翌日、私はいつものように鉄橋へと向かっていた。でも、どうしてもあと一歩が踏み出せない。
 結局、鉄橋の手前の土手に座って、橋の上にいるレイ君の姿を見つめ続けていた。ここにいると私からはレイ君が見える。でも、レイ君からは私のことを見ることができない。彼は今、どんな気持ちであそこに立っているのだろう。私が来ないことを不思議がっているだろうか。心配しているだろうか。少しは寂しく思ってくれているのだろうか。

「結局、ずっとレイ君のこと考えちゃってる」

 レイ君と一緒にいるときより、レイ君のそばにいない今の方がレイ君のことを考えている気がする。これならいっそ鉄橋に行って話をした方がマシかもしれない。
 しゃがみ込むように座っていた私は、そう思って立ち上がろうとした。そのとき、一番手前の橋脚にあるボルトに何かが引っかかっているのが見えた。

「あれは……」

 それがどうしても気になって、私は一歩踏み出した――そこが土手だということも忘れて。

「わっ、ちょ、まっ……!」

 気づいたときにはもう遅かった。私は体勢を崩すとそのまま土手の下に転がり落ち――る、はずだった。
 でも、前のめりになった私の腕を誰かが掴んでくれたおかげであわや転落、というところを免れていた。

「あー、ビックリした。落ちるかと思った」
「ホントだよ。君、大丈夫?」
「え……?」

 一瞬、もしかして、と思った。そんなことあるわけないのに。でも、どうしてかレイ君が助けてくれたようなそんな気がした。
 慌てて振り返った私の目の前にいたのはレイ君――ではなく、どこかで見たことのある、でもどこの誰だかわからない男の人だった。
 私より一つ二つ年上だろうか。めがねをかけたその人は、私を引っ張り上げてくれると、優しい口調で言った。

「怪我はない?」
「あ、はい。すみません、助けてもらっちゃって」
「いや、間に合ってよかったよ。と、いうかさ君どこかで会ったことない?」
「私もそれを思ってたんですが……でも、お兄さん私よりも年上ですよね? 学校の先輩、というわけでもなさそうだし」

 でも、たしかにどこかで会ったことがある。会った、というよりすれ違ったというか……。

「あぁ、わかった。君、K大附属病院によく行ってる子だ」
「あっ!」

 その一言で思い出した。お姉ちゃんのために洗濯物を取りに行った病院でこの人と何度かすれ違ったことがあった。子どもだけで行くような場所じゃないそこにいた私たちは、なんとなく異質で、お互いに認識していたんだと思う。

「最近見かけなかったから心配してたんだ。その、何かあったのかって……」

 そこまで言って、目の前の男の人は言葉に困ったように苦笑いを浮かべた。
 何度も病院へとお見舞いに通っていた人間が来なくなるなんて、退院したか――来る必要がなくなったかのどちらかだから。
 だから私は、わざと明るい口調で言った。

「学校が忙しくなって、姉のお見舞いに行く頻度が下がっちゃったんです。何かあったわけじゃないから、そんな困った顔しなくても大丈夫ですよ」
「ああ、そっか。ならよかった」
「お兄さんは今から病院ですか?」
「ああ。休みの日ぐらいは、行ってやりたくて」
「優しいんですね」

 休みの日までお見舞いに行ってあげたいと、そう思ってあげられる相手というのはどんな存在なんだろう。家族か、友達か、それとも恋人か。どちらにしてもそんなふうに思ってもらえる相手は幸せだと思う。義務感で渋々行っていた私とは違う。
 でも、私の言葉に目の前の男の人は顔を歪めた。

「僕にはそれぐらいしかできないから」
「あの……?」
「あ、いや。なんでもない。それじゃあ、僕は行くよ。また落ちないように気をつけて」
「ありがとうございました」

 頭を下げた私に手を振ると、その人は土手沿いを歩いて行く。このまままっすぐ行くとあの病院に着く。
 お姉ちゃんは今頃、何をしているのだろう。お父さんとお母さんと三人で楽しく過ごしているのだろうか。腎臓の具合はどうなのだろう。

