結局、あのあと夜遅くに帰ってきた両親とは翌日も顔を合わせることはなかった。今週いっぱいは試験休みということもあり、普段よりも遅く起きた頃には両親はとっくに家を出ていたのだ。
 申し訳程度に置かれた朝ご飯から、トーストだけ手に取ると私は家を出た。机の上にあった『今日こそはお姉ちゃんのところに行ってね』という紙は見なかったことにして、まっすぐに鉄橋へと向かった。巴ちゃんにはあんなことを言ったけれど、私にとっても、ここしか居場所はなかったから。

「おはよう、レイ君」
「おはよう。昨日はあのあと大丈夫だった?」
「心配してくれてたの?」
「そりゃそうでしょ。二人して警察に連れて行かれたんだから」
「ごめんね」

 私は、昨日警察に連れて行かれてからの話をレイ君にした。巴ちゃんがかばってくれたこと、巴ちゃんのお母さんが本当に心配していたこと、それからきっともう大丈夫だってこと。

「そっか、巴がきちんと自分のことをお母さんに離せてよかったね」
「そうだね。でも、ちょっと寂しくなるなぁ」
「なら、今度は二葉が巴に会いに行けばいいんじゃない?」
「私が? そうだね。……ううん、もう会わない。だって、これ以上仲良くなったら、私が死んだときに巴ちゃんは泣くでしょ。私は私が死ぬことで誰にも傷つかないでほしい。だから、これ以上仲良くはならない」

 私の答えに、レイ君は何も言わない。私たちは黙ったまま、緩やかに流れる川を見つめた。

「そういえば」

 レイ君はふと思い出したように口を開いた。

「巴を見ていて少しだけ思い出したことがあるんだ」
「え、レイ君のこと?」
「そう。っていっても、本当に断片的なことだけどね」
「たとえばどんなこと?」

 身を乗り出すように聞く私に、レイ君は苦笑いを浮かべると空を見上げた。

「たいしたことじゃないよ。……巴と一緒だったなってそう思っただけ」
「一緒?」
「ああ。俺がいじめられる前に、親友がいじめに遭っていたってことと、それを庇った俺に標的が移って、それで――ここから川に飛び込んで死んじゃったって、それだけ」
「っ……そう、だったんだ」

 レイ君の言葉に、なんと言っていいかわからない。でも、レイ君を追い詰めた奴らが憎い。そして、レイ君を身代わりにしてのうのうと生きているであろうその親友という人が。

「……その人のこと、恨んでないの?」
「いじめたやつ? 別に。もうどうだって」
「そうじゃなくて。レイ君を身代わりにしたお友達のこと」
「……恨んでなんかない。そんな気持ちはさらさらないよ。もうどんな奴だったかも思い出せないけど、でも俺のことなんか忘れて、元気で過ごしてくれてたらって想うよ」

 どうして、そんなふうに想えるのだろう。だって、その人がいなければ。ううん、その人がレイ君を身代わりにしなければ、レイ君は死ぬことなかったのに。なのに、どうして……。
 
「あと……」

 レイ君はふと思い出したように、ポケットに手を入れて何かを探す。でも、目当てのものは見つからなかったようで残念そうに肩をすくめた。

「何か入ってたの?」
「何か、大切なものが入ってた気がしたんだけど、なんにもなかったや」
「なんだったか、覚えてないの?」
「忘れちゃったな。ってことは、たいしたことないものだったのかもしれないね」

 その言い方に、違和感を覚えた。たいしたことないなんて言っているけれど、レイ君の口調は、表情はそんなことないと訴えているようだったから。だから私は思った。

「……逆なんじゃない?」
「逆?」
「大切で、大切すぎて、覚えているのが辛くて忘れてしまったのかもしれないよ」

 覚えてない、じゃなくて忘れてしまった大切な何か。それはもしかしたら、たいしたことがないから覚えてないんじゃなくて、大切だからこそ忘れてしまったんじゃないだろうか。覚えていたら心が壊れてしまいそうだったから。
 そう言った私に、レイ君は驚いたような表情を浮かべた。

