怪我人の手当てのため、数人が男を戸板に載せて去って行った後には、奇妙な沈黙が残った。
地面に倒れ伏し、すでに絶命している旅人の周囲に、皆が立ち尽くしている。
その間に、雲が、月を薄く覆ってしまったようだった。月明かりが霞み、照らし出すものが瓦斯灯だけになって、また夜が濃くなる。そして、雨が降り出した。
ぽつりぽつりと天からの雫が彼らをなでる。
日が暮れると人の姿が見えなくなる。黄昏時には、あやかしですら、人に見える。惑わされる。更に夜もふければ。照らす月が、杳杳と雲の薄幕に、やわくさえぎられる。
雨垂れは、人の目を狂わす。雨は、天と地をつないで。境界すらも取り混ぜて。
「お前、見たよな」
同意を求める声が、横から柾にかけられる。
「何を」
わざわざ問い返され、相手は束の間詰まり、結局口にした。
「あれが、何だったか」
「ああ」
柾は、薄く笑みを浮かべた。
「人間だったな」
「それはそうだろうが。そうじゃなくて」
あれは、誰だったのか。相手は最後まで言い切れなかった。
「なんだ」
苦笑気味に、柾は言葉をせかす。相手は、遺体に向けていた目をひきはがし、柾の方へと向ける。
襲われ、命を取り留めたもう一人は、見るからにおびえていた。痛みのせいもあるのだろうが、大声でわめき続けていた。
それなのに。同じように襲われたのに、動転もせず、怒るでもなく、平然として見える柾に、町の男は気味悪く感じたようだった。無意識の動きで、後ろに下がる。
「お前平気なのか」
「ああ、二度目だしなあ」
「それもそうだが……」
気弱く声を残し、男は肩をすぼめるようにして、他の人間のところへそそくさと去っていった。
柾はただ苦笑し、それを見送る。
「……腕が無い」
別のところから声があがった。立ち尽くして、遺体を覆うこともできずに、ひそひそと声をかわしていた人たちが、再び黙り込む。
倒れた遺体のまわりには、血の海が広がっている。周囲を踏み荒らした裸足の跡が残っている。
その遺体の、左腕が無い。
点々と、血の跡が続いている。そして、赤い足跡。
それだけでもう、決定打になるには十分だった。
鬼、と誰かが声を上げる。
「おい、人を集めろ」
別の誰かが、ひときわ大きな声を上げた。
血の足跡は、山へと続いている。
「武器を持って来い、これを辿れば追える」
犯人が誰かもう分かっているはずなのに、あえてそれを口にしないで、人々は怒りを叫びだした。
墓を荒らし、屍肉を食らう盗人。人を襲い、その血肉を食らうものなど、人の技なものか、と。ならば相手は人ではないものだ。追い出さなければならない。
鬼の仕業だ。殺して始末して、平穏を取り戻さなければならない。復讐を。
周囲の人たちの、囁くようだった疑惑、恐れの声は、徐々に怒号へと変わりつつある。
得体の知れないものへの恐怖。常軌を逸したものへの恐怖。彼らこそが狂気の塊になりながら、騒ぎを聞いて駆けつけた人間にまた感染していく。
「時間の問題とは思ってたけどな」
人の群れから下がり、遠巻きに見やりながら、柾は怒号の中ひっそりとつぶやいた。
「それでまた襲われてたら、世話ないね」
不機嫌な声が隣で聞こえて、柾は慌てて顔を向け、両手を挙げた。
「今回は、無傷です」
睨み付けてくる凜に、柾は「ほら」と掌を振って見せる。そのあまりにも暢気な仕種に、凜は眉根を寄せる。
「どうして柾は、そうやって変なものを引き寄せるかな」
「さあ、なんでだろう」
答えは変わらず、茫洋としている。いつもこうやって、掴み所が無い。相手を余計苛立たせることが分かっているくせに。
凜はますます不機嫌に染まった顔で言った。
「で、どうするわけ」
「どうもこうも、放っておけないしな」
手を下ろして、柾は和やかに笑う。だけど凜は、苛立ちを増した目で見上げた。
「無駄だと思うけどね。行ったところで」
「いや、俺もあの集団に真っ向からぶつかろうとは思ってないけど」
顔を巡らせて、人々が、燭や、小雨に揺らぐ松明を持って集うのを見る。
「そういう意味じゃないだろ。はぐらかすな」
凜は柾に指を突きつける。
「正気があって、自分に執着がある人間は、ここまで馬鹿な事しないと思うけど」
「えらく、確信があるね」
「柾よりも、ぼくの方が繊細だから、想像もつくってだけの話」
「そうですか」
納得した様子も無いが、柾はやはりただ笑う。そして、そのままで続けた。
「凜は、残れ」
「またひとりでそういう、勝手な行動をとろうとする」
「こういうときは、ひとりで動いた方が早いってだけで、変な意味は無いんだけど」
「邪魔だって言ってる時点で、変な意味だと思うけどね」
「いや、邪魔ってわけじゃなくて」
集う人の数は、今まで闇に沈んでいた反動で、あまりにも多い。そして、強い。湿り気と一緒に、熱気と一緒に、人のむせるような感情までもが強く向かってくる。
「やっぱり、先に町を出てて」
柾は、軽く口にした。
「ますます、ぼくを怒らせる気」
「俺がどうにかなると思うのか」
「どうにかなるような事態に突っ込んでいこうとしてたら、もっと怒ってるって、分かって言ってるの」
目を戻して見ると、怒りと呆れにまみれた表情で、凜は蛾眉を寄せている。
「馬鹿は殺しても死なないことくらい、知ってる」
いつも感情に溢れ、生き生きとした目は、強く柾に据えられている。
「柾が面倒ごとに首を突っ込みたがるのは、重々承知だけど。いい加減、ぼくは菩薩にもなれると思うけど、どうかな」
「悟りを開けそうか」
言われた皮肉にも、柾はくつくつと笑った。その顔に凜は眉をつりあげ、大仰に息を吐いて、腰に手を当てる。