堅く目をつぶってしまいたかった。
何もいない。いるはずがない。念じるけれど、見えてしまう。見えるものを否定したくて、目を閉ざしたいのに、それすら出来なかった。見開いた瞳は相手を凝視して、目蓋が落ちない。見えてしまう。気のせいだと懸命に思うけれど、存在は否定しきれなかった。
次第に心は、こっちへ来るな、と。気がつかないでくれ、言ってしまえと、祈っている。
大声をあげて助けを呼ぶことすら心に浮かばない。とにかく、いなくなってくれと、そればかり考えていた。
相手はこちらに気がついていないのか、歩き続けている。そして彼の願いが届いたのかどうか、『それ』は急にふと消えた。そのように見えた。
その事実に、何より男は驚く。心の臓が、体の内で跳ねた。
だけど、違う。屈んだのだ。
またざわめきが聞こえる。頭に響く自分の呼吸の音だ。やたらと大きく聞こえている。
こんなに大きな音をたてては相手に気づかれる、駄目だと思うのに、抑えることが出来ない。その、あえぐような呼吸を聞いていると、今度は違う物音が混ざりだしたのに気づく。
重い物を引きずるような音。そして、ザクザクと地面を掘る音。夜露の湿気を含んだ土の臭いが鼻を掠める。
大きく息を吸い、そのまま飲み込む。止めて、吐き出す。懸命に気を落ち着けようとした。
――――墓荒らしだ。
人間だ。
それに気づいた途端、改めて認識した途端、男は何かが外れたように、緊張がほぐれていくのを感じた。
人間でも、恐ろしいことに変わりはない。
こんな常軌を逸した行動を平気でやれるような人間を、恐ろしく思わないわけがない。
そう、何よりも恐ろしいものは人間だと、思った。
でも、生身だ。向かってこられても、自分と同じに、殴られれば痛がる人間だ。
ようやく彼は、自分がここにいる理由を思い出していた。自分は見張りで、しかもごく近い距離に別の見張りの人もいる。大声を出せば駆けつけてくる。
勇気を奮い起こして立ち上がると、男は物音が聞こえる方へ歩き始めた。まだ拳は震えていたし、地面を踏みしめる足が音をたてないように、気を払う余裕もなかったが。
近づくにつれて、相手の様子が見えてくる。
土の臭いとまた異なる異臭が鼻を突いた。仄かな月明かりは、淡く、墓の石と人の姿を浮かび上がらせている。
墓石が並ぶ突起物だらけの隙間の道に、動かされた墓石のもと、這い蹲るように人がいた。
土の地面にかがみこんでいる。小柄な人物の横には、掘り起こされた地面の土が盛り上がっていた。
相手は、夢中に何かをしている。
ガリガリと時々音をさせて地面を削り、体を揺さぶり、何かをしている。そのせいで、男のことなど、まるで気がついていないようだった。
確かここは、先日埋葬されたばかりの墓だ。
小さな少女が、日の落ちた時刻にふらりと外へ出て、そのまま帰らなくなった。
外で鳴く猫の声を気にしていたから、目を離した隙に探しに行ったのかもしれないと、親はたいそう嘆き悲しみ、そしてここを特に見張るようにと言われていた。
まだ新しい、死の気配。これも、ようやく腐り始めた頃の死体。
そんなものを掘り起こして一体どうするのだ。訳の分からないものへの恐怖が、再び浮上してきている。
じりじりと歩を進める。異臭が強くなる。堪えきれずに、袖口鼻を覆う。
しゃがみ込んだ人物から十歩の距離。走れば、一、二秒という距離で男は足を止めた。
これ以上は前に行けない。行かなくても十分だと無理矢理言い訳した。
逃げようとしたら駆けて行って捕まえればいい。それまで、少しでも距離を保っていたい。
自分の身を守ることもできる距離。
「おい」
強く吐き出したはずの声は、思いの外弱かった。緊張のあまりに喉の奥が震えていた。むしろ、声が出たことそのものが奇跡のようなものだった。上ずって、空回りして落ちる。
けれど、それで十分だった。
相手が素早く振り返る。しゃがんだまま上体をひねって、男を見た。
――――声が、出なかった。
つばを飲み込んで、息を吸って、今まさに声を出そうとしていたはずなのに、空気すら出なかった。
振り返った相手の顔も見ているはずなのに、見えない。ぼさぼさに伸びた髪が影になっているからか、夜、しかも月の影になる位置にいたからか。
そんなもの。
たとえ視界に入っていたとしても、視線が捕らえていたとしても、記憶には残らなかっただろう。残り得なかった。
やけに白い膚が青く光る。その口元。泥に汚れた、その口。
白い骨がくわえられていた。爛れた肉のこびりついた骨が、まるで犬のように。
そのまま、お互い探るように動きを止めた。呼吸の音だけが再び大きく耳に響く。
濃い夜の闇、深い黄泉の淵を、月の光がか細く暴き出している。
ふと、風が吹いた。唐突に、それに背を押されたかのように、小柄な人影が走り出した。口に骨をくわえたまま、食いつくように見ていた男の視線を振り切るように。
信じられないほど、人間とは思えないほどの軽やかな動きで、墓石の合間を駆け抜けていく。闇の向こうに消えていった。
男の足下に、食い残された、腐った死体を残して。