「そんなこと、思ってもみなかった」
「ね、レイ君はどうしてここにいるの?」
「だから、前にも言っただろ。ここで自殺をしたからここから動けないんだって」
「でも、幽霊がその場所に居続けるのって、何か理由があるんじゃないの?」
「理由……」

 未練、と言った方が正しいのかもしれない。レイ君にとって、ここにいる……ううん、ここにいなければいけない理由はいったいなんなんだろう。それがわかれば、ここから解放されるかもしれないのに。

「なに? 二葉は俺を成仏させたいの?」
「うーん、どうなんだろ。でも、このままここでレイ君がひとりぼっちになってしまうのは嫌だなって思ったから。……私だって、もうすぐ死んじゃってここには来れなくなるんだから」
「そうだね。そうしたら、二葉の未練が俺になるかもしれないね」
「何それ」

 私たちは笑う。顔を見合わせて、ケラケラと、だんだん何がそんなにおかしくて笑っているのかわからなくなるほどに笑って――それから、ふいに黙り込んだ。どうしてだろう、レイ君の横顔がどこか寂しそうに見えるのは
 レイ君と出会って今日で14日目。誕生日まであと二週間。18歳になったら、私は死ぬ。その決意は揺るがないけれど。
 隣に立つレイ君の姿をそっと見る。
 少し、ほんの少し、このままレイ君をここでひとりぼっちにするのは嫌だなって、そう思ってしまった。

「早く成仏できるといいね」
「できるかなあ」
「きっとできるよ」
「なんか、二葉が言うとホントにできそうな気がするから不思議だ」
「レイ君が成仏して、私が死んで、二人で天国に行くぞー!」
「何それ」

 さっきの私と同じセリフを、私より呆れた口調で言いながらもレイ君は笑う。こうやって笑っていてほしい、そんな感情が自分の中に湧いたことに少し驚きながらも、芽生えたその感情になんとなく悪い気はしなかった。


 お昼の時間になり、私はレイ君と別れ少し歩いたところにある雑貨屋さんに併設されたカフェに向かった。平日のお昼時、大人たちで混み合う店内でサンドイッチとアイスティを注文し、待っている間に店内を見て回る。特にほしいものがあるわけではなかったけれど、ガラス細工の小物やストラップ、キーホルダーなどいろいろなものが置いてあった。
 その中の一つ、空色のビー玉のようなものがついたストラップが目についた。

「可愛い」
「――それ、気に入りました?」
「え?」

 いつの間にか隣に立っていた店員さんがニコニコと笑いながら話しかけてきた。人当たりの良さそうな笑みを浮かべた店員さんは、私が見ていたストラップを手に取った。

「これ、僕が作ったんです」
「そうなんですか? 空色が凄く綺麗だなって思って」
「ありがとうございます。仕入れたものもあるんですが、いくつか自分で作ったものも置いてて。だから、そう言って頂けると嬉しいです」

 ゆっくりしていってくださいね、そう言い残して店員さんは去って行く。私は、店員さんが置いたストラップに一瞬視線を向ける。けれど、すぐに注文したランチができあがったと言われ、そのまま席へと戻った。


 ご飯を食べて、カフェをあとにする。でも、なぜかずっとあのストラップのことが気にかかっていた。どうしてこんなにも気になるのかわからない。でも、お店を出て一歩、また一歩と歩く足取りが重い。

「っ~~! ああ、もう!」

 回れ右をして、元来た道を歩くと、私はさっきまでいたカフェに飛び込んだ。少し驚いた表情を浮かべた店員さんに「忘れ物ですか?」と聞かれるのが恥ずかしい。

「あの、さっきの……ストラップ」
「ああ、あれですか」
「買おうと思って……」
「わざわざ戻ってきてくれたんですが? そのために? ……ありがとうございます」

 店員さんは嬉しそうな表情を浮かべると、さっき私が見ていたストラップを持ってきてくれた。それを可愛い袋に入れてもらい、私はお金を払って今度こそカフェをあとにした。
 鉄橋に戻るために歩きながら、私は袋からストラップを取り出す。太陽にすかすと、本当に青空がそこにあるみたいだ。ううん、青空というより――。

