月曜日になると中間テストが始まり、放課後の時間が長くなった。テスト期間中ということで3時間目のテストが終わると学校を一斉に追い出された。
 お姉ちゃんのところに行きたくない、かといって家に帰りたいわけもない私は、お昼ご飯に駅前のパン屋さんでクリームパンとメロンパン、それからアイスティーを買うといつものように橋の一番奥にいるレイ君のところへと向かった。

「平日なのに今日は早いんだね」
「テストで学校が昼までだったの」

 袋から取り出したメロンパンを頬張ろうとした私は、橋の向こうから誰かが来るのが見えた。ピンク色のランドセルを背負ったその子は、橋の中程で地面にランドセルを置くとその上にのぼって橋に足をかけた。

「って、嘘!? 危ないっ!」

 一瞬、何が起きているのかわからなかった。でも、気づけば身体は動き出していた。
 私は駆け出すとその子の身体が手すりを越える寸前、なんとか掴まえることができた。

「やめて! 離して!」
「離したら落ちちゃうよ!」
「落ちるためにのぼったんだもん! 落ちていいの! 離してってば!」
「離さない!」

 どうしてこんなに必死になるのかわからなかった。でも、目の前でこの子が川に飛び込もうとしているのを見過ごせなかった。見過ごしちゃいけない気がした。
 それはもしかしたら、あのおじさんを止められなかったことへの贖罪も混ざっているのかもしれない。
 どれぐらいそうやって格闘していただろう。疲れ果てたようにその子は橋の上に座り込んだ。

「もう、信じらんないっ」

 ため息をつくとその子は膝を抱え込んでしまう。いったい何があったのだろう。
 ランドセルにつけられた迷子札のようなそれには『3年1組 宮島(みやじま)(ともえ)』と書かれていた。こんな小さな子が自殺なんて……。
 それにしても、知ってはいたしレイ君からも聞いていたけれど、こんなにも自殺者が多いなんて。だってつい二日前に、おじさんが飛び降りたところだっていうのに。

「ねえ、何があったの?」
「……言いたくない。お姉さんに関係ないでしょ」
「それは、そうだけど……でも、話を聞くぐらいなら」

 思わず食い下がってしまう私に、女の子は冷たい視線を向けた。
 
「話を聞いて何になるの? 可哀想だね、辛かったね。でもみんな頑張ってるよってそう言って終わりでしょ? そんな言葉をかけるぐらいなら最初から何も言わないで!」

 それは今までこの子がかけられてきた言葉なのだろう。私に対する攻撃的な態度も、もしかしたら自分を守る手段なのかもしれない。
 なんと言っていいかわからなかった私をよそに、レイ君はまるで当たり前のように言った。

「いじめでしょ」
「え?」
「その子、いじめられてるんだと思うよ」
「どうしてそう思うの?」
「ランドセルについた傷や落書きを消したような跡。それに、ここから飛び降りようとする子どものほとんどはいじめか虐待が原因だったよ」

 そういえば、私にも「いじめ?」って言ってたっけ。そう思いながら目の前の少女を改めて見ると、たしかに薄桃色のスカートから覗く膝小僧にはすりむいたような跡がある。膝小僧だけじゃない。指にも絆創膏が、そしてセミロングの髪の毛から見え隠れする首筋にも痣があるのがわかった。

「……虐待かもしれないじゃない」

 巴ちゃんに聞こえないように私は小さな声でレイ君に言った。
 違うと思いたかったけど、もしかしたらという思いを消せない。でも、私の言葉にレイ君は首を振った。

「だとしたら、もっと見えないところに傷を作るはずだから」
「……そうなの?」
「少なくとも、僕が見てきた子はそうだった」

 辛そうな表情を浮かべてレイ君は言う。
 いったいどれほどの数の人をここで見送ったのだろう。そしてどれだけの人がここから命を絶ったのだろう。もしかしたら私が知っているのなんてほんの一部分だけでしかなくて、本当はもっとたくさんの人がここから飛び降りたのかもしれない。ううん、飛び降りなかった人を含めたらもっと、もっとたくさん。
 そのたびに、こんな表情を浮かべていたのだろうか。辛くて苦しくて仕方がないとでもいうかのような表情を。