何もいない。いるはずがない。念じるけれど、見えてしまう。見えるものを否定したくて、目を閉ざしたいのに、それすら出来なかった。見開いた瞳は相手を凝視して、目蓋が落ちない。見えてしまう。気のせいだと懸命に思うけれど、存在は否定しきれなかった。
次第に心は、こっちへ来るな、と。気がつかないでくれ、言ってしまえと、祈っている。
大声をあげて助けを呼ぶことすら心に浮かばない。とにかく、いなくなってくれと、そればかり考えていた。
相手はこちらに気がついていないのか、歩き続けている。そして彼の願いが届いたのかどうか、『それ』は急にふと消えた。そのように見えた。
その事実に、何より男は驚く。心の臓が、体の内で跳ねた。
だけど、違う。屈んだのだ。
またざわめきが聞こえる。頭に響く自分の呼吸の音だ。やたらと大きく聞こえている。
こんなに大きな音をたてては相手に気づかれる、駄目だと思うのに、抑えることが出来ない。その、あえぐような呼吸を聞いていると、今度は違う物音が混ざりだしたのに気づく。
重い物を引きずるような音。そして、ザクザクと地面を掘る音。夜露の湿気を含んだ土の臭いが鼻を掠める。
大きく息を吸い、そのまま飲み込む。止めて、吐き出す。懸命に気を落ち着けようとした。
――――墓荒らしだ。
人間だ。
それに気づいた途端、改めて認識した途端、男は何かが外れたように、緊張がほぐれていくのを感じた。
人間でも、恐ろしいことに変わりはない。
こんな常軌を逸した行動を平気でやれるような人間を、恐ろしく思わないわけがない。
そう、何よりも恐ろしいものは人間だと、思った。
でも、生身だ。向かってこられても、自分と同じに、殴られれば痛がる人間だ。
ようやく彼は、自分がここにいる理由を思い出していた。自分は見張りで、しかもごく近い距離に別の見張りの人もいる。大声を出せば駆けつけてくる。
勇気を奮い起こして立ち上がると、男は物音が聞こえる方へ歩き始めた。まだ拳は震えていたし、地面を踏みしめる足が音をたてないように、気を払う余裕もなかったが。
近づくにつれて、相手の様子が見えてくる。
土の臭いとまた異なる異臭が鼻を突いた。仄かな月明かりは、淡く、墓の石と人の姿を浮かび上がらせている。
墓石が並ぶ突起物だらけの隙間の道に、動かされた墓石のもと、這い蹲るように人がいた。
土の地面にかがみこんでいる。小柄な人物の横には、掘り起こされた地面の土が盛り上がっていた。
相手は、夢中に何かをしている。
ガリガリと時々音をさせて地面を削り、体を揺さぶり、何かをしている。そのせいで、男のことなど、まるで気がついていないようだった。
確かここは、先日埋葬されたばかりの墓だ。
小さな少女が、日の落ちた時刻にふらりと外へ出て、そのまま帰らなくなった。
外で鳴く猫の声を気にしていたから、目を離した隙に探しに行ったのかもしれないと、親はたいそう嘆き悲しみ、そしてここを特に見張るようにと言われていた。
まだ新しい、死の気配。これも、ようやく腐り始めた頃の死体。
そんなものを掘り起こして一体どうするのだ。訳の分からないものへの恐怖が、再び浮上してきている。
じりじりと歩を進める。異臭が強くなる。堪えきれずに、袖口鼻を覆う。
しゃがみ込んだ人物から十歩の距離。走れば、一、二秒という距離で男は足を止めた。
これ以上は前に行けない。行かなくても十分だと無理矢理言い訳した。
逃げようとしたら駆けて行って捕まえればいい。それまで、少しでも距離を保っていたい。
自分の身を守ることもできる距離。
「おい」
強く吐き出したはずの声は、思いの外弱かった。緊張のあまりに喉の奥が震えていた。むしろ、声が出たことそのものが奇跡のようなものだった。上ずって、空回りして落ちる。
けれど、それで十分だった。
相手が素早く振り返る。しゃがんだまま上体をひねって、男を見た。
――――声が、出なかった。
つばを飲み込んで、息を吸って、今まさに声を出そうとしていたはずなのに、空気すら出なかった。
振り返った相手の顔も見ているはずなのに、見えない。ぼさぼさに伸びた髪が影になっているからか、夜、しかも月の影になる位置にいたからか。
そんなもの。
たとえ視界に入っていたとしても、視線が捕らえていたとしても、記憶には残らなかっただろう。残り得なかった。
やけに白い膚が青く光る。その口元。泥に汚れた、その口。
白い骨がくわえられていた。爛れた肉のこびりついた骨が、まるで犬のように。
そのまま、お互い探るように動きを止めた。呼吸の音だけが再び大きく耳に響く。
濃い夜の闇、深い黄泉の淵を、月の光がか細く暴き出している。
ふと、風が吹いた。唐突に、それに背を押されたかのように、小柄な人影が走り出した。口に骨をくわえたまま、食いつくように見ていた男の視線を振り切るように。
信じられないほど、人間とは思えないほどの軽やかな動きで、墓石の合間を駆け抜けていく。闇の向こうに消えていった。
男の足下に、食い残された、腐った死体を残して。