「ああ、そっか。レイ君と見た、月に似てるんだ」

 吸い込まれそうな水色のビー玉のようなそれは、いつか見た青い月を思い出させた。


 鉄橋に足を踏み入れた私に気づいたのか、レイ君がこちらを向いた。

「ただいま」
「おかえり。もう戻ってこないのかと思ったよ」
「まだこんな時間なのに帰るわけないでしょ」
「そう。あれ? それ、なに?」
「ああ、これ?」

 手の中のストラップに気づいたレイ君に、私はさっき買ったストラップを見せる。カフェで買ったんだ、と口を開くよりも早く、レイ君が息をのむのが分かった。

「レイ君?」
「そうだ、ストラップ。ここに、入れておいた……ちぎれて、取れた……」
「レイ君!」
「あ、ああ」
「どうしたの? 大丈夫?」

 幽霊に顔色なんてものがあるのかなんてわからない。でも、レイ君は真っ青な顔でポケットに手を入れ何かを探すような仕草をしていた。これは、もしかして……。

「なにか思い出したの……?」
「わからない。でも、そんな感じのストラップを、持っていたような気がする。大事な、ストラップ。誰かと買った……」
「誰かと……?」

 その言葉に、一瞬胸の奥がツキンと痛んだ気がした。でも、その痛みについて考えるよりも、目の前で座り込んでしまったレイ君のことが気がかりで私は慌てて隣にしゃがんだ。

「レイ君!? どうしたの!?」
「あ、ああ。いや、なんでもない」
「なんでもないって……」

 なんでもない、という顔ではなかった。透き通っているレイ君の姿がいつもよりもさらに透けているように見える。もしかして――消えかかっている?
 幽霊に期限があるのかなんてわからないけれど、もしかしたらレイ君がここにいられるのももう少しなのかも知れない。そう思わせるほど、レイ君の姿が薄くなっていた。

「本当に大丈夫なの……?」
「ああ……。それ、もう一度見せて」
「これ?」

 私はレイ君の前に先ほどのストラップをかかげた。レイ君は「やっぱり似てる」と小さな声で呟いた。

「何と似ているの……?」
「ポケットに入れてた……ストラップ。あいつと一緒に買って……あいつ、あいつの名前は……わからない、思い出せない!」
「レイ君、落ち着いて! ねえ、レイ君!」
「わからない、思い出せない。でも、それを見ると、冷たくなったこの心臓が熱くなる気がする。胸の奥に熱が宿って、まるで生きていたときのように……。生きてるときのことなんて思い出してもどうにもならないってそう思ってたのに、思い出したら苦しくなるだけだって……。俺は、何を忘れてるんだ……?」

 目の前のレイ君が泣き出しそうに見えて、私は初めてレイ君に触れられないことを辛く感じた。もしも触れることができたら、手を繋ぐこともそっと抱きしめることもできるのに。こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。

「ねえ、レイ君。本当は、思い出したいんじゃない?」
「何を?」
「生きていたときのこと」
「……わからない」

 そんなことない、とは言わなかった。ただ、不安そうに両足を抱えて首を振るレイ君を、どうしても私は放っておけなかった。
 触れることはできないけれど、隣にいることはできる。レイ君が少しでも元気になるまで、私は隣にいるから。
 身体をそっとレイ君に寄せると、私の肩とレイ君の肩が重なる。触れた感触はない。でも、どうしてか重なった肩が温かいような、そんな気がした。