「悪く、なってないといいな」

 思わず呟いていた自分自身の言葉に、一瞬驚き、それから笑ってしまった。
 矛盾しているにもほどがある。あれほどお姉ちゃんに腎臓を渡したくないから死にたいとそう思っていたはずなのに、それでもお姉ちゃんの具合が悪くならないことを願うなんて。そのために何が必要かなんて、わかっているのに。そして、それがないと、どうなるかも。

「レイ君に、会いたいなぁ」

 それでいつもみたいに「相変わらずいい子だなぁ」とか「そう二葉が思ってるならそれがきっと二葉にとって正解なんだよ」なんて呆れた口調で言われたい。そうすれば何かが変われる気がする。
 でも、それで私が変わったとしても何の意味もないことを今の私は知っている。本当に変わりたいのなら、その決断をするのは自分自身だということも。
 でも、まだ私は決断できずにいた。18歳の誕生日は、もうすぐそこに迫ってきているというのに。


 レイ君の元に行かなくなって5日が経った。けれど行くところのない私は今日も一人、土手に座って鉄橋にいるレイ君を見つめていた。レイ君はここからでもわかるほど、顔色が悪くなっていた。以前よりも透明度が増して、まるでもうすぐ消えてしまいそうなほど――。

「そんなこと、ない」

 自分の考えに、背筋が寒くなる。レイ君が消えるなんて、そんなこと。
 私は首を振ると、何か違うことを考えようと辺りを見回す。そして視線の先に、この間見つけた何かを捉えた。それは相変わらずボルトに引っかかるようにしてそこにあった。でも、この間と違うのは……それが少しずつボルトから落ちそうになって行っていることだった。

「そういえば、似てるかもしれない」

 少し離れたところにあるからよくわからないけれど、この間買ったストラップと似ている気がした。
 もしかしたら、という気持ちがあった。あそこなら、土手の一番下まで降りて手を伸ばせば届くかもしれない。
 そう思ったら、もう止められなかった。私は転げ落ちないようにバランスを取りながら土手を下る。一番下から見たそれは、やっぱり私が持っているストラップとよく似ていた。でも、土手の上から見たときよりも実際の場所は遠かった。あれじゃ、いくら手を伸ばしたところで……。

「ううん、やってみなくちゃわからないよ」
 
 落ちないように、そっと手を伸ばす。もう少し、もう少しだけ……。

「あっ!」

 あと少しだけ――そう思って背伸びをして手を伸ばしたその瞬間、身体がグラッと傾くのを感じ、そしてまるでスローモーションのように水面が近づいてくるのが見えた。
 落ちる! そう思うのと同時に、誰かが私の身体を掴んだ。

「危ない!!」
「あっ……あの時の、お兄さん?」
「どうして君は、僕が通りがかるたびに川に落ちようとしてるんだ。……それに、よりにもよってこの川に。まさかと思うけど、飛び込もうとしたんじゃ」
「あ、いえ。そ、そういうんじゃなくて」

 何がそう言うんじゃなくて、なのか。実際に鉄橋からこの川に飛び込もうとしたことはあったし、なんなら数日後にもそうするつもりなのに。
 でも、焦った様子で私を酷く心配してくれている目の前のお兄さんに、そんなことを言えるはずもなかった。

「なら、いいんだけど。で、飛び込もうとしてたんじゃなければ何をしようとしてたの?」
「あの、あそこに何かが引っかかってるの見えますか?」
「え? あそこ? ……っ!」
「ちょ、ちょっと!? なにして……」

 私が指さす方を見た瞬間、お兄さんの顔色が変わったのがわかった。そして、私が止める間もなくその人は川に足を踏み入れた。ここの川は浅瀬から少し行くとすぐに深くなる。そのせいで、すぐにお兄さんは胸の辺りまで水に浸かってしまう。

「だ、ダメですって! ここ、川の流れが急で危ないから」
「知ってる」
「知ってるんだったら余計に……」
「大丈夫だから」

 転けないように、慎重にお兄さんは進むと、橋脚までたどり着いた。そして手を伸ばし、少し上のボルトに引っかかっていたものを手に取った。
 そしてそれを、大事そうに手に握りしめると行きと同じようにゆっくりと戻ってくる。

「大丈夫ですか?」
「ああ。……ごめん、そこの鞄からハンカチだしてもらっていいかな」
「は、はい」

 土手の途中に放り投げられていた鞄からハンカチを取り出すと、お兄さんに渡す。でも、ハンカチで拭けるようなそんな程度じゃなくて、お兄さんは苦笑いを浮かべた。

「これは一度帰らないと無理だな」
「急に川の中に入っていくからどうしたのかと思いました」
「ビックリさせてごめんね。これを、どうしても取りたくて」
「それって」

 お兄さんの手の中にあったのは、私の持っているストラップとよく似たものだった。私のは空色だったビー玉が、お兄さんが持っているのは銀色で、まるで月のように見える。
 でも、どうしてこれを……?