「ねえ、お姉さん」

 レイ君と話をしていた私を、橋に座り込んだまま見上げて巴ちゃんは言った。

「そのお兄さん、なんで透けてるの?」
「……レイ君が見えるの?」
「見える」

 頷く巴ちゃんに、思わず私はレイ君を振り返った。そんな私にレイ君は肩をすくめると巴ちゃんの方を向いた。

「それは僕が幽霊だからだよ」
「……私が子どもだからってバカにしてるの?」
「嘘だと思うなら、ほら触れてごらんよ」

 差し出されたレイ君の手を巴ちゃんは恐る恐る取る――けれどその手はレイ君の手を掴むことなく、宙を掻いた。
 それでもまだ信じられなかったのだろう。二度、三度とレイ君を掴もうとする。けれどどれだけ触れようとしても触れることはできなかった。

「わかってくれた?」
「本当に幽霊なの? なんで幽霊になったの?」
「君がしようとしたことを、僕もした。その結果、あの世に行くともできず、ここにとどまり続けてるんだ」
「……そうなんだ」

 巴ちゃんは何か考え込んでいるようだった。私はそんな巴ちゃんの隣に並んで座った。ぺたっと座った鉄橋は思った以上に冷たくて、触れたところから体温が奪われていく。十月なのにまだ気温が高い今日はその冷たさがどこか心地よかった。

「ねえ、巴ちゃんは――あ、巴ちゃんって呼んでもいい?」
「別にいいけど」
「じゃあ、巴ちゃん。お腹空かない?」
「へ?」

 怪訝そうに私に視線を向ける巴ちゃんに、袋から取り出したパンを見せた。買ったときはまあ温かかったパンが冷めてしまった。冷めても美味しいけれど、できるなら温かいあいだに食べたかった。とはいえ、仕方ない。
 
「私もうお腹ぺっこぺこ。クリームパンとメロンパンならどっちが好き?」
「それって、駅前のセボンのパン?」
「あ、知ってる? 私、あそこのパン好きでよく買うんだよね。パンもいいんだけど、ご夫婦でやっててどちらも感じがよくって」
「知ってる。だってあそこ、私の家だもん」

 巴ちゃんの言葉に、持っていたパンを落としそうになって慌ててキャッチする。パンの無事を確かめて、私はホッと息を吐き出した。
 
「危なかった。で、え、ホントに? 巴ちゃんのおうちなの?」
「ホントだよ。ね、メロンパンもらっていい?」
「あ、うん。はい、どうぞ」

 差し出したメロンパンを巴ちゃんは頬張る。その隣で私はクリームパンにかぶりついた。セボンのクリームパンはカスタードクリームが甘さ控えめでクドくなりすぎず、いくつでも食べられちゃうと女の子に大人気だ。ちなみにメロンパンの中に入っているクリームも絶品で、外はビスケットのサクサク感、中はしっとりクリームのコンボで別々に食べてから一緒に食べると、二度どころか三度美味しい仕様となっている。
 ……学校からの帰り道、お姉ちゃんの病院に行くときによく買っていたことは忘れてしまいたい。
 それにしても、巴ちゃんがセボンの娘さんだったなんて。でも言われてみると、確かにセボンの奥さんと雰囲気が似ている気がした。

「なに?」
「な、なんでもない。やっぱり美味しいね、セボンのパン」
「当たり前でしょ。パパとママが朝早くから頑張って焼いてるんだから」
「そっか。素敵なご両親だね」
「……うん」

 小さく頷くと、巴ちゃんはメロンパンをジッと見つめた。その目が潤んでいるように見えて、私はさっきの自分の発言が間違いだったことに気づく。
 この子はご両親のことが大好きで、心配かけたくないんだ。だから一人で抱え込んで、そして選んだのがこの橋から飛び降りることだったなんて――。

「ねえ、どうして橋から飛び降りようとしたのか教えてくれない?」

 お互いに無言で食べていたパンが空っぽになったころ、私は巴ちゃんに話しかけた。でも、私の問いかけに、巴ちゃんは何も言わない。
 そりゃそうだ。今日初めて会ったような人間に、自殺しようとした理由を話すわけがない。レイ君の言っていたいじめが原因だったら余計にだ。
 なんでこんなに必死になるのか……。それはきっと、私のせいじゃないとレイ君は言うけれど、あのおじさんのように上辺だけの耳障りのいい言葉を並べて、相手の心に全く届かなかった結果、この橋から飛び降りるような、そんなことにはなってほしくないから。
 自分でもおせっかいだなと思う。でも、こんな小さい子が自殺なんて絶対に駄目だと思うから、なんとかして引き留めたかった。
 ただ引き留める方法が思いつかなくて歯がゆい。
 結局、私には何もできない――。