「……二葉?」
「ん?」
「え、あれ? 嘘。もう真っ暗だよ。二葉、帰らなきゃ」

 ふと気が付いたようにレイ君が顔を上げたのは、太陽がとっくに沈み、月が空高くから暗闇を照らし始めた頃だった。時計を見ていないからわからないけれど、8時か9時すぎだと思う。
 昼間に見たときよりも、さらにレイ君の身体の色が薄くなったように見える。
 私は不安を吹き飛ばすように、わざと明るい声を出した。

「ホントだ。んー、お尻痛くなっちゃった」

 立ち上がって伸びをすると、身体のどこからかバキッという音がする。ずっとコンクリートに座っていたからかお尻が冷たい。
 さあ、そろそろ帰らないとさすがにもう両親ともに帰ってきているはずだ。ポケットからスマホを取り出すと、何通もメッセージが届いていて、どれもお母さんからだった。
 開くことなくそれを閉じると、私はレイ君の方を向き直った。

「じゃあ、私帰るね」
「……送っていくよ」
「鉄橋の端っこまでだけど?」
「まあね」

 ふふっと笑いながら、私はレイ君と一緒に鉄橋を歩く。ゆっくり、ゆっくりと。このままずっと鉄橋が続けばいいのに。そんなことを思って、私はようやく私にとってレイ君という存在が大切なものになっているのだと気づく。

「ここまでだ」

 レイ君が鉄橋の端で手を伸ばすと、まるでそこに壁があるかのようにレイ君の手が前に進むのを遮る。同じように伸ばした私の手は、そのまま鉄橋の向こうへと通り抜けるのに。

「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」

 レイ君に見送られながら、私は鉄橋をあとにする。
 ねえ、レイ君。
 もしもあなたが、この世界に存在していたら、そうしたら私も――。

「でも、レイ君は幽霊だからなぁ」

 呟いた自分の言葉に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
 幽霊じゃなければ、レイ君と出会うこともなかった。でも、幽霊だから一緒に生きることはできない。
 それがどうしてこんなにも苦しいのか。
 その答えを出すことを、私はまだ躊躇っていた。


 翌日も、私は両親が家を出てから起き出した。
 昨日の夜、結局家に着いたのは9時を余裕で過ぎていて、どこに行っていたんだと怒る両親の言葉を無視して自分の部屋にこもった。
 晩ご飯を食べずに寝たからさすがにお腹がすいた、と思いながらリビングに向かうと、そこには昨日のご飯だったのかシチューとサラダ、それからトーストが用意されていた。ラップがかかったシチューを温めてから一人食卓についた。

「……美味しい」

 牛乳アレルギーがあるお姉ちゃんが食べられないからと、作ってくれることのなかったシチュー。私は好きなのに、理不尽だってずっと思っていた。なのに、今になって作ってくれるのは――まるでご機嫌取りのようだ。
 本当は素直に、私が食べたいと言っていたのを覚えてくれていたんだと、そう思えばいいんだとわかっていた。でも、いったいいくつのときの話をしているんだと笑いそうになる私もいる。シチューが好きで食べたかったのは小学生のときの私だ。17歳の、今の私じゃない。今の私の好きな物なんて、あの人たちは知らないんだ。 

「ごちそうさまでした」

 シチューを食べ終え、食器を洗うと私は家を出た。行くところなんて一つしかない。
 通い慣れた道を歩いて鉄橋へと向かう。そこにはレイ君と――それから、見覚えのない人影があった。
 大きなお腹を抱えたその人は、鉄橋の上から川を見つめていた。その隣には、気まずそうな顔をしたレイ君の姿もあった。

「あの……」

 恐る恐る声をかける。そんな私にレイ君は首を振っていた。どうやらこの人からレイ君は見えていないようだ。

「あら、こんにちは」
「こんにちは。……こんなところでどうしたんですか?」

 どうした、なんて白々しかっただろうか。ここは言わずと知れた自殺スポットだ。ここから川を覗いている人の目的なんて一つしかない。
 でも、私の問いかけにその人は優しく笑みを浮かべると首を振った。