「これは、僕の親友の、遠矢のものなんだ」
「え……?」

 お兄さんの、親友……?
 まさか、その親友って……。

「修学旅行に行った先で、二人で買ったんだ。僕は太陽を、遠矢は月をモチーフにしたストラップを。願掛けだったんだ。いつか二人の夢が叶いますようにって」
「そ、の人、は……」

 声が震える。もしかして、とまさか、が頭の中をぐるぐるする。
 私の問いかけに、その人は一瞬表情をゆがませたあと、顔を上げて鉄橋を見上げた。

「あそこから――。いじめられていた、僕を庇ってあいつが……」
「そん、な……」
「ああ、ごめん。こんなショッキングな話……」

 私は必死に首を振る。そうじゃない、そうじゃないんです。
 でも、私がショックを受けたと思ったお兄さんは優しく微笑んだ。

「ごめんね……。でも、だからこの川に飛び込もうとしているように見えた君を見てられなかったんだ。あのとき、僕は遠矢を助けることができずに、あの橋から落ちていくのを止められなかったから」

 その通りだと責め立てたかった。レイ君を返してと、どうして助けてあげなかったんだと泣きわめいて責めて責めて、レイ君に向かって跪いて謝らせたかった。
 でも……。
 目の前で、自責の念に駆られ、涙を流すお兄さんを見て、私は首を振った。
 きっと、レイ君自身がそんなこと望んでいないから。
 
「お兄さんの、せいじゃないですよ。悪いのはいじめた奴で、だから……」
「違う、僕のせいだ! 僕が……弱くて……あいつが僕の代わりにいじめられてるのに気づいてたのに、何もできなかった。あの日も、僕がもっと早く気づいていれば! 遠矢はあんなところから冷たい水面に飛び込まずにすんだのに!!」

 レイ君の最期の瞬間を、あまりにもリアルに感じてしまって――気づけば私は泣いていた。
 しばらくお互いに何も言うことなく水面を見つめ続け、そして小さなくしゃみをしたあと、お兄さんが立ち上がった。

「今日はもう帰るよ。……これ、見つけてやってくれてありがとう。明日、遠矢に渡してくる」
「渡し、て……?」

 その言い方が妙に引っかかった。墓前に置いてくると、そういう意味だろうか。いや、でも、まさか。

「あの、遠矢さんって死んじゃったんですよね……? あの橋の上から自殺して……」
「バカなこと言うな! あいつは生きてる。今も、頑張ってるんだ! それに、あれは自殺なんかじゃない!」
「え……」

 お兄さんの言葉があまりにも衝撃的で、私は何も言えなくなった。
 レイ君が、生きている……? 自殺じゃない……? まさか、そんな。
 やっぱり私が知っているレイ君とこの人が言っている人は別人なんだろうか。たまたまたストラップっていう共通点があっただけで。
 でも、もしも、もしも本当にレイ君が生きているのだとしたら……!

「あ、の」
「ん?」
「それ、届けに行くの、私も一緒に行って、いいですか……?」

 目の前でお兄さんが怪訝そうな表情を浮かべるのが見えた。でも、今の私には人にどう思われようがもうどうでもよかった。


 結局、あのあと服が濡れたままじゃどこにも行けないからとお兄さんは帰っていった。何度も食い下がる私に、明日またこの場所で待ち合わせしようと渋々約束をして。
 翌日、私はお兄さん――優一さんとの待ち合わせのために土手に来た。相変わらず橋の上にはレイ君がいて、私は今日もそれを土手から見るだけだった。
 もしも本当に、病院にいるのがレイ君だったら、私はどうしたらいいんだろう。昨日はあんなにも勢いづいていたというのに、いざ本当に会えるかもしれないとなったら、怖い。
 そんな私の思いなんて知らない優一さんが「やあ」と声をかけた。