「……お姉さん、いつもここにいるの?」
「うん、いるよ!」

 だから、巴ちゃんからそう話しかけてくれたことが凄く嬉しくて、私は食い気味に返事をする。そんな私に巴ちゃんは驚いたような表情を浮かべながらも「ふーん」とだけ呟いた。

「いつでもいるから、よければまたここで一緒にパン食べようよ」

 でも、巴ちゃんは返事をすることなく立ち上がると、ランドセルを背負うと私に背中を向けて歩き出した。
 私の声は、巴ちゃんには届かなかった……。小さくなっていく背中を見つめることしかできない私は自分の力のなさにうなだれる。そんな私の耳に、巴ちゃんの声が聞こえた。

「クルミパンの方がおいしいよ」
「……! じゃあ、今度はクルミパン買っておくね!」

 それ以上、巴ちゃんが何か言うことはなかった。でも、きっとまた来てくれると思うとそれだけで嬉しかった。

「クルミパン、買ってこなくちゃ」
「まあ、根本的な解決にはなってないけどね」

 レイ君はさっきまで巴ちゃんが座っていたところに立つとそう言った。
 そんなの私にだってわかってる。死にたいと思うほど追い詰められた巴ちゃんの心はきっとこれぐらいじゃあ助けることはできない。

「でもまあ、居場所ができたのはいいことじゃないかな」
「……うん、私もそう思う」

 自分の居場所がないことがどれほど辛いか、私は身をもってそれを知っている。そしてきっと、ここからどこにも行けないレイ君も。
 立ち上がると、私はレイ君の隣に並んで沈み始めた夕日を見つめた。

「明日も来るかな」
「来るんじゃない?」
「来てくれるといいな」
「お人好しだね」

 レイ君の言葉に笑ってしまう。だってきっと私が巴ちゃんを止めなければ、レイ君が声をかけていたと思うから。

「何笑ってんの」
「なんでもない」

 ふふっと笑いながら空を見上げる。いつの間にかうっすらと空に浮かび始めた月が、私たちを見下ろしていた。

 
 翌日もその翌日も、私はテストが終わると鉄橋を訪れた。そして――巴ちゃんも。
 お昼を少し過ぎたぐらいにひょっこりと顔を出す巴ちゃんと二人で、セボンのパンを食べてとりとめのない話をする。好きなアニメの話とか、流行っているアイドルとか。英語の暗記をする私の隣で、巴ちゃんがランドセルを机代わりに宿題をするときもあった。
 少しずつ巴ちゃんとの距離が近づいていくのを感じる。ただ、肝心な話は今もできずにいた。

「なんかさ、二人って似てるよね」
「どこが?」

 食後のアイスティーを飲んでいた私と水筒のお茶を飲もうとしていた巴ちゃんを見て、レイ君がおかしそうに言う。
 けれど、そんなレイ君に間髪を容れず言う巴ちゃんに少なからずショックを受けた。

「巴ちゃん、そんな嫌そうに言わなくても」
「べ、別にイヤとかじゃなくて! どこが似てるんだろうって思っただけでしょ!」
「じゃあ嫌じゃないってこと?」
「イヤじゃないとも言ってないけど」
「ふっ。やっぱり似てるよ。なんか姉妹みたい」

 笑いをかみ殺しながらレイ君は言う。その言葉に私は胸の中がくすぐったくなるのを感じる。姉妹、妹、かぁ。妹がいたらこんな感じだったのだろうか。かまいたくなって、気になって、優しくしたくて、可愛がりたくて。
 ……お姉ちゃんも、私に対してそんなふうに思ってくれてるのだろうか。優しくて妹思いのお姉ちゃんに素直に答えることができなくなったのはいつのことだったっけ。昔はお姉ちゃんが大好きだったのに。ううん、今も大好き。でも、大好きだけど大っ嫌いだ。
 そんな私の心情なんてお構いなしに巴ちゃんは小さく笑う。