「ううん、ただ病院に行く途中にふと寄り道しただけ」
「病院?」
「そう。今日はこの子の検診なの」

 大きなお腹にそっと手を当てる。どうやらお腹の赤ちゃんの検診のようだった。もしかしたらあの病院に向かうのかもしれない。あそこはこの街で一番大きな病院だから。

「そうですか。あんまり覗き込むと落ちちゃったら危ないから気をつけてくださいね」
「ありがとう。あなたはこんなところでどうしたの?」
「えっと、学校がテスト休みなので暇つぶしに」
「そっか。あなたこそここから落ちないように気をつけてね」

 女の人はもう一度微笑むと、私に手を振って鉄橋をあとにした。
 残された私は、レイ君の方を振り返る。

「あの人、レイ君のこと見えてなかったね」
「普通は見えないんだよ。二葉や巴みたいなのがイレギュラーなの」
「そっか。でも、飛び降りようとしてるんじゃなくてよかった。もしもレイ君の姿が見えない人でここから飛び降りようとしてたんだったら止めることもできなかったもんね……」

 あのおじさんのように、とは言えなかった。
 でもレイ君は私の言葉に、眉間にしわを寄せ何かを考えるような表情になった。

「レイ君?」
「あの人、ここに来るの初めてじゃないんだ」
「病院が近くだからじゃない?」
「……前に来たのは数ヶ月前だったんだけど、そのときはあそこから飛び降りようとしてたんだ」
「え……?」

 レイ君のまさかの言葉に、私は何も言えなくなった。お腹に赤ちゃんがいるのに、飛び降りようとしてたの……? そんなの……。

「思い直したように帰って行ったから安心してたんだけど、もしかしたらまた何かあったのかもしれないね」
「たまたま! たまたま病院に行く途中に寄ったのかもしれないじゃん」
「だったらいいんだけど」

 レイ君は不安そうだった。でも、私はお腹に赤ちゃんがいるのに自殺をするような人がいると信じたくなかった。だってそんなの、赤ちゃんも一緒に死んでしまうようなこと、お母さんなのに、そんなこと。

「……二葉は変わったね」
「変わった?」
「うん。初めて会った頃ならきっと『死にたいなら死なせておけばいいじゃない』って言ってたと思う。なのに今は、ここから飛び降りようとしている人のことを心配してる。二葉は変わったよ。いい方向に」

 レイ君に言われて、私は初めて自分の気持ちの変化に気づいた。たしかに、今までならあんなふうに飛び降りなくてよかったなんて思わなかったかもしれない。私が、変わった……? だとしたら、それは。

「レイ君のおかげかもしれないね」
「俺の?」
「……やっぱり違うかも」
「なんだそれ」

 あまりにも嬉しそうなレイ君の声色に、反射的に否定してしまう。そんな私を、レイ君はおかしそうに笑う。
 私は私自身があまり好きじゃない。でも、レイ君と一緒にいるときの私は、少しだけ好きになれそうだ。

「もっと早く出会いたかったな」

 思わず声に出してしまったその言葉はいつかと同じで。でも、今度は――レイ君は寂しそうに微笑んだ。

「俺もそう思うよ」

 私とレイ君の手のひらが手すりの上でそっと重なる。触れた感触も温度も感じない手のひらが、泣きたいぐらいに愛おしかった。


 数日後、その日は土曜日で、けれど学校に用事があったので昼過ぎに鉄橋へと向かった私は、鉄橋に誰かがいることに気づいた。

「あれ、あの人……」

 この間、鉄橋から川を見下ろしていた妊婦さんだった。あんなことを言っていたけれど、やっぱり……。

「あれ? あなたこの間もここにいた子だよね? こんにちは」
「……こんにちは。今日も病院ですか?」
「そうなの。土曜日だから混んじゃって。8時から行ったのに今やっと終わったとこなの。あなたは学校? 土曜日なのに?」
「私立なので……」

