気付くと、伊織さんはいつもそっと手を伸ばして私の冷たくなった手のひらを握りしめてくれていた。伊織さんの体温が手のひら越しに伝わると、安心して身体の中心から温まって、そしていつの間にか眠りについていた。

「ふふ……」
「どうしたの? 菫」
「あ、いえ。その……幸せだなって思って」
「僕も幸せだよ」

 夕食のあと、二人並んで窓から星空を見ていた。こんなふうに星空を見るのはいつぶりだろう。元の時代にいたときは、全然……。それこそ、あのキャンプの時ぐらい……。
 ふとあのキャンプのことを思い出して、懐かしい気持ちになった。たった三ヶ月前のことなのに、もう何年も前のことのような気がする。

「菫?」

 私はコトンと、伊織さんの肩に自分の頭をもたれかからせた。どうかしたのかと伊織さんが私を見つめてくるけれど、私は首を振って、それから目を閉じた。
 お母さんや椿、それに海里は私のことを心配してくれているかもしれない。でも、私は今、とっても幸せだから。だから……。みんなも私のことなんか忘れて、幸せに暮らしてくれるといいな……。


 翌日、仕事が休みだった伊織さんと一緒にご飯を食べて二人で片付けをしていると、伊織さんが何かを思いついたように言った。

「あとで、一緒に出かけないかい?」
「珍しいですね。どうかしたんですか?」
「いや、特にどうしたというわけじゃなくて、その……」
「?」

 口ごもりながら、伊織さんはなぜか私から目をそらす。いったいどうしたというのだろう……。

「伊織さん?」
「……だから、その……菫と二人でどこかに出かけたいなと思って、それで……」
「それって……!」

 デート……ってこと?
 この時代の人がなんて言うのかはわからないけれど、今のはきっとデートのお誘いってことだよね……? 伊織さんが、私を、デートに……。

「い、嫌なら……」
「行きます! 行きたいです!」
「そ、そうかい?」
「はい!」

 勢いよく返事をする私に、伊織さんは一瞬驚いたような表情をしたけれど、でもすぐに嬉しそうに微笑んでくれた。
 私はいつもよりも早く掃除や洗濯を終わらせると、伊織さんと一緒に外に出た。こうやって島の中を二人で歩くのは、この時代に来た最初の頃に伊織さんに島を案内してもらって以来だ。あのときは、ただただ何が起きているのかわからなくて、一日一日を過ごすことに必死だった。でも、今は……。

「菫」
「あ……」

 伊織さんは私の名前を呼ぶと、手をギュッと握りしめた。あのときとは違う、私たちの距離。それは、私たちがこの三ヶ月の間に過ごしてきた時間を物語っていた。

「ふう……」
「疲れた?」
「あ、ううん。大丈夫です」

 誰もいない砂浜に腰を下ろすと、思わず声が漏れた。そんな私を伊織さんが心配そうに覗き込むから、慌てて首を振って否定する。
 島のあちこちを歩き回る中で、たくさんの人に声をかけられた。みんな伊織さんがようやく奥さんを外に連れ出したと、興味津々で集まってくるようだった。
 そのたびに、はじめましてとどうぞよろしくお願いしますと挨拶をしていると、中にはなぜかよかったねえと涙ぐむ人もいた。これはもしかしなくても、伊織さん。だいぶ心配されていたのでは……? そう尋ねた私に、伊織さんは苦笑いを浮かべた。

「それが……。僕が菫を監禁しているとか、いやあれは僕の妄想なんじゃないか、とかいろいろ言われていたみたいで。何人かは菫のことを見かけたこともあったはずなのに……」
「ええ……?」
「妄想じゃない、というのは辰雄の言葉で信じてもらえたみたいなんだけど、でもずっと家の中に閉じ込めていたのはやり過ぎだと周りから言われたよ」

 閉じ込められていたわけではなく、外に出て話がかみ合わないのも困るし何か聞かれて上手く答えられる自信もなかったからほとんどの時間を家の中で過ごしていただけなんだけれど……。でも、そっか。周りの人から見たら私たちの暮らしはいびつなものに見えていたんだ……。