「二葉ちゃんがお姉ちゃんだったら大変そう」
「ええー、どうして? 自分でも言うのも変だけど、きっと優しいお姉ちゃんだと思うよー?」
「なんか、めんどくさそう。……それに、私は妹じゃなくて、お姉ちゃんになるんだから」
「それって、もしかして?」
「そう、来年になったら妹か弟が生まれるんだって。だから、私はお母さんに心配かけちゃいけないの」

 膝をギュッと抱え込むと、巴ちゃんは寂しそうに呟く。その言葉があまりにも苦しくて、私はその背中をそっと抱きしめた。

「……やめてよ、私は可哀想なんかじゃないんだから」
「うん、可哀想なんかじゃない。ただ、頑張り屋さんな巴ちゃんを見て抱きしめたいなって思っただけ。ダメかな?」
「……ダメじゃ、ない」

 巴ちゃんの言葉が、肩が震えていることに気づいたけれどそれには触れず、私はその身体を抱きしめ続けた。
 この小さな背中に、どれだけのことを抱えているんだろう。お母さんに心配かけないように、たった一人で抱え続けて……。
 どうして家族は、お母さんは気づいてあげないのか。いくら子どもが隠したところで、親ならほんの少しのSOSを感じ取ってあげるべきじゃないのか。私だって、本当は……!
 そこまで考えて、自分自身の考えが恥ずかしくなった。両親に対して期待していない、や愛情なんてないと思いつつも、心の奥底ではこんなふうに期待して、そして勝手に失望していたのかと。

「ねえ、巴ちゃん。私は何があっても巴ちゃんの味方だ、なんてカッコいいことは言えない。でも、こうやって巴ちゃんが辛いときにそばにいられたらって思うよ」

 私は、私自身の言葉で巴ちゃんに想いを伝える。

「だからさ、辛くなったらいつでもおいで」

 巴ちゃんからの返事はなかった。その代わり、抱きしめている私の腕を巴ちゃんはギュッと握りしめた。


 日が暮れ始める頃、巴ちゃんは一人家へと帰っていった。鉄橋に映る巴ちゃんの影がもの悲しさを感じさせる。

「……でも、実際問題さ」

 そんな背中を見つめながらレイ君がポツリと呟く。

「二葉の試験もあと二日で終わる。そのあとのことをそろそろ考えておかなきゃいけないと思う」
「わかってる」

 でも、今の巴ちゃんを突き放すことなんてできない。だって、巴ちゃんにとって今、逃げ場所はここしかなくて、私たちしかいなくて。もしも今私たちがいなくなってしまったら、巴ちゃんは……。

「せめて、巴ちゃんがご両親にいじめられてることを伝えられるまで、それまでそばにいられたら」
「……学校はどうするの」
「それは……。とりあえず来週はテスト休みだし……」
「その後は?」

 言葉に詰まった私に、レイ君は何も言わなかった。鉄橋の上にはもう巴ちゃんの姿はない。私は、胸の奥の重い気持ちを拭いきれずにいた。


 翌日、テスト終わりに担任から呼ばれ、いつもよりも遅く鉄橋へとたどり着いた。そこにはもう巴ちゃんの姿があって、レイ君と何か言い合いをしている姿が見えた。

「二人とも、どうしたの?」
「二葉ちゃん! ほら、来てくれたじゃない」
「別に来ないとは言ってないだろ」
「どういうこと?」

 ばつが悪そうに視線をそらすレイ君の代わりに、頬を膨らせた巴ちゃんが口を開いた。
 
「二葉ちゃんが遅いから心配してたら、レイ君が『二葉が来るとは限らないだろ』っていじわる言うんだもん」
「そっか……。心配かけてごめんね」

 たった数日で私に対して信頼を置いてくれている巴ちゃんに嬉しく思うと同時に、昨日のレイ君の言葉がよみがえる。このままで言い訳がない、私だって来週は試験休みとはいえ、再来週からは通常授業が始まる。そうしたら今みたいにお昼からここに来ることなんてできなくなる。
 そういえば、そもそも巴ちゃんは学校はどうしてるんだろう。小学生といってもこんなに早く学校って終わるものなのだろうか。
 浮かび上がった疑問に、どうして今まで気づかなかったのかと自分自身が嫌になる。

