気が付くと、私は海岸に倒れていた。太陽が高いところを見ると、そんなに長い間倒れていたのではないらしい。あの光は、いったいなんだったのか……。
 身体を起こして辺りを見回すと――私は全身に鳥肌が立つのを感じた。本能が叫んでいる。ここが私の帰ってきたかった場所だと。大切なあの人のいる場所だと。
 私は立ち上がると、一目散に駆け出した。彼の、伊織さんの元へと続く道を。記憶が曖昧なことなんて問題にならなかった。だって、場所は身体が覚えているから。
 久しぶりの道のりを全力で走ると、見覚えのあるあの家が見えた。
 扉の前で立ち止まると、息を整えて、それから手を伸ばした。戸にかけた手が震える。緊張して、口から心臓が出てきてしまいそうだ。
 落ち着くために深く深呼吸をすると、私はそっと戸を開けた。

「……辰雄か?」

 居間にいる男の人が振り返ることなく声をかけた。後ろ姿でだってわかる。あれは……あれは……!

「どうかし……っ」
「伊織、さん……」
「菫……? まさか、そんな……」
「伊織さん……!」

 私は靴を脱ぐ間も惜しんで駆け寄ると、伊織さんに抱きついた。
 伊織さんだ。ずっと、ずっと会いたかった伊織さんが今ここにいる……!

「菫……」
「会いたかった……。ずっと、伊織さんに、会いたかった」

 もう離れたくない。ずっと、ずっとこの腕の中にいたい。
 ギュッと抱きつく私の身体を、伊織さんが優しく抱きしめた。


 どれぐらいの時間そうしていただろう。ようやく顔を上げた頃には、伊織さんの服は私の涙で冷たくなっていた。

「ご、ごめんなさい」
「ああ、いや。これぐらい大丈夫だよ」

 優しく微笑む伊織さんはあの頃と全然変わっていなくて、胸の奥があたたかくなるのを感じる。やっと帰ってこられた。この人の元に。もう二度と離れたくない。

『ちゃんと帰ってこいよ』

 頭の中で海里の言葉が反芻する。どうして今、海里のことを思い出すの。

「菫?」
「な、なんでもないです」
「そう? ……それにしても、もう一度こうやって君に会えるとは思ってなかったよ」
「会いたかった、ですか……?」
「……ええ」

 背中に回された手に力が込められる。
 伊織さんの腕の中は心地いい。この腕に、ずっと抱きしめられたかった。

「私も、会いたかったです。伊織さんに、ずっと会いたかった……」

『もう二度と会えないかと思った……』

 今度はお母さんの声が脳裏によぎる。
 このままこの時代にいるということは、またあんな想いをお母さんに――。

「っ……」
「菫?」
「あ……。いえ……」

 どうして、だろう。
 伊織さんに会えて、こんなにも嬉しいはずなのに、どうしてこんなにも苦しいの……。

「……菫は、ずいぶんと大きくなったね」
「だって、もう私19歳ですよ」
「そんなに……。どうりで綺麗になったはずだ」
「も、もう……!」

 そんなふうに言ってもらえるなんて思わなくて、顔が熱くなるのを感じる。お肌の手入れとか、面倒だけど頑張っててよかった。
 私はいつも口うるさく「お姉ちゃんはちゃんとしたら可愛いんだから頑張りなよ!」なんて言って、スキンケアやら化粧やらをするようにせっついてきていた椿に感謝した。元の時代に戻ったら、お礼しなきゃ――。

『お姉ちゃん。約束だよ? 一週間後、一緒にケーキ作ってね!』

 そうだ、椿との、約束……。
 守れなかったら、悲しむだろうな……。
 胸の奥がチクンと痛む。
 
「……ねえ、菫」
「え……?」
「君が僕の前から消えてからの話を聞かせてよ」
「私の、話……?」
「そう。聞きたいな」

 伊織さんがどうしてそんなことを言うのかわからなかった。
 でも、私は促されるままに伊織さんの元から消えて森で再び発見されてから今日までの5年間のことをぽつりぽつりと話し出した。

「伊織さんのところから消えて……元の時代に戻ってました」
「うん」
「伊織さんのそばにいられなくなったことが悲しくて、辛かった」

 悲しくて苦しくて、ずっと部屋に引きこもって泣いていた。そんな私をお母さんは何も言わずに見守ってくれた。椿はたまに部屋を覗きに来て「お姉ちゃん、一緒におやつ食べよっか」なんて言ってたっけ。

「でも、夏休みが終わって、学校が始まって……」

 一緒に行こう、と毎日海里が家まで来てくれた。あのとき海里がいなかったら、私は引きこもったまま外には出られなかったかもしれない。

「お母さんは私によく小言を言うようになったけど、きっと心配してくれてるんだって、そう思えるようになりました」
「そっか。お母さんと上手くいったんだね」
「はい……。結局、私が二人から責められてるって思いたかっただけなのかもしれないです。そう思ってくれた方が、二人に負い目を感じなくて楽だから……。子どもですよね」
「そんなことないよ。そう思うことで、きっと菫は菫の心を守ってたんだよ」