「今日ので誤解は解けました……?」
「多分ね。……まあ、明日は違う意味で質問攻めかもしれないけれど」
「どういう?」
「いや、なんでもないよ」

 そう言って笑うと、伊織さんは私の隣に腰を下ろした。磯の匂いがする。

「……菫、これなんだかわかるかい?」
「えーっと、やけに大きな貝ですけど……なんだろ」
「これはね、ハマグリなんだ」
「ハマグリって……あのお吸い物なんかに入ってるあのハマグリですか?」
「そうだよ」

 お店で売っているのを見たことはあるけれど、こんなふうに浜辺に落ちているのは初めて見た。まじまじと見る私の手のひらに、伊織さんはハマグリをのせた。それは思った以上に大きかった。

「へー! 私、売っているの以外を見るの初めてです」
「そっか。じゃあ、こんなことは知ってる? ハマグリの貝は二つとして同じ形のものがないんだよ。だから重なるのは世界に一つだけなんだ」
「そうなんですか。知らなかったです」

 お吸い物に入っているあのハマグリが、そんなロマンチックな貝だったなんて知らなかった。でも、どうして今そんな話を?
 疑問に思った私の手のひらからハマグリを取ると、伊織さんはその口を開け貝を真っ二つに折った。
 そして、半分を自分の手のひらに、そして残る半分を私の手のひらの上に乗せた。

「これって……」
「菫の持つその貝殻とピッタリ合うのは、僕が持つこの貝殻だけだよ。……なんて、ちょっとキザだったかな」
「そんなことないです! 凄く素敵だと思います!」
「そっか」

 恥ずかしそうに笑う伊織さんの隣で、私はもらった貝殻の片割れをギュッと握りしめた。そんな私を、伊織さんが優しく見つめていた。


 その日の夜、私はいつものように伊織さんの隣で眠りにつく。相変わらず二枚の布団を並べて寝ているけれど、いつの間にかその境界は曖昧になっていた。
 隣に眠る伊織さんを見ると、伊織さんも私を見つめていた。

「まだ起きてたんですか?」
「菫こそ」
「私は、なんだか眠れなくて」
「僕も」

 ふっと笑う伊織さんの表情に、ああ、やっぱりこの人のことが好きだなと思う。伊織さんと出会わなければ、今も私はお母さんや椿に対してマイナスな感情を持ったままだったと思うし、何よりもこんなに誰かを好きになることがあるなんて、知らないままだったかもしれない。
 何で私がタイムスリップなんて、って最初は思っていたけれど、でも……今は……。

「ふふ」
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。……あ、そうだ。ねえ、伊織さん。一つ聞いてもいいですか?」
「なんだい?」

 私はふと思い出して、ずっと聞けなかったことを聞いてみることにした。

「私が伊織さんのことを好きだって言ったときに、伊織さん私が元の時代に帰るから気持ちを伝えちゃいけないと思ってたって、そう言ってましたよね」
「っ……。よく、覚えているね」
「あれって……私が想いを伝えるよりも前から、私のことを想ってくれてたってことですよね?」
「…………」

 私の問いかけに、伊織さんは黙り込んでしまう。
 本当はずっと気になっていた。
 伊織さんは、私なんかのどこを好きになってくれたんだろうって。
 伊織さんの気持ちを疑ってるわけじゃないし、好きだと伝えてくれる言葉を、気持ちを信じていないわけじゃない。でも、やっぱり気になる。いったい、いつ、そしてどこを好きになったんだろうって……。

「笑わないかい?」
「え?」
「一目惚れだったんだ」

 そう言って、伊織さんは照れくさそうに笑った。
 一目惚れ……? 私に? 伊織さんが?