「本当に来たんだ。変わった子だね」
「そ、その。もしかしたら前にあの鉄橋で会った人かもしれなくて。その人のおかげで私、すっごく助けられて……もしも本当にあの人だったらお礼、言いたいなって」

 必死に考えた言い訳に、優一さんは疑うことなく頷くと歩き出す。私もそのあとを慌てて追いかけた。

「遠矢はよくあの鉄橋に来ていたから、そうかもしれないね。……それに、もしも本当に遠矢に会いたいのだとしたら、早めにあった方がいいと思うし」
「それって、どういう……」

 尋ねようとした私は、病院の自動ドアをくぐると反射的に口を閉じる。待合を通り抜け、入院病棟へと向かう。
 遠矢君は慣れた手つきで進んでいく。そこはお姉ちゃんがいるのとは違う病棟だった。

「ここだよ」

 優一さんが立ち止まった病室には『大月遠矢』と書かれたプレートがかかっていた。
 ノックをして中に入る。そこには――。

「レイ、君」

 私がよく知っているレイ君が、ベッドの上でたくさんのコードに繋がれたまま眠っていた。ううん、レイ君よりも少しだけ大人びて見えるのは、眠ったままの彼が成長しているかもしれない。
 でも……。

「君の知ってる奴で会ってた?」
「は、はい。あの、この人――遠矢さん、大丈夫なんですか……?」

 眠ったまま起きないんだと、優一さんからは聞いていた。でも、いざレイ君――ううん、遠矢さんを見ると、彼は眠ったままというには顔色が悪かった。繋がれた心電図も、ずいぶんと波形が緩やかな気がする。

「ああ……。いわゆる植物状態ってやつだ。二年間、高校三年の夏からこうやって眠ったままだったんだけど、だんだんと弱っていっているみたいで……。もしかしたら、もうあまりもたないかもしれないって遠矢のお母さんから言われたんだ」
「そんな……!」
「だから、会いたいなら会えるときに会わせてあげなきゃって思って。もしかしたら違うかもしれないとも思ったんだけど、でも君の会いたかった奴が遠矢でよかった」

 だから、連れてきてくれたんだ……。
 正直なところ会いたいと言ったからって、赤の他人の、それも本当に知り合いかもわからない私をどうして連れてきてくれたのかわからなかった。でも、遠矢さんがこんな状態だから……もう長くはもたないかもしれないから……。

「なあ、遠矢。お前が落としたこれ、この子が見つけてくれたんだ」

 優一さんは、橋脚に引っかかっていたあのストラップをそっと遠矢君の手のひらに握らせた。けれど遠矢さんが反応することなく、人差し指に引っかけるようにして持たせると、その手を布団の中に戻した。

「あのとき、お前が追いかけたこれ……やっと戻ってきたよ。だから、もう起きろよ……。捜し物は見つかったぞ。もう探さなくていいんだ。だから、だから……!」

 泣き叫ぶように言う悠一さんに、私は何も言えない。嗚咽と、心電図の音だけが響き渡る部屋で、私は真っ青な顔をしたレイ君のことを思い出していた。

「ごめん、取り乱して」

 服の裾で涙を拭うと、優一さんは苦笑いを浮かべたまま私の方を向いた。

「いえ。あの、聞いてもいいですか……? さっき言ってた、そのストラップを追いかけて川に落ちたってどういう」

 私が知っている話と違う。レイ君は自分が橋から飛び降りて自殺したとそう言っていた。どういう……。

「言っただろ、こいつは自殺じゃない。ストラップを追いかけてそれを取るために川に落ちたんだって。あの日、俺を、そして遠矢をいじめていた奴らがふざけて遠矢のスマホからストラップを取ったんだ。男同士でお揃いをつけてるなんて気持ち悪って。返せよって向かっていった遠矢をせせら笑うようにあいつらは川にストラップを投げて、それで……」
「酷い……! どうして誰かにそれを言わなかったんですか?」
「言ったさ! でも、大人は誰も信じてくれなかった。いじめを苦にした自殺。そう大人たちは決めつけた。僕が何を言ったところで無駄だったんだ」
「そんな……」
「自殺なんてするような奴じゃないんだ。凄くいい奴で、人のことばっかり心配して……そんな遠矢が、このまま死んだら自殺で死んだことになるなんてあり得ないよ」