 伊織さんの言葉は、今でも私を安心させてくれる。このままこの人の隣で、こうやってずっと一緒にいられたらどれほど幸せだろう。
 でも……。
 私が戻らなかったら、きっとまた海里は自分を責めるんだろうな。自分がついて行かなかったから、また私がいなくなってしまったって。また自分を責めて、後悔するのだろう。
 お母さんはずっと私を探して泣くのだろうか。朝も夜も明けず、探し続けて……。お母さんに悲しい顔をさせるのは、辛い……。
 みんなを悲しませるのは、嫌だな……。

「…………」
「…………」

 黙り込んでしまった私の頭を、伊織さんは優しく撫でた。
 私も大人になった。でも、同じように伊織さんにも伊織さんの年月があったようで。改めて見ると、部屋の中には以前なかった家具が増えていた。

「今度は、伊織さんの話を聞かせてください」
「僕の?」
「はい。……あれから、私がいなくなってからどれぐらい経ったんですか?」
「……こっちでは、菫がいなくなってから10年が経ったよ」
「10年……」

 そんなに、経っていたなんて。どうりでいろいろなものが変わっているはずだ。

「だから……」
「え?」
「テレビがあるな、って思ってたんです」
「ああ。菫の時代には普通にあるのかな?」
「はい。こっちではまだそこまで普及してないんですか?」
「そうだな……。一家に一台、となるまでにはもうしばらくかかりそうだよ」

 何かを考えるように伊織さんは言うと、私の頬に手を伸ばした。

「え……」
「……10年は、長い」
「伊織さん?」
「この10年の間に、いろいろなことが変わった。時代も、そして人も。僕だって、変わらざるを得なかった。ずっと君のことだけを想って暮らせたら、どんなに幸せだったか……」
「……もしかして」

 伊織さんの言葉に、私は一つの可能性に思い至った。この部屋に漂うあたたかい空気はもしかして。

「伊織さん、結婚、したんです、か……?」

 私の言葉に、伊織さんは小さく微笑んだ。
 そっか、結婚、したんだ……。
 ショックだった。悲しかった。ショックで胸がえぐれてしまいそうだった……。でも、不思議と涙は出なかった。
 心のどこかで、10年も経っていれば仕方がないことだと思ってしまった。納得してしまった私がいた。
 そして、そんなふうに思う自分自身の感情に、ショックを受けた。
 ああ、私もあの頃とは同じではいられない。
 お互いに、変わってしまったんだ、と――。

「……今、幸せですか?」
「……ああ、幸せだよ」
「よかった」

 嬉しそうにはにかむ伊織さんの姿に――心からよかったと、そう思えた。
 伊織さんには伊織さんの、私には私のお互いが知らない年月がある。もしかしたら一つ何かが違えば交わることもあったかもしれない。でも、私たちはそうではない道を選んだ。自分たちで、選んだんだ。

「……お茶でも入れようか」

 伊織さんは私から目をそらすと、そう言って台所へと向かおうとした。そんな伊織さんを追いかけるようにして立ち上がった私は、ずっと手の中で握りしめていたものの存在を思い出した。そっと手のひらを開くと、そこにはあの貝殻の片割れが砕けることなくあった。
 私の視線を追いかけるようにして、伊織さんも貝殻に気付くと――顔をゆがませるようにして微笑んだ。

「それ、まだ持っててくれたんだね」
「……うん。私の宝物だから」
「そっか」

 この貝殻が、もう一度伊織さんに合わせてくれたの。
 なんてことは、言わない方がいいよね。伊織さんにとってこの貝殻はもう過去のもので、もしかしたら手元にすらないのかもしれないのだから。
 手の中で輝きを失っていたはずの貝殻が再び小さく光り出した。ああ、きっともうすぐ……。
 私は、再び――そして永遠の別れの時間が近づいていることに、なんとなく気付いた。

「伊織さん」

 お茶を入れるために台所に立つ彼の名前を呼ぶ。
 大好きで、大切で、ずっとそばにいたかった人の名前を。
 今も、心の奥で輝き続けてる優しい思い出を一緒に作ってくれた人の名前を。

「最後に一つだけ、お願いがあるんです」

 その言葉に、彼は振り返った。

「もう一度だけ、ギュッと抱きしめてもらえませんか」

 ぬくもりを忘れないために。愛した人がいたことを、夢や幻にしてしまわないために。

「…………」

 伊織さんは急須を台所に置くと、無言で私に近づく。そして――。

「菫」
「っ……」

 悲しげに微笑むと、ギュッと、私の身体を抱きしめた。私の言葉に、彼もまた別れが近づいていることを気付いたのかもしれない。

「幸せに、なって」

 痛いぐらいに私を抱きしめた腕が、小さく震えていることに気付く。
 でも、私は何も言うことなく頷くと、やがて光に包まれた。
 さようなら、大好きだった人。
 もう二度と会えないとしても、私はずっと、ずっと――。