「浜辺に倒れている君を初めて見たとき、まるで天使が倒れてるんだとそう思ったんだ」
「天使って……」
「菫は知らないだろうけど、君が目を冷ますまでの少しの時間、僕は少し離れたところから君のことを見ていた」
「え……?」
「死んでいるのだろうか、それとも……。でも、それを確認することすらできなかった。君に見惚れたまま足が動かなかった。やがて目を覚ました君を見て僕の心臓は止まるかと思った。こんなふうに誰かに感情を全て持って行かれることがあるのかと驚いたよ」

 あのとき、私が目を覚ます前に伊織さんは私に気付いていたの……? そんなことって……。

「信じられないって顔をしてる」
「だ、だって……!」
「あのとき、君が目を覚まして慌てて僕は君の元に駆け寄ったんだ。他の誰かが君を見つけてしまう前にって。本当は警察に君を連れて行くべきだった。頭ではそう理解していた。でも、どうしても君を離したくなくて……怪我を理由に僕は自分の家に君を連れて行ったんだ」

 どうしてこんなに親切にしてくれるんだろうって不思議に思っていた。でも、警察に連れて行かれてたら、きっと意味不明なことを言う私は変な目で見られて頭のおかしな子だと思われていたに違いない。

「なんども悩んだ。今からでも君を警察に連れて行くべきだって。でも、日に日に君に惹かれていく自分がいた。くるくると回る表情に、自分にできることをしようとする健気な君に、僕のために……恐怖に立ち向かってまでオリーブを守ってくれた君に、どんどんと惹かれていったんだ」
「伊織さん……」

 そんなふうに想ってくれていたことが嬉しかった。でも……。

「軽蔑してくれてもいいよ」
「え……?」
「君は僕を優しい男のように言うけれどそんなんじゃない。ただ、君のことを他の人に渡したくなかっただけなんだ」
「伊織さん……」

 でも、私には伊織さんを責めることも軽蔑することもできない。だって、私だって嘘をついていた。

「私、本当は結構すぐに怪我、治ってたんです」
「え?」
「別にそこまで酷くなくて、軽い捻挫だったみたいで……。でも、追い出されるのが怖くて、知らない場所に放り出されるのが怖くて黙ってました。掃除をしたりご飯を作ったりしたのもそう。少しでも役に立てば、このままこの家に置いてもらえるかもしれないってそう思って。……ズルいですよね」
「そんなこと……!」
「でも、その選択が間違ってたとは思いません。ズルかったなとは思いますけど……でも、そのおかげで私は今、伊織さんと一緒にいることができて、こうやって」

 私は布団の中で、そっと伊織さんの手を取った。

「伊織さんと幸せな時間を過ごすことができてるんですから」
「菫……」
「ね?」
「……菫には適わないな」

 優しく微笑むと、伊織さんは繋いだ私の手をギュッと握りしめると、その手に――口付けた。

「なっ……」
「これぐらいは許して。本当は今すぐ抱きしめて菫に口付けたいのを我慢してるんだ」
「っ……でも、恥ずかしくて……」
「可愛い」

 もう一度繋いだ手に口付けると、伊織さんは私の身体を抱きしめた。包み込まれるように抱きしめられると、心臓の音とか体温とか全てが伊織さんと混ざり合ったような感覚になる。

「ふふ……」
「菫?」
「こうやってぎゅってされると、気持ちいい」
「君は……。わかっていってるのかい?」
「え?」
「……はあ。いや、なんでもないよ。君が眠りにつくまでこうやって抱きしめているから、ゆっくりおやすみ」

 伊織さんの声がすぐそばで聞こえる。この少し低くて優しい声も好き……。起きたら、それも伝えなきゃ……。
 そんなことを考えているうちに、私はいつのまにか眠りに落ちていた。
 
 
 歩き回って疲れていたのか、あっという間に眠りに落ちて――そして、目が覚めると真夜中だった。
 身体を動かそうとしてもビクともしなくて、ふっと顔を上げそういえば伊織さんに抱きしめられたまま眠ったのだと思い出して心臓の鼓動が早くなる。
 顔だけなんとか動かして隣を見ると、伊織さんはぐっすりと眠っているようだった。その寝顔に頬が緩んだ。
 ここに来てもう三ヶ月が経つ。元の時代のことを考えると少し胸が痛むけれど、それでも伊織さんがそばにいてくれるから寂しくはなかった。
 私は、枕元に置いた貝殻に手を伸ばす。この貝殻がピッタリと重なるのが本当に伊織さんの持つあの貝殻だけなのだとしたら、それを片方ずつ持った私たちもきっとずっと一緒にいられる。そんなことを考えると胸の奥があたたかくなるのを感じた。
 さあ、もう一度眠らなきゃ。朝、起きられなくなってしまう。明日の朝は、夕食のあとに醤油とみりんに漬けておいたぶりを照り焼きにしよう。フライパンの中で絡めるだけでも美味しいのだけれど、前の晩に漬け込んでおくことで臭みが消えてより美味しくなるのだ。
 貝殻を握りしめたままそんなことを思った、そのときだった。部屋の中に明るい光が灯ったのは。いったい何の光だろう。突然のことに驚きつつも必死に光源を探す。そして――ようやく、それを見つけた。