「ね、ねえ巴ちゃん」
「なあに?」

 鉄橋のコンクリートに座り、手渡したセボンのクルミパンを頬張りながら巴ちゃんは返事をする。そこにはもう、初めて会ったときの、トゲトゲした表情はなかった。

「聞いてもいい……? 私は今、テスト期間中で学校が終わるの早いんだけど、巴ちゃんは……?」

 もしかしたら学校に行ってないのかもしれない。だとしたら、どうしたらいいんだろう。どうしてあげたら、いいんだろう。
 でも、そんな私に巴ちゃんは口の中のクルミパンを飲み込むと首をかしげて言った。

「先生の勉強会で今週はずっと午前授業なの」
「な、なーんだ。そっかぁ」
「あ、もしかしてサボって来てると思った? そんなことしたらすぐに家に連絡行くからするわけないじゃん」
「や、そうだよね。あーよかった」

 ホッとした私の隣で巴ちゃんは呆れたような視線を向ける。でも、そんな巴ちゃんをなぜかレイ君は目を細めてジッと見ていた。

「レイ君?」
「ああ、いや。なんでもない。先生の勉強会ってことは、それが終わったら普通に昼からも学校があるんじゃないの?」
「……そうだよ。あーあ、そうしたらどうしようかな」
「ねえ、いじめのこと誰か相談できる人とか、いないの……?」

 私の言葉に、巴ちゃんは一瞬、泣きそうな表情を浮かべた。

「ち、違うの。ごめんね? 別に大人の人とか先生とかそういう人に言えってことじゃなくて、ほらお友達とかで相談できる子とかいたらって……」
「っ……いない」
「巴ちゃん……?」
「友達なんて、いない!」
「あっ……!」

 立ち上がろうとする巴ちゃんの手を慌てて掴む。巴ちゃんは目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。ハンカチをそっと手渡そうとするけれど、巴ちゃんは受け取らず私が掴んでいるのとは逆の手で涙を拭った。
 そんな巴ちゃんの反応に不安になり、恐る恐る問いかけた。

「友達と、なにかあったの……?」
「…………」
「もしかして、巴ちゃんをいじめてるのが友達、とか……?」
「違う! 茉優はそんなことしない! ただあいつらに脅されて……それで……!」
「巴ちゃん……」

 なんと声をかけていいのかわからない。でも、肩をふるわせる巴ちゃんが傷ついているのはわかった。
 落ち着くまでしばらく待って、隣に座り直した巴ちゃんはぽつりぽつりと話し出した。

「きっかけは今でもよくわかんないの。私が風邪で休んでて、三日ぶりに学校に行ったらクラスの空気が変わってた。でも、そんなこと気にしないで茉優に話しかけに行ったら周りの子から茉優に近寄らない方がいいよって言われて」

 思い出すだけで辛そうな表情を浮かべる巴ちゃんの手をギュッと握りしめる。レイ君も何も言わないけれど心配そうな表情で巴ちゃんを見つめていた。

「けどそんなこと言われても意味わかんないし。私は茉優と一緒にいたいからって言ったんだけどそれが茉優を仲間はずれにした子たちの気にさわったみたいで、私まで無視されるようになったの。でも、茉優が一緒にいてくれたし、別に普段からそこまで仲良くない子たちに無視されたって気にもならなかった。……あの日までは」
「何があったの?」

 繋いだ私の手に伝わってくる巴ちゃんの手のひらの温度は、泣きたいぐらいに冷たかった。

「……朝、学校に行ったら私の机が教室になかった。くだらないことするなって思って探しに行こうとしたら、自分の席に座っている茉優と目が合ったの。茉優は私から目をそらすと……この前まで茉優と私を仲間はずれにしてた子たちの方に行った。それからは地獄だった。物を隠されたり、階段から押されたり、教科書を破られたり……」
「酷い……」
「別に物は探せばいいし、階段は手すりを持って降りるようにした。教科書はテープでつなぎ合わせたらなんとかなった。でも……それを茉優がやってるところを見ちゃったの。あの子たちと一緒に、笑いながら、楽しそうに……。その瞬間、涙が止まらなくなって……それで……」