 私の答えに、目の前の女性は「そっか、そっか」と笑っている。自殺をするようには見えない。もしかしたらこの間言っていたとおり、ただ通りかかっただけなんだろうか。でも、あのときのレイ君の表情がなんとなく気にかかる。

「あの、えっと」

 でも、なんて言っていいのかわからない。そんな私に、目の前の女性が困ったように笑った。

「あ、もしかして私が自殺しに来たってそう思ってるんでしょ? そういえば、この前もそんなこと言ってたよね」
「えっと、その……はい。ここに来る人って、みんなそういう目的の人ばかりなので」
「――あなたもそうなの?」

 返された質問に、私は言葉に詰まる。そりゃそうだ。さっきの私の言い方じゃあそう言っているようなもんだもん。
 でも、私の返事よりも早く、その人は口を開いた。

「なんてね、意地悪な質問だったよね。……私ね、この間ここであなたに会ったとき。あの日が初めてじゃなかったの。ここに来たの」

 知ってます、とは言えない。だから私は少しだけ驚いたように見えるように、軽く目を見開いた。

「ビックリした? ……そのときはね、本当にここから飛び降りようかって思ってたの」
「……どうしてか、聞いてもいいですか?」
「お腹の子に、病気が見つかったの」
「え……? 病気……?」

 優しい表情でお腹に手を当てるその人の言葉の意味が一瞬わからなかった。
 お腹にいる赤ちゃんの病気がわかるのだろうか。いや、わかるからそう言われたんだろうけど、でも……。

「周りからは堕ろせって言われるし……。これから先、生まれてきたこの子がずっと大変な目に遭って生きるぐらいなら最初から生まれてこない方がいいんじゃないか。でも、この子一人で逝かすなんてこと私にはできない。それならいっそ一緒に死んじゃった方がいいんじゃないかって。その方がみんな幸せになれるんじゃないかって。……バカよね」
「そこまで思ってて、どうして死ぬのをやめたんですか……?」
「家で待ってる夫と、それから娘の顔が思い浮かんで」
「娘さん……」
「頭が回ってなかったの。残された娘がどんな思いするかなんて考えることもできてなかった。情けないわよね、お母さんなのに。母親失格よ」

 病気が見つかった子のために、今いる娘さんを置いてお腹の子と死んでしまおうとする。それが、娘さんへのどれほどの裏切りかこの人はわからなかったのか。大切なお母さんが、まだ生まれていない妹か弟のせいで死んでしまった。そんな思いをさせることになるなんて……!

「最低ですね」

 口に出してから、ハッとした。目の前で悲しそうに微笑む姿があったから。
 でも出てしまった言葉が戻ることはない。気まずくなって私はその人から目をそらした。
 そんな私に、その人は話し続ける。

「そう、最低なの。ホントに……」
「どうして、死ななかったんですか?」

 まるで死んでほしかったとでも言うような言い方になってしまった。でも、実際この人からはレイ君のことを見えないのなら誰も止める人はいなかったはずだ。なのに、どうして。
 そんな私の問いかけに、その人はお腹に手を当てて優しく微笑んだ。

「お母さんだから、かな」
「お母さん、だから?」
「うん、この子の、それから娘の。どちらも大切で愛しくて……この子たちを守れるのは私しかいないんだってそう思ったの」
「……本当に?」
「え?」

 思わず聞き返してしまった私に、その人は顔を上げた。私は今、どんな顔をしているのだろう。でも、目の前の勝手な女性が許せなかった。

「あなたはそれでいいかもしれない。でも、今もうすでにいる娘さんがどう思うか考えたことある?」
「ど、どうしたの?」
「私は……! 私のお姉ちゃんは、小さな頃から腎臓が悪くて、今もあの病院に入院してる。子どもの頃からお母さんとお父さんの一番はいつだってお姉ちゃんだった。お誕生日会も運動会も劇で主役をしたときも、必ず見に行くからって言っといてお姉ちゃんの具合が悪くなったらそっちを優先して私の方になんて来てくれなかった。こんな思いを、娘さんにさせないって本当に言える!? 私みたいに親から愛されてない子にしないって!」