「蛍……?」

 それは、季節外れの蛍の光だった。いったいどこから入り込んだんだろう。戸締まりはきちんとしているはずなのに。
 隣で眠る伊織さんは、蛍の光が気にならないのか眠ったままだ。蛍の光のおかげで部屋の中はまるで昼間のように明るくなっているというのによく眠っていられるなぁ。でも、蛍か……。そういえば、あの日この時代にタイムスリップしてきたあの日も、蛍を見たなぁ。あの蛍も、凄く光ってて綺麗だった。
 懐かしく思いながら、蛍に手を伸ばす。すると、蛍は何の迷いもなく私の指先に止まった。
 まぶしい……!
 思わず目がくらんでしまうほどのまばゆさに違和感を覚えたときには遅かった。光はどんどんと輝きを増し部屋中を明るく照らした。
 あまりの明るさに目を閉じた私が次に目を開けると、そこは――三ヶ月前のあの日、私がタイムスリップすることになったあの森の中だった。

 
 そのあとのことはよく覚えていない。まるでこの三ヶ月なんてなかったかのように、あの日と同じ服装をしている私のポケットの中でスマホが鳴って、意味がわからないまま通話をオンにすると、泣き叫ぶお母さんの声が聞こえた。
 今どこにいるのと聞かれて、キャンプ場の森の中と答えると、一時間もしないうちに私は警察や消防、たくさんの人に囲まれて病院へと搬送された。

「菫!!」
「おかあ、さん……」
「菫! あなた、今までどこに……!」

 病院に駆け付けたお母さんは私の身体をギュッと抱きしめると、周りにたくさんの人がいるのも気にしないで大声で泣いた。お母さんの後ろに、涙で顔をぐちゃぐちゃにした椿と、それから海里の姿も見えて、ああ、私は本当に元の時代に帰ってきてしまったんだとそう実感した。

「お、かあ、さん……?」
「菫……」
「泣い、てるの……?」

 こんなふうに、お母さんが泣いているところを見るのはいつぶりだろう。お父さんが死んじゃってすぐは私や椿に隠れて泣いているところを見たけれど、いつからか見かけなくなった。なのに、そんなお母さんが、泣いている。
 私の、ために……?

「泣いて、くれるの……?」
「当たり前でしょ!」
「だって、お母さんにとって私はお父さんを殺した憎い子でしょう?」
「なっ……」
「なのに、泣いてくれるの……?」
「菫、あなた……」

 お母さんは私を抱きしめる手に力を込めた。痛いぐらい抱きしめられた身体、なのになぜか少しも苦しくなくて、それどころか抱きしめられた腕の中は優しくてあたたかかった。

「あなたがいなくなったら、お母さんどうやって生きていけばいいの!」
「え……?」
「菫も椿も、お母さんにとって……ううん、お母さんとお父さんにとって大事な大事な子どもなの。だから、二度とそんなこと言わないで……!」
「お、かあさん……お母さん!!」

 私はお母さんの背中に手を回すとしがみつくようにして抱きしめて、そして泣いた。小さな子どものように声をあげて泣き続けた。
 本当は、この優しいぬくもりにずっと抱きしめられたかった。もう二度と抱きしめてもらえないと思っていたこの腕に。それがもう一度叶ったのはまぎれもない、伊織さんのおかげだ。彼が、私の心の中にあった氷の壁を優しく溶かしてくれた。

「っ……」

 でも、もう――二度と、伊織さんには会えない。
 もう二度と、あの腕に抱かれることはない。好きだよと囁かれることもなければ好きですと伝えることもできない。大きくて優しい手のひらを握りしめることも、もうない。