 目尻に滲む涙を拭うと、優一さんはもう一度遠矢君に声をかける。

「だからさ、早く起きろよ。それでさ、僕に謝らせてよ。あのとき、遠矢のことを守れなくてごめんって」

 けれど、優一さんの呼びかけに、返事が来ることはとうとうなかった。


 夕日が沈み始めた病室を私たちはあとにした。行くところがあるから、と優一さんにお礼を言って私は病院のエレベーターの前で別れた。本当は特に行くところなんてなかった。でも、優一さんと一緒にいて遠矢君の話題を避けることは難しかったから。
 でも、そんな私の言葉を優一さんは都合よく解釈してくれたようで「ああ」と思い出したように言った。

「お姉さんのところに行くの?」
「え、あ……はい、まあ」
「そっか。君も大変なのに、遠矢のところ来てやってくれてありがとね。……じゃあ」
「ありがとうございました」

 そういうことにしておこう、と曖昧に返事をした私に優一さんは頷く。そして優一さんに見送られ、私は――お姉ちゃんがいる病棟へと向かうエレベーターに乗り込んだ。
 このまま頃合いを見計らって優一さんに気づかれないように病院を出ようかと一瞬、真剣に考えた。でも、結局私は開いたエレベーターを降りて通い慣れた廊下を歩き、お姉ちゃんのいる病室へとやってきた。

「二葉? どうしたの?」
「……久しぶり」
「久しぶりね。元気だった? 風邪とか引いてない? 元気にしてる?」

 久しぶりに会ったお姉ちゃんは、最後にあったときと比べて随分と痩せて見えた。心なしか頬が痩けたような気がする。点滴の刺さった腕も、あんなに細かっただろうか。

「お姉ちゃんこそ、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。心配しないで」

 微笑むお姉ちゃんの姿に、泣きたくなった。自分の方がどう見たって大変なのに、私のことを心配して元気なふりをするお姉ちゃんに。
 ベッドの横の椅子を差し出され、おずおずとそこに座った。こんな風に話をするのはいつぶりだろう。

「あ、そうだ。お友達とは上手くいってる? 学校は楽しい? 勉強は? そろそろ試験の時期じゃない?」
「そんなに一気に聞かれても答えられないよ」
「そっか、ごめんね。二葉が来てくれたことが嬉しくって」

 いつだってそうだ。誰にだって優しくて、いい人で、みんなからの愛情を一身に受けるお姉ちゃん。でも本当は知っていた。みんながお姉ちゃんを大好きなのは、ちゃんとお姉ちゃんがみんなのことを大切にしているからだって。だから――みんなも私も、お姉ちゃんが大好きなんだ。

「……ごめんね」
「どうしたの? 何を二葉が謝ることあるの? あ、もしかしてやっぱり学校上手くいってない? やっぱりねー、私はあそこしか選べなかったけど、二葉ならもうちょっとレベルの高いところもそれこそ周りの友達と一緒の公立だって選べたのに……。本当は他のところに行きたかったんでしょ? ごめんね、お母さんが無理に勧めちゃったから」
「……ううん。勉強そんなに難しくないから勉強しなくてもそこそこいい成績取れるし、大学だって内部進学で行けるし……。でも、ホントはちょっとだけ中学の時の友達と会えないのが寂しいかな」
「そうだよね。二葉はさ、お母さんの前でいい子になっちゃうから。もっとわがまま言っていいんだよ? 私のところに来るのだって二葉の仕事じゃないの。二葉は自分の好きなことをして、自分の好きなように生きていいの」

 お姉ちゃんは、レイ君と同じことを真剣な顔をして言った。こんなふうにお姉ちゃんが私のことを思ってくれていたなんて、初めて知った。もしかして私は、誰にも愛されていないとそう思っていたけれど、お姉ちゃんは、お姉ちゃんだけは私のことを愛してくれていたんじゃないだろうか。