 ああ、こんなのただの八つ当たりだ。自分の両親への不満をこの人にぶつけているだけだ。頭ではそうわかっているのに、止めることができない。辛くて苦しくてずっと蓋をしてきた感情が一気に溢れだしてくる。
 怒鳴るように言ったせいで呼吸がうまくできない。苦しくて涙が溢れてくる。肩で息をする私の背中を、女の人は優しく撫でた。

「苦しかったね。辛かったね。……ごめんね」
「なんで、あなたが謝るんですか……」

 必死に絞り出した声に、その人は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 
「きっとあなたのお母さんもごめんって思ってると思うから」 
「そんなこと……」
「ないわけないわ。だって、上手く伝えられないだけできっとあなたのことだってお母さんは大好きだと思うから。……ね、名前なんていうの?」
「二葉、です」
「二葉ちゃん、か。あ、私は椿っていうの。でね、二葉ちゃん。もしかしたらお母さんはあなたなら許してくれるって思ってるのかもしれない。もしかしたらいっぱいいっぱいで二葉ちゃんなら大丈夫っ言ってくれるかもしれないって、そう思ってるのかもしれない。もしかしたらそこまで思う余裕すらないのかもしれない。でもね『そんなことない』って言ったっていいのよ」

 椿さんは優しく言うけれど、私は反射的に首を振っていた。だって……。

「どうして?」
「だってそんなことしたら……困らせちゃう」
「困らせたっていいじゃない、あなただってお母さんの子どもなんだから。だだをこねたってわがまま言ったっていいの。言ってあげて。それを言われるのはお母さんの、親の特権なのよ」
「特権……」

 そんなふうに思ったことなんてなかった。私のわがままはいつだってお母さんの迷惑でしかないのだとずっとそう思っていた。でも、もしかしたら私が声を上げていたら、お母さんと私の、家族の関係はもっと違ったものになっていたのだろうか。
 今となってはもうどうでもいい。なけなしの期待すら、何度も何度も裏切られてきたのだから。

「そう思うんだったら、椿さんは娘さんを、今いる娘さんのことも大事にしてあげてください。私みたいにお姉ちゃんを恨んで家族に愛情のかけらもなくなるような、そんな子にならないために」
「二葉ちゃん……」
「それから、もうここに来ないでください」

 ここは別に私のための場所なわけではない。なのにずいぶんと勝手なことを言っていると思う。でも、この人がここにいると胸の奥がザワザワする。棄ててきた感情を掘り起こされているようで苦しい。
 椿さんは何か言いたげに私を見つめていたけれど、小さく「わかった」と呟いた。

「もうここには来ない。……でも、最後に」

 ふわっと、優しいぬくもりに包み込まれていた。そのぬくもりは、私がずっと焦がれて焦がれて、そして諦めてきたものだった。

「たとえ誰かがあなたのことを不必要だと思ったとしても、あなただけはあなたのことを必要としてあげて。あなたは誰かのものじゃない。あなた自身のものなんだから」
「私、自身の……」

 レイ君にも似たようなことを言われたのを思い出す。
 私は、私を大事にできていないのだろうか。大事にするとはどういうことなんだろうか。その答えはまだ私にはわからなかった。


 椿さんが鉄橋を去り、私はレイ君の元に向かう。少し離れたところから私たちの様子を見ていたレイ君は歩いてきた私に微笑んだ。

「やっときた」
「待ちくたびれた?」
「まあね」

 優しく笑うレイ君に心臓がどくんと跳ね上がるのを感じる。正直なところ、この感情の名前を知らないわけじゃない。でも、今は気づきたくなかった。いつかレイ君が言っていたとおりこのままだとレイ君が私の未練になる。だから気づきたくない。この世界に未練を残させないで。
 そう思っているのに、気づけば足はこの場所へと向かってしまう。行く場所がないから、家にいたくないから。そんなの多田の言い訳だって知っている。私はただレイ君に会いたいんだ。でも、それを認めたくなくて、今日も私はいつも通りの言い訳をレイ君に告げた。

「家にいても気まずいだけだから来ちゃった」
「そっか。お昼ご飯はもう食べたの?」
「来る途中にセボンで買ってきた」

 私は手に持った袋をレイ君に見せると、中からクルミパンとクリームパンを取り出した。久しぶりに行ったセボンはたくさんのお客さんがいて、ずいぶんとお腹が大きくなってきた巴ちゃんのお母さんとお父さん――それに巴ちゃんが忙しそうに働いていた。
 最近じゃあ学校が終わるとお店のお手伝いをしているらしい。

「そっか。元気そうだった?」
「うん。まだいじめについては学校といじめた子たちとの間で話し合いをしている最中らしいけど、クラスに話せる子ができたって喜んでたよ」
「そっか、ならよかった」

 結局、いじめっ子たちの仲間になった親友とは仲違いしたままらしいけれど。「でも、いいの」と言った巴ちゃんの顔が明るかったから、きっともう大丈夫なんだと思う。

「うん、やっぱりセボンのパンは美味しい」
 
 買ってきたクルミパンにかぶりつくと、私は明るく言った。
 そういえば、最初は食べることのできないレイ君の隣でこうやって私が食事をするのはどうなんだろう、なんて思ったこともあったけれど、特にレイ君が気にしている様子もなかったので考えるのをやめた。
 私はこっそりとレイ君の横顔を見つめた。あの日、幽霊に顔色があるなんてわからないとそう思ったけれど、今はもうそれが間違いだったと、そうはっきりとわかるぐらいにレイ君は青白い顔をしていた。日に日に顔色が悪くなっていくレイ君に私は背筋が寒くなるのを感じた。

「二葉? どうかした?」
「あ、えっと」

 あまりにもジッと見つめている私の視線に気づいたのか、レイ君が不思議そうに私を見る。私は慌てて適当にごまかした。

「そ、そういえば、あれからどうなのかなって」
「どうって?」
「だから、生きていたときのことって何か思い出したりした?」
「ああ、そのこと。いや、あれからは全く。でも別にいいさ。生きていたときのことを思い出したってなんにもならないから。しょせん僕は幽霊なんだ。過去も未来も、今すらもない、虚ろな存在なんだ」

 その言葉が、なぜか無性に私を苛立たせた。まるで私と過ごしている今すらも否定されているかのようで。レイ君と過ごす今に――救われているのはまるで私だけのようで。

「帰る」
「二葉?」
「……レイ君にとって、私はしょせんその程度の存在みたいだから」
「どういう……」

 まだ何か言いたそうだったレイ君を振り切って私は鉄橋を駆け抜けた。追いかけてきてくれるわけなんかない。そもそも鉄橋を渡りきったら追いかけられるわけないんだ。

「っ……くっ……」

 どうして、私は今、泣いているんだろう。
 何がこんなにも辛くて苦しいんだろう。レイ君に否定されただけで、どうして……。

「いつの間に、こんなにも好きになってたんだろう」

 もう気づかないふりなんてできなかった。こんなにも、こんなにも心が叫んでいるのに、自分自身をだまし続けることなんてできなかった。
 私は、レイ君が好きなんだ。レイ君が好きで好きで仕方がないんだ。

「どう、しよ……これじゃあ、本当にレイ君が未練になっちゃう……」

 一瞬、それもいいかもしれないと思った。そうしたら死んでからもずっとレイ君と一緒にいられるかもしれないのだ。
 でもきっと、私がそんなことになったら彼は自分自身を責めるだろう。レイ君はそういう人だ。じゃあ私はどうしたらいいんだろう。
 答えの出ない問いの答えを、私はひたすらに考え続けた。