「あ……ああぁ!」

 止まりかけた涙が、再び頬を伝う。でもそれは先ほどまでの温かい涙とは違って、冷たく氷のようだった。
  お母さんや椿に会いたくなかったわけじゃない。二度と会えないことにショックを受けたことだってある。でも、それでも……。

「菫、泣かないで」
「っ……あ……」
「あなたが無事で、本当によかった……。もう二度と会えないかと思った……」
「ご、めんな、さい……」

 泣いている私を、お母さんは優しく撫でてくれる。でも、違うの。この涙は、お母さんに会えたことを喜んでいるわけじゃなくて。ううん、喜んでいないわけじゃない。でも、でもそれよりも――きっともう二度と、伊織さんに会えないという事実が――。

「っ……うわああああぁぁ!!」

 私は大声で泣いた。こんなにも好きになっていたのに、ずっと一緒にいられるってそう思っていたのに。まさかこんなにあっけなく終わりを迎えるなんて思っていなかった。わかっていたらもっと早く好きだって言って、いっぱいいっぱい伊織さんに好きだって伝えて、それで、それで……。
 もう二度と会えない伊織さんのことを思うと――私の涙は止まることがなかった。


 一生分の涙を流したんじゃないだろうか、そう思うぐらい泣いたあと、コンコンというノックの音が聞こえて二人の男の人が病室に入ってきた。
 警察手帳を見せられて、スーツ姿のこの二人が警察なんだと初めてわかった。

「相川菫ちゃん、だね? ちょっとお話聞かせてもらいたいんだけどいいかな?」
「なっ」
「……はい」

 お母さんはこんなタイミングじゃなくても、なんて言っていたけれど私はもうどうでもよかった。

「いなくなった日から今まで一週間。どこにいたか、聞かせてもらえるかな?」
「一週間……?」

 私がいなくなったあの日から、まだたったの一週間しか過ぎていないというのだろうか。そんなわけない。私は確かに三ヶ月――。でも、たしかに目の前のお母さんや椿は半袖の服を着ていて、今がまだ夏であることを思い知らされた。

「菫ちゃん?」
「……覚えて、ないです」
「本当に? 誰か知らない人に連れて行かれたとかそういうことは――」
「何も覚えてないんです。思い出せないんです」

 正直に言っても、誰も信じてくれないとそう思った。大正時代の小豆島にタイムスリップをして三ヶ月間過ごしてました。なんて言ったら、頭のおかしな子だと思われかねない。
 それに、何よりも――そんなわけないと否定されたくなかった。伊織さんと過ごした三ヶ月を、何も知らない人たちに簡単に否定されたくなかった。

「そうですか……」
「何かショックなことがあって思い出せないとか、そういうことは?」
「医者の話じゃあ、脳に異常はないようだし、特に目立った外傷も……」
「じゃあ、何だったって言うんだ!? 神隠しにあっていたとでも!?」
「警部、声が大きいです」
「……すまん」

 気まずそうに私を見て、頭を下げると警察の人は病室を出て行った。残されたのは私と、それからお母さんと椿と海里の四人だけだった。
 お母さんは私の手を握りしめると、もう一度ギュッと抱きしめた。

「でも、戻ってきてくれて本当によかった……」
「うん……」
「どこに行ってしまったのかって、ずっと心配してたのよ。もう二度と会えないかと……!」
「……ごめんね」

 私の言葉に、お母さんが驚いたように顔を上げた。

「え……? どうかした……?」
「ううん、なんでもないの。なんでもないのよ」

 ギュッと抱きしめる手に力を込めるとお母さんは私の肩がびしょびしょになるぐらい泣いて泣いて泣き続けた。


 もう面会時間は終わりです、そう看護師さんが言いに来てお母さんたちは帰って行く。私は一人きりになった病室で、ロッカーに片付けられた服を取り出すとポケットを探った。その中には、伊織さんからもらったあのハマグリの片割れが入っていた。

「っ……」

 あの日々は、確かにあったのだ。伊織さんと過ごした、大切なあの日々は……。
 こみ上げてくる涙は、気付けば頬を伝い貝殻にこぼれ落ちていた。もう二度と会えないとしても、私が伊織さんを好きだったこの気持ちは忘れないから。絶対に、忘れないから。そう心に誓いながら、私は声を出さずに泣き続けた。