 ポタポタと涙を流しながら巴ちゃんは言う。どんなに傷つけられるよりも、友達だと思っていた茉優ちゃんに裏切られることの方が辛かった、と。
 それでも茉優ちゃんのことを悪く言わない巴ちゃんは、本当に茉優ちゃんのことを信じていたのだろう。
 でも……。

「それで、自殺しようとしたの……?」
「『どうしてこんなことするの』ってみんなに聞いた。そしたら『あんたが嫌いだから』って。それから……笑いながら『巴なんて死んじゃえばいいのに』って……」
「そんな……!」
「あの子たちに言われたってどうってことなかった。でも、茉優も……」
「もういい!」

 私は巴ちゃんの身体を抱きしめた。この小さな身体に、どれだけの悲しみを、辛さを抱えていたのか私には想像できない。でも、今もなお巴ちゃんの心の傷口から血が流れ続けていることだけはわかった。
 こんないい子に死んじゃえばいいって言うなんて……。
 巴ちゃんは私の腕の中で、泣きじゃくりながら言った。

「ねえ、二葉ちゃん。私なんて生きていたって仕方ないのかな。死んじゃえって言われるぐらい、私が周りの子に嫌な思いをさせたのなら、私なんて死んじゃった方がいいんじゃないかな。生きてることで誰かに迷惑をかけるのなら、あの子たちの言うとおり本当に死んじゃった方が……」
「そんなことない! 少なくとも、私にとって巴ちゃんはとっても大好きで大切な友達だよ! 私は巴ちゃんが死んじゃったら悲しい。こうやってここでお喋りして一緒にパンを食べて流行りのアイドルを教えてもらって、そうやって巴ちゃんと過ごす時間はとっても大切な時間だよ!」
「っ……ふっ……う……あああぁぁ!!

 巴ちゃんは私の腕の中で叫ぶように泣き続けた。私はその身体をギュッと抱きしめた。
 ドクンドクンと鳴り響く巴ちゃんの心臓の音が伝わってくる。今ここに、巴ちゃんが生きているっていう証しが。


 しばらくすると、泣き疲れたのか巴ちゃんは私の腕の中で寝息を立て始めた。まだ目尻には涙が溜まっていて、頬にも涙の跡がくっきりと残っている。

「寝たの?」
「うん……」
「そっか」

 レイ君は私の隣にそっと座る。いつもの少し大人びた口調とは違い、こうやって目を閉じているとずいぶんと幼く見えた。
 まだ小学三年生だというのに、こんなにも苦しんでいる。きっといじめている子たちにしてみたら、なんてことない軽口なんだろう。言われた方がどう思うかなんてこれっぽっちも考えない、遊びの延長。
 それで傷ついている人がいるなんて、考えもせず。

「こんな小さい子が、あんな思いを抱えてるなんて」
「子どもでも大人でも、死にたいと思ってここに来る人はたくさんいるよ」
「それでも……! 私は巴ちゃんに死んでほしくないよ」
「……そうだね」

 君は死ぬつもりなのに?
 そう、レイ君の視線が言っているような気がして、その視線から逃げるために私は空を見上げた。
 ずいぶんと濃い青に染まり始めた空に、薄く白い月が見えた。


 30分ほどで巴ちゃんは目覚めると、慌てて私の腕の中から飛び起きた。

「っ……! わ、私!」
「寝顔、可愛かったよ」
「悪趣味!」

 わざと茶化す私に、恥ずかしそうに目尻に溜まった涙を拭うと巴ちゃんは立ち上がった。

「どこに行くの?」
「もう帰る。そろそろ日が暮れ始めるし」
「そっか、気をつけてね」

 私が巴ちゃんのためにできることは何かあるのだろうか。
 考えても考えても、答えが出ることはなかった。


 翌日、最後のテストを終えた私は、学校からの帰り道、セボンに寄った。お店の中には珍しくお客さんはいなくて、巴ちゃんのお母さんだけだった。
 いつものようにクルミパンとそれから焼きたてと書かれたメロンパンを手に取るとレジへ向かう。レジの中では椅子に座った奥さんの姿があって、巴ちゃんに言われたからか確かにどこかふっくらしているような気がした。

