静寂の中を悲鳴が響き渡った。赤い潮が吹く。空気が(ぬる)く熱を持つ。鉄錆の臭いが花の香を乱す。

 雨のように降りかかるものに目を細め、それに気づいて、再び悲鳴をあげた。柾が、ではない。
 凛は大きな目を見開いて、あふれる柾の血を見て悲鳴をあげた。後ろから迫ってくるものに凜も気づかなかった。斬りつけられ、傷口を抑えて後ずさった柾を見て、そして相手を見た。

「この……!」
 小柄な人影が、照らし出されて立っている。血塗れた刃を持って。刀というには短い。そのくせ拵えがちゃんとしている。脇差だ。
 滅多な人間はあんなもの持たない。特に、町の人間は。

 ――まさか。
 柾は再び驚き相手を見る。けれど瓦斯灯に頭上を照らし出され、俯く人の顔は見えない。ざんばらに顔にかかった前髪が、濃い陰影が、縁取って隠している。

 そして『それ』は、無造作に、再び刃を振り上げた。刃に付着していた赤い飛沫が散る。
 凜が柾の前に出ようとして、これをまた無造作に、柾が傷口を抑えていない側の手で押しのける。よろめいた凜は驚き、それからムッとした顔で柾を見た。その間にも、凶刃は柾を襲う。

 首から溢れる血を抑えていた手を解いて、迷い無く腕で刃を受けた。骨に当たって固い音が響く。再び血が重吹(しぶ)いた。

「この、大馬鹿」
 凜が叫ぶ。割って入ろうとするのに気づいて、柾が、駄目だと言葉を返そうとしたが、目の前の相手が動く方が早かった。
 唐突に刃を引いて後ろに下がる。その動きには、やはり執着のようなものが見えない。

 人を襲いながらも、傷つけることへためらいや、逆に獲物を逃がすことへの躊躇や、そういうものがまるで感じられない。何か、希薄で。――だから、気配に気づかなかったのか。
 けれど、何故いきなり身を引いたのか分からない。思った耳に人の声が聞こえた。途端に、締めきられたようだった意識が開ける。足音が聞こえる。一つや二つではない。

 誰か駆けつけてくる。思ったときには、人影は、くるりと背を向けて走り出していた。
 凜はその背を、苛立たしげな舌打ちひとつで見送り、柾の元に駆け寄ってくる。柾は首元の傷をきつく抑え、立っていられなくて地面に膝をついた。
 さすがに目の前が揺らいでいた。血が溢れていくのと一緒に、目の前が暗くなっていくようだ。

「この大馬鹿」
 立ち尽くしたままで凜が再び、柾に向かって怒鳴りつける。柾の血に濡れた手は、身なりに気を遣う凜の着物を汚したが、凜はそれに気づいた様子も無い。思わず笑ってしまった。

「何笑ってんだよ、本当に、頭おかしいんじゃないの」
「いや、その」
「怪我してなかったら、ぼくがぶちのめしてるのに」
「いや……ごめん」
「あんたがやられてんのに、ぼくを庇ってどうするのさ。意味分からないよ」
 烈火のように怒鳴りつけてくる。平静であれば、こんな時間にやめなさいと叱るところだが、この時ばかりは柾に分が悪かった。愁傷にしていると、細いため息が落ちてきた。

「傷は」
 眉をひそめて凜が問う。柾は痛みをこらえて傷を抑えた手元に目を向け、それから軽く笑った。
「大したことない」
「その血の量で」
「いや、ほんと」
「ばっくりやられてただろ」
「ああ、うん、確かに、一日くらいは休まないとまずいかもしれないけど」
「世話が焼けるよ、本当に」

 ああ、凜に言われてしまったな、と心の中で笑う。だがこれも今日ばかりは仕方ない。凜が顔を上げて、先へ目を向けている。
 ばらばらと人が駆けてくるのが分かった。先程まであんなに静かだったのに。

「用意のいいことで」
 唇をゆがめて、凜がつぶやく。
「町の人間か」
「他に考えられないけどね」
 吐き捨てるような声に、変に騒ぎ立てないでくれよ、と心の中で頼み込んでいた。

 いきなり襲われて、すぐにたくさんの人間が駆けつけてきて。尋常の事とは思えない。刺激するのは得策でない。凜だって分かっているだろうが、普段でさえ過激なところがあるのに、これだけ怒っていては、どうか分からない。
 柾は少しふらつきながら立ち上がる。必要以上に弱みを見せて干渉されたくなかった。