「あなたたちは何者なのですか」
 出会った頃と変わらず、知性の潜む目は、柾を見ている。
 今までとは逆に問いを向けられて、柾はくすりと笑いを落とす。

「何も持たない、ただの旅人だけど」
「町の人間が駆けつけてくるだろうと言った。ぼくはこの家と道と町を知っているから、誰よりも早くこの家に戻れた。でも、どうして、余所者であるあなたが、誰よりも早くここに来ることができたのです」
「少しばかり、普通より足が速いのは、確かだな」
「呼吸も乱さずに、ですか」

 姿を見せたとき、彼は少しも焦った風でもなく、苦しそうな息をする様子でもなく、空気を乱さず雨の中にまぎれていた。駆けて来たのではなく、空間を割って現れたかのように。
 まるで、はじめからそこにいたかのように。

 首に巻かれた包帯も、雨に打たれて塗れている。なのに血が滲む様子もなく、彼は少しの痛みも見せない。

「気のせいじゃないかな。あんたは、動転していたようだし」
「ぼくは、あなたを殺しました」
 はぐらかすのを許さず、慎司は続ける。

「ぼくは確かに、あなたの首を狙って、祖父の脇差を刺したんです。暗かったけれど、手ごたえはあった。家に戻ったとき、確かにぼくの手は、血で真っ赤だった。あなたに血まみれで捕まれた手の跡が残っていた」
「血の量の割りに、たいした傷じゃないと言われたけど」
「そんなはずありません。ぼくはこれでも、武術を叩き込まれています。だいたいの予想はつきます」
「ただの予想だろう」
「もし、急所を外したのだとしても、数日のうちに、そんなに動き回れるはずがありません」
 相手は、そうかい、とつぶやいて、何も答えなかった。それ以上は、余計な言葉を挟まなかった。

 
「あなたたちは何者なのですか」
 言葉は、ゆるやかに空気を渡る。

 月は、空高く遠い。薄く覆う雲に隠れて、仄かな明かりを地面に投げている。
 触れるように降る雨が、その姿をさらに滲ませる。さわさわと耳をなでるような音で、静かに、静かに濡らしていく。

 問いかけに、束の間表情を消し去ったそのひとは、そうしていると端整な顔立ちを思い出させる。
 いつもは、懐こい表情に、言葉に誤魔化されている。ただびととは思えないような、冴えた容貌だった。

「さあ、何かな」
 そして彼は笑う。前髪から雫を落としながら、人の姿をした何者かは、いつも通りに、人のような笑みを見せた。
「それはあんたが決めればいい」
 穏やかに、ゆるやかに。

「俺たちは、財産も住むところも、自分自身とお互い以外には何も持たないただの旅人だ。あんたにとって何者かは、あんたが決めれば良い」
 謎かけのように。はぐらかすように。
 楽しそうに一つ息をついて、彼は続ける。

「弾劾するかい」
「いいえ」
 睫毛の上に雨が降る。重く瞬いて、慎司はにじむような笑みと共に言った。
「ぼくも、もう人ではありませんから」

 人のようではない存在に、人から外れたことを指摘される不可思議さが、おかしくも楽しく滑稽だ。けれど、不快ではない。
 ただ無責任な正論を、正義を突きつけられ、偽善に溺れられるよりは、余程心地が良かった。

 密かに揺らぐ月の光と一緒(とも)に、雨露が落ちている。雫が地面を、屋根を叩き、風が草木を揺らす音にまぎれて、人の声が聞こえてきた。少ない数ではない。そして、囁くような声でもない。

 夜、人は出歩かない。瓦斯灯(ガスとう)が、皓皓と夜を照らし出すようになっても、まだ深い闇は残っている。押しのけられ、さらに濃く、強く蟠っている。この山の中のように。
 この、人の心のように。そうして人々は、怒りの声を発しながら登ってくる。道すがら数を増やして、追いついてきた。

「行ってください」
 慎司は、急に少しだけ眉を強くして、柾に言った。
「あんたは」
「ぼくのことは、どうとでもなります」
「俺たちのことだって、どうとでもなる」
「でも、あなたたちがここにいるのを見られるのは、良いことではないはずです。ぼくのことは気にしないでください」
 権力と金がある。
 だが人の怒りと恐怖は、それを上回ったとき、どうなるか分からない。

「あんたひとりなら、連れて逃げることくらい簡単だ」
「ぼくを助けるのですか。ぼくは人を食らったのに、命も何もかも奪い尽くしたのに、ぼくのような者を助けるというのですか」
「それが綾都の願いだろう」
 ――――たったひとりになっても、生きて。

「いいえ」
 けれども慎司は、確とした態度で首を横に振った。清々とした笑みを浮かべて、言った。

「ぼくも、あなたたちのように生きたかった」
 財産も家も、名もいらない。ただ、綾都と生きていければそれで良かった。たとえ己が何者であろうとも。

 何もいらない。何も何も、何も。
 願った。綾都もきっと、同じように願っていた。
 だからきっと彼は、自分がいなくなった後、慎司が生きていけるようにと願ってくれたはずだ。だけどそれが願いでしかないことも、分かっていたはずだ。逆に彼自身だったら、どうするかも。
 だから、強要しようとはしなかった。何も約束をしなかった。

「行ってください。人の記憶に残るのは、あまり良いことではないのでしょう」
 慎司の言葉に、柾は、聞こえていたのかと、少し困ったように笑った。
 外から、門を打ち叩く音が響いている。