「これください」
「はい、いつもありがとうございます」

 ニコニコと優しい笑顔を浮かべる巴ちゃんのお母さんは、巴ちゃんがいじめられていることを知らない。それはどんな気持ちなんだろう。

「クルミパン、お好きなんですか?」
「え?」

 そんなことを考えていると、巴ちゃんのお母さんが私に声をかけた。ここ数日同じものを買っていたからか、顔とパンの種類を覚えられていたみたいだ。
 頷いた私に、巴ちゃんのお母さんは嬉しそうに微笑んだ。

「これね、うちの娘も大好きなの。あ、娘っていってもお客さんよりもずっと小さいんだけど、よく嬉しそうに食べてくれてね」
「そう、なんですね。クルミパン、私も美味しくて大好きです」
「よかった。あ、これおまけ。よければ食べてね」

 パンを袋に入れながら、レジ横に置いてあったラスクを一緒に入れると、巴ちゃんのお母さんは「また来てくださいね」と巴ちゃんによく似た笑顔で言って笑った。
 こんなにも優しいのに、どうして巴ちゃんがいじめられていることに、気づいてあげないんだろう。

「あの……?」

 商品を受け取ることなく立ち尽くす私に、巴ちゃんのお母さんは不思議そうに首をかしげる。
 私は、思わず口を開いた。

「っ……娘さんって、いくつなんですか」
「ああ、うちの娘? 小学校三年生。まだまだ子どもなのに大人ぶってね。そういう年頃なのかしら。生意気になっちゃってねー」
「そう、ですか」

 だから、可愛くないのだろうか。だから、無関心なのだろうか。だから、いじめに気づかないのだろうか。
 思わず口から出かかった言葉は、そのあとの巴ちゃんのお母さんの言葉に遮られた。

「でもね、生意気でも大人ぶってても、私の大事な大事な子どもなの。可愛くて可愛くて仕方がない、私がお腹を痛めて産んだ子どもなのよ」

 そっとお腹に手を当てるその顔は、とっても優しい表情をしていた。

「娘さんのこと、大好きなんですね」
「ええ。この世で一番大切な子よ」
「羨ましいです」

 思わず漏れた本音だった。慌ててごまかそうとした私に、巴ちゃんのお母さんは優しく微笑んだ。

「母親はね、お腹を痛めた我が子を愛おしく思ってるものなのよ。伝わりにくいこともあるかもしれない。でも、自分の子どもを愛していない母親なんていないわ」
「……だと、いいんですけど」
「え?」
 
 巴ちゃんのお母さんに頭を下げると、私はパンを受け取って店を出た。そして急ぎ足で鉄橋へと向かう。
 きっとあのお母さんは、巴ちゃんがいじめられていることを知ったら傷つくと思う。自分が気づいてあげられなかったことにたいして、そして言ってもらえなかったことに対して。守ってあげられなかったことに、たいして。
 お母さんに心配をかけたくない巴ちゃんの気持ちもわかる。でも、私には向けられることのないあの視線が羨ましくもある。あんなふうに愛されたかった。

 
 カンカンといつもより強く鉄橋を走りながら鳴らすと、私は、レイ君と私より先に来ていた巴ちゃんの元へと向かった。そして――。

「巴ちゃん、やっぱりこのままじゃダメだよ!」
「なに、急に……」
「お母さんにいじめのこと相談しよう? このまま逃げてるだけじゃなんにも解決しないよ!」
「な……んで、そんなこと」
「あ……」

 まくし立てるように言った私の目の前で、巴ちゃんは瞳に大粒の涙をためていた。
 まばたきと同時にその涙がぽたりと落ち、鉄橋に黒いシミを作る。

「どうして……二葉ちゃんは、私の味方じゃなかったの……?」
「味方だよ! でも、ずっとこのままじゃいられないから……」
「なんで……私と一緒にいるのが面倒になったの……? テストが終わって来られなくなるから、その前に追い出そうとしてるの……? 私は、私はここに来て、やっと居場所ができたって、そう思ってたのに」
「待って……!」

 巴ちゃんは立ち上がると、私の隣を走り去る。慌てて追いかける。けれど思った以上に巴ちゃんの足は速くて、ようやく追いついたのは鉄橋を出る寸前のところだった。腕を掴んだ私を、巴ちゃんはにらみつけるようにして拒絶する。

「離して!」
「離さない! 巴ちゃんのことが邪魔になったとか、面倒になったとかそういうのじゃないの。ただ、私は……もう巴ちゃんの辛い顔を見たくないだけなの!」
「二葉ちゃん……」