「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「お姉ちゃんは、恨んでないの? 私が、腎臓をあげるって言わないこと」
「――二葉、こっちおいで」

 私の言葉に、お姉ちゃんは笑顔で手招きをした。私は身を乗り出すようにベッドの方に身体を近づける。そして――お姉ちゃんの両手が私の頬を掴み、思いっきり引っ張った。

「いっったい!」
「当たり前。痛くしたんだもん。あのね、二葉。私は二葉の腎臓がほしいなんてこれっぽっちも想ったことないし、それはこれからだってそう。私は元気になるの。だからあなたの腎臓なんていらないのよ」
「でも……」
「でも、じゃない。もう二度とそんなこと言わないで。私は、二葉のお姉ちゃんなんだから。妹に助けてもらったりなんかしたら、もうあなたに顔向けできないでしょ。それに私のために、二葉の身体に傷がつくなんて思ったら……私……」

 頬から手を離し、お姉ちゃんは私の身体を抱きしめた。その手が、肩が震えている。
 泣いてるの、とは聞けなかった。その代わり私もお姉ちゃんの身体をそっと抱きしめた。
 細くて折れてしまいそうな背中。お姉ちゃんはこんなにもちっちゃかっただろうか。いつの間に、こんなに弱ってしまったのだろう。
 私がここに来なくなってから何日が経った? ううん、ここに来ていたときも私は仕方なしに来て荷物だけ取ってお姉ちゃんの顔を見ることも話をすることもなく帰ってた。
 もっと早く、向き合わなきゃいけなかったんじゃなかったのかもしれない。

「ごめん」

 謝る私に、お姉ちゃんは不服そうに頬を膨らませた。

「それ以上謝ったら、もう一度ほっぺた引っ張るよ」
「う……ごめ……」
「ん?」

 反射的に謝りそうになった私を、お姉ちゃんはジッと見つめる。だから私は慌てて「なんでもない」とごまかして、それから話をそらすように、お姉ちゃんに問いかけた。

「ねえ、お姉ちゃん。もしも元気になったら何がしたい?」

 そう尋ねた私の問いかけに、お姉ちゃんが笑ったのがわかった。そっと身体を私から離すと、お姉ちゃんは口に人差し指を当てた。

「秘密」
「えー、どうして?」
「お願い事は誰かに喋っちゃうと叶わないっていうじゃない」
「それって神社とかの話なんじゃあ」
「なんでもいいの、私の願掛けなんだから」

 優しく微笑むお姉ちゃんにそれ以上何も言えなかった。でも、元気になったらやりたいことがあるというお姉ちゃんの願いを叶えたいと、そう思った。
 でも、それを口にする勇気は、まだ私にはない。

「ごめんね、お姉ちゃん」
「どうして二葉が謝るの?」
「ううん……。でも、ごめん」

 弱虫な私で、ごめん。


 しばらくお姉ちゃんの病室で過ごした私は、夕食が運ばれてきたタイミングで病室を出た。手には、お姉ちゃんの洗濯物を持って。

「やっぱり、それ置いていって? 今度お母さんが来たときに持って帰ってもらうから」
「いいよ、ついでだし。それに今持って帰ったら、次お母さんが来るときには洗ったのを持ってきてもらえるでしょ?」
「それは、そうだけど……。ありがとう」

 お姉ちゃんに見送られて、病室を出る。そしてエレベーターで一階に下りると、私は足音を立てないように、誰もいない廊下を一人歩いた。
 さっきまでいた病棟に向かうエレベーターに乗る。
 誰にも会いませんように。
 必死に願った甲斐があったのか病室までの道のりで誰かに咎められることはなかった。
 プレートを確認して病室の中に入る。そこには、数時間前と同じ姿で眠る遠矢君の姿があった。
 相変わらず、無機質な心電図の音だけが響く病室。ベッドに眠る遠矢君に近づくと、私はさっき優一さんが手渡したストラップをそっと抜き取った。代わりに、私のスマホにつけてあったあの空色のストラップを握らせる。

「少しだけ、これ貸してください。あなたに――あなたのことを忘れてしまったもう一人のあなたに、これを届けたいんです」

 遠矢君は返事をしない。でも、一瞬だけ、心電図の波形が乱れたようなそんな気がした。