「何をしているか分かっているのかい」
「分かっています」
「あんたが持ってる、それは何だい」
言われて初めて、それに気づいたかのように慎司は自分の手元へと目を落とす。
「人の腕です」
「かじりついてたものは何だい」
「人の肉です」
「その血は、なんだ」
「人の血です」
淡々と言葉が返ってくる。
「あんたは、何をしているんだ」
「さあ、なんでしょうか」
「どうする。町の人間は、お前を許さないぞ」
「許さないって、何のことです」
「あんたは、やりすぎた。死体を荒らすまでならば、町の人間もこらえたかもしれないが、人を襲いすぎた」
「そうでしょうか」
何か問題でもあるのか、と曖昧に問う。柾はその慎司に対し、強く言い返した。
「食らっている姿を人に見られたのでは、どうにもならない。怒りも驚きも恐怖も、何も、もう誰も抑えてくれない」
「そうですか」
「しかもあんたは、この雨の中、裸足で下におりた。逃げてきた足跡が、ぬかるんだ地面に残っていた。皆がすぐにここへ押し寄せてくる」
「でも、ぼくではありません」
手に、体の無い腕を持ったまま、少年は柾を見上げた。邪気のない目で、まっすぐに。
歯車が欠けたカラクリのようだ。
そのままで、慎司は唱える。
「恐怖……」
何への。怒り。何への。
それじゃあ。柾は再び問いを口にする。
「あんたが持ってる、それは」
再び、慎司は手元へと目を落とす。
――――なんだろう。
なんだろう、これは。断面から血を滴らせて、黒い庭土の上にさらに黒い染みを広げるもの。赤く爆ぜた、醜い傷口をところどころに刻んで、歯の形を見せている。
動かない肉体。
「綾都は、寝ているのか」
苛むように問いかけは繰り返される。決して、問い詰めるようではない口調で、繰り返し追い詰める。そのくせ雨の中の人は、変わらず静穏な眼差しを向けてくる。
「綾都は」
考えてはいけない。
二度と開かない瞳のことなど。二度と開かない唇のことなど。
冷たい皮膚のことなど。血の流れる音がしない臓腑の事など。
あれはきっと、そのときのことを恐れるあまりに見てしまった夢なのだから。ひどく恐ろしい悪夢だ。
ぼくらが離れるなんて、ありえないもの。
「放っておいてください」
ぼくらは、同じものになったんだもの。
――でも、では、鬼の仕業は。
あの非道は、誰がしたものだと言うのだろう。眠りの域を侵し、人を傷つけ肉を食らい、命も尊厳をも奪い踏にじる、畜生のような所業は。
絶望に翻弄され、欲望の向くままに意志を失い抑えつけ、夜の誘いによろめき彷徨うなど、彼がすることではない。
綾都は、いつも毅然としていた。許諾できないことには真っ向から立ち向かった。気遣うことを知っていた。耐えることを知っていた。
明るく優しかった綾都が、そんなことをするはずがない。鬼に成り果てるわけがない。
では、綾都はここにはいないのか。
――そうではない。
そんなはずはない。
「あなたがおっしゃっていることが、分かりません」
あの出来事は、関わりのないところで起きたものだから。
「壊さなきゃ」
夜は苦悩。
後ろ暗い意識が浮上する。ふらふらと彷徨いだす。
だけど夜は救いだ。
偽る必要がもはやない。曖昧に揺れているものが開放される。月だけが静かに赦す。
――――壊しても、赦される。
「綾都が望んだのか。それを」
欺瞞を、怠慢に逃げる意識を、その一言がまたつなぎとめる。
「あんたが道を外れるのを、望んだのか。生きることを望んだんじゃないのか。だからあんたを否定したんじゃないのか」
「違う!」
喉の奥から悲鳴のような声がほとばしる。慎司の手から、人の残骸が零れ落ちた。
考えてはいけない。その考えがたどり着く先のことを、考えてはいけない。だけど本当は。
――知っている。
痛ましいまでの、突然の綾都の拒絶が、何を意味していたかなんて。
「違う」
一緒に、いるはずだから。
「だって、綾都が」
いない。
呼んでも応えてくれない。
いるはずなのに。
「綾都」
声を求めて呼ぶ。
「綾都。綾都、綾都」
狂ったように。浮かされるように。酔ったように。狂ったように。
どうして。
何も聞こえない。雨の音が邪魔して聞こえない。応えてくれているはずなのに。
壊さなくては。消さなくては。目の前のものを否定しなくては。
朽ちていく。
白い頬。凍りついた頬が脳裏を渦巻く。
二度と赤みのささない頬。青白い唇。強張った手。混濁する。目の前の緑と混濁して、催花雨に誤魔化されて、水の臭いに花の香にかき乱されて。咽返るような湿った空気の渦。
呼吸が忙しくなる。息を飲み込む間もなく、吐き出す。苦しい。
胃の腑がたぎる様だ。体の中の物が逆流する。身の内で蠢くものが拒絶する。飲み込んだものを、辿り着く意志を。
身を屈め、激しく嘔吐いて、黄色い液を地面の上にぶちまけた。
何も、受け入れられない。
汗が噴出し、何もかもを体の内から吐き出すように涙が噴出し、身を覆う雨にまみれて滴り落ちた。
咳き込みながら、再び笑いの渦が身の底から沸いてくる。嗤笑が。溢れて溢れて、庭の草木を浸していく。
喉が、張り裂けるように痛む。息が続かなくなり、眩暈に襲われて、声が止まった。体中の血がどこかへ消えたかのように、体が冴えた。
温度さえも、逃げていく。