 私の手を振り払おうとしていた巴ちゃんの腕から、力が抜けたのがわかった。
 
「それに、ね。きっと巴ちゃんのお母さんも、黙って巴ちゃんだけが傷ついているこんな状態を望んでないと思う」
「二葉ちゃんにお母さんと私の何がわかるの!?」
「わからないよ! わからないけど、でも! 巴ちゃんのお母さんが巴ちゃんのことを大事にしていることはわかる。大切で、愛しくて……私が向けられたことのない感情を、巴ちゃんに向けられていることは、わかるよ」
「二葉ちゃん……?」

 自分の母親からの愛情をこれっぽっちも感じていない私が言うなんて滑稽だと思う。でも、それでも巴ちゃんのお母さんの巴ちゃんに対する愛情は痛いほどに伝わったから。どうか、その気持ちが届いてほしい。伝わってほしい。あなたは私と違って、お母さんから愛されてるんだから。
 私の言葉に、巴ちゃんが心配そうに見上げてくる。でも私は何も言うことなく巴ちゃんにクルミパンを手渡した。

「娘もこれ大好きなのってお母さん言ってたよ」
「え……?」
「生意気で大人ぶってるけど、でも巴ちゃんのことが大切で大事で愛しいんだってお母さん言ってた」
「おかあ、さん……」
「……ね、もしもさ巴ちゃんの知らないところで巴ちゃんのお母さんが意地悪を言われたり嫌がらせされたりしてて、でも巴ちゃんに心配かけたくないからって黙ってたら巴ちゃんはどう思う?」
「そんなのダメだよ! どうして言ってくれなかったのって……悲しくなる……」

 言いながら、私が言いたいことが分かったのか、巴ちゃんの声はだんだんと小さくなる。そんな巴ちゃんの手のひらを私はギュッと握りしめた。

「うん、そうだよね。悲しくなるよね。……きっとさ、巴ちゃんのお母さんも同じ気持ちなんじゃないかな。どうして言ってくれなかったのって、頼ってくれなかったのって。気づいてあげられなくてごめんね、守ってあげられなくてごめんねって辛くて苦しくなるんじゃないかな」
「……私の、せいで」
「巴ちゃんのせいじゃない。巴ちゃんはなんにも悪くない。悪いのはいじめてる子たちだよ。逃げるのも大事、でも、誰かに頼ることはもっともっと大事なんじゃないかな」

 巴ちゃんは何も言わない。何も言わずに、その場に座り込むと、手渡したクルミパンを口いっぱいに頬張る。
 巴ちゃんの頬を涙が伝い落ちていった。

「……月曜日」

 どれぐらいの時間が経っただろう。巴ちゃんがポツリと口を開いた。

「月曜日まで、待って。明日はお母さんの誕生日なの。そんなときに心配かけたくない。月曜日になったら。そしたら、お母さんに話すから。だから……」
「……わかった。じゃあ月曜日」
「うん。約束する」

 約束、という言葉に胸が苦しくなる。
「ああ、約束だ」
 そう言って力なく笑ったおじさんの姿がフラッシュバックする。もしかしたらこの約束をしたあと、巴ちゃんもまたここから飛び降りてしまうかもしれない。そんなことを考えると、約束という言葉が怖くなる。

「二葉ちゃん? どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもない」

 突然黙り込んでしまった私に、巴ちゃんが不安そうな視線を向ける。
 私は慌てて首を振ると笑みを浮かべた。
 巴ちゃんはそんなことしない。現に今も、辛いのは自分なのに、私を心配してくれている。巴ちゃんはあのおじさんじゃない。だからきっと、大丈夫……。
 ホッとしたように息を吐くと、巴ちゃんは「二葉ちゃん」と私の名前を呼んだ。
 
「どうしたの?」
「二葉ちゃん、月曜日もここに来る……?」
「来るよ。来週は試験休みで学校もないし、朝からここに来ようかな」
「二葉ちゃんってさホント暇人だよね」
「失礼な」

 ふふっと笑う巴ちゃんは、まだ不安そうな顔をしていたけれど、もう涙を流してはいなかった。その笑顔を私は信じたい。
 巴ちゃんがまだ未来を諦めていないのだと。巴ちゃんの未来はまだまだ